本日は旧暦5月26日ですが、貞観十一年(869年)五月二十六日は貞観地震が起きた日です。

※単純に旧暦にあてはめています。

 

東日本大震災が起きた時に、千年に一度の地震と言われたのは1154年前に起きた貞観地震があったからです。しかも陸奥国での発生です。陸奥とは「みちのおく」から転じた言葉で、ほぼ現在の東北地方に相当する地域の古名です。

 

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この時の天皇は清和天皇で、陸奥国と常陸国の国境が最大の被災地であるとの詔を発しましたが、その詔について2017年に発売された正論SP2に書かれています。

 

その内容は以下のような趣旨だったとのこと。
イ.地震の際に徳のある君主は自らの罪とした
ロ.自分は徳を修めてまつりごとに臨みたいと考えてきた
ハ.陸奥の大地震の罪は自分にある
二.日本人だろうと外国人であろうと災害を受けたものからは税金をとらない
ホ.私自身が被災者を思う気持ちを対して被災者の世話をしてほしい

 

これは東日本大震災の時の上皇陛下の御心と通じるものがあるとあります。

 

平成になってから大きな天変地異が相次いだのはご存知の通りですが、令和になってもまだ続いています。大規模な土石流が起きたり、大きな地震が起きたりしました。先日も九州で大雨のための災害が起き、今もまた雨による警戒が続いています。

 

清和天皇のような思し召しは御歴代の天皇共通のものですが、大規模な自然災害は周期的に起きてきたとはいえこのような天災が相次ぐ時代に巡り合わせてしまった天皇の御心情はいかばかりであったか、そしてそれは上皇陛下、天皇陛下もご同様だと思います。

 

この清和天皇の前後は、天変地異が多かった時代だとしてその例も載せられています。

第56代清和天皇:貞観地震他の地震が18回、噴火2回、干ばつ・風水害3回
第57代陽成天皇:地震29回
第58代光考天皇:地震3回、噴火2回、干ばつ・風水害など2回
第59代宇多天皇:地震24回

 

この間約30年ですが、こうしたことが続いたことから清和天皇は譲位されたともいわれ、後に出家され畿内を行幸されました。御譲位された時は満年齢で29歳ですから体力もあってのことかと思います。

 

 

そしてこうした時代が続いたことが清和天皇の曽祖父の嵯峨天皇の時代に始められた四方拝を、清和天皇の三代後の宇多天皇が儀式として定着させるきっかけになったといいます。清和天皇の三代後というと随分後の御代のように思えるかもしれませんが、清和天皇と宇多天皇は従兄弟の間柄で17歳違いのお生まれとなっており、貞観地震が起きた時の宇多天皇は数えで三歳のご年齢でしたから、上記の天変地異の時代に成長された天皇なのです。

 

四方拝とは正月元旦の夜明け前に天皇陛下が祈られる儀式で、寛平二年(890年)元旦から今に続く宮中祭祀です。

 

この祈りの現代語訳とはこうです。
「盗賊の災いが国民に降りかからず我が身を通過しますように。毒の災いが国民に降りかからず我が身を通過しますように。危難が国民に降りかからず我が身を通過しますように。五つの陥りやすい危険や君臣・親子の対立など六害は国民に降りかからず我が身を通過しますように。あらゆる病を癒し、私の欲していること悩んでいることを早く実現してほしい。」

 

一読して分かるように、この祈りは天皇が国民に降りかかる禍を一身に引き受け浄化させようとする、天変地異をまさに御自身の責任とされた内容であり、これこそが国民を大御宝とする大御心の表れだと思います。

 

この四方拝がいかに重要であったかは、昭和天皇が戦時中の空襲のさ中、夜が明けてしまうのを心配しながらも実施されたことからも伝わります。戦時中であったからこそ四方拝は絶対に行わなければならなかったのです。

 

 

以前、東京工業大学のグループによって土木学会で発表されたという論文がネット上で話題になりました。それは「スサノオ神を祀る神社は、東日本大震災で津波の被害を免れた」という主旨で書かれたものです。

また当ブログでは、東日本大震災の際に寺社の被害、特に神社の被害が少なかったことを調べた方について取り上げたことがありますが、その熊谷航さんは後にそれを本にされてらっしゃいます。

 

 

 

大まかにいえばこちらの本では、神社の由緒が古くなるほど被害が少なかったことがわかったとありました。それはなんらかの被害にあったことがあった場合、より良い立地の場所に移転されていたからです。また災害を伝えるための神社も中にはありました。

 

東工大のグループでの調査では御祭神により被害が違っていたことがわかったといいます。その研究成果は、「東日本大震災の津波被害における神社の祭神とその空間的配置に関する研究」という論文にまとめられ、土木学会での発表を経て、2012年の土木学会論文集に掲載されたそうです。

 

ではなぜスサノオに関連する神社が津波被害を免れたかというとその理由は「スサノオは斐伊川(ひいかわ)に住むヤマタノオロチを退治したと古事記にありますが、川の氾濫を例えた話といわれます。スサノオは水害など自然災害、震災を治める神だからこそ、そうした災いに遭わない場所に祀られたと考えられるのです」ということ。元々立地を考えられて造られた神社だったわけです。そしてこちらでも過去になんらかの被害があった場合はより良い立地に移転をしていたことがあげられています。

 

御祭神別の津波被害を逃れた神社は、以下となっており、熊野神社、八幡神社についても考察されています。

1.スサノオ系神社

2.熊野系神社

3.八幡系神社

 

そして被災した神社は、稲荷系とアマテラス系が多く、稲荷系については穀物の神であることからの立地によるものだろうとしていましたが、アマテラス系については要因がわからないと記載されています。

 

東工大のメンバーはさらに調査範囲を広げ、南海トラフ地震等による被害リスクも調べています。それによると、四国の沿岸部にある神社で、高知県では555社、徳島県では308社が津波を回避しうる立地にあることがわかったそうです。こうした事例も考えて、自分の住んでいる地域の避難所を検討してみるのもいいかもしれません。神社が万全というわけではありませんので、現在の状況と立地を考えて検討することが望ましいことだと思います。

 

地震をはじめ大きな災害があった時には、地名や碑、あるいは言い伝えなど後の世の人々のために先人達が警告を残していることが生かされたり、あるいは生かされなかったことが、近年災害の度に注目されています。警告のための地名を変えたりして自然災害にあったりしたことがニュースで大きく報じられたこともありました。碑に書かれてある事を守って災害に遭わなかった地域や、言い伝えを思い出して逃げて難を逃れた人達の話も多くあります。

 

こうしたことは、機会がある度に何度でも何度でも語り継ぐべきことだと思います。こうしたことを伝え、災害教育を行って行くことが次の災害時の被災を最小限に抑えるためにも今を生きる私達の務めではないでしょうか。
 

そしてこうしたことを伝える時に、我が事のように心配なさり祈られる天皇の御存在があり、宮中祭祀までをも変えまたそれを維持してきた御歴代の天皇がいらっしゃることを伝えて行くこともまた大切なのではないかと思います。それも自然災害の多い我が国の歴史であるからです。

 

先人達は未来の私たちの為に危険を知らせる、また困難を乗り切るために様々なものを様々な形で残してくれました。そうしたものを生かしていくことが、災害の多い和が国ではいつの時代も変わらない町づくり、国造りになっているのだと思いますが、そうしたことをおろそかにしてきた面もあってそれが残念なことにこうした災害が起きた時に出てしまっているのかもしれず、今後の教訓になっていくのではないかと思います。長い日本の歴史のなかでこうした災害が起きないように例えば山の状態を保ち世話をしてきたのが我が国であり、そうした山の価値が改めて今見直されて始めています。しかし一方で、そうした山を売り払い、どんどんむやみに山を削り太陽光発電の設置をしてもいます。静岡の考えられないような大きな土石流は、盛り土が原因との発表がありましたが、鬼怒川水害の際にはメガソーラーのために削られた箇所が被害を大きくしていました。実際このようなことが起きれば被害に遭うのは私たちです。太陽光発電が原因で各地で被害が出ていることはニュースで隠されていても、今のような時代写真付きでネットにすぐアップされています。太陽光発電事態は、昭和の中頃からあって舎の私の家の近所にも何軒か屋根の上についている家がありました。しかし、いつになってもそうした家が増えることはなく、なぜ大々的に利用されないのか?若い頃はそれが不思議でした。太陽光発電をもっと利用すればいいのに、とよく考えていたのです。それは高額だからと単純に考えていましたが、今となってはこうした様々な要因があったからこそ普及させなかったのだと、考えるようになっています。ところが、海外企業が入ってきて政治も絡めてあっという間に強引に普及させてしまった。良いもの(と思えるのに)普及しないものには、必ず理由があるのだ、ということを私たちは改めてもっと深く考えるべきではないかと思います。

 

 

『天災から日本史を読みなおす 先人に学ぶ防災』は磯田道史氏がライフワークとされている過去の災害を現在に活かすための探求の成果です。地元の静岡をはじめ各地の当時の資料を当たっているのが素晴らしいです。

 

 

 

 

 

 

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