第四十九代光仁天皇は奈良時代末期の天皇です。

 

和銅二年(709年)生。

 

御名は白壁(しらかべ)。

 

御父は天智天皇の皇子の施基皇子(しきのみこ)/春日宮天皇(かすがのみやのすめらみこと)です。御母は紀橡姫(きのとちひめ)。

 

在位、宝亀元年(770年)から天応元年(781年)。


第四十八代称徳天皇が崩御されると、群臣の推挙により白壁王が皇太子に立てられました。皇太子は称徳天皇の下で権勢を誇っていた道鏡を左遷したのち即位しましたが、その時の御歳六十二歳。記録が確かな時代以降の天皇では最高齢での即位といいます。また白壁王の即位により、天武系から天智系へ皇統が代わりました。以後皇統は現在に至るまで天智系となるのです。

 

皇后となったのは、聖武天皇の皇女の井上(いのえ)内親王で、称徳天皇の姉です。井上内親王は伊勢神宮の斎王を勤めたあと、弟の死により任を解かれ白壁王の妃となり、内親王と親王が産まれていました。その他戸(おさべ)親王が皇太子となります。聖武天皇の血を引く他戸部親王は母系ではありますが天武天皇の血を引く皇子でもありましたから、称徳天皇が崩御される前から、天智・天武両方の血を引く皇子として注目されており当然のこととして立太子されたのです。天智系の光仁天皇が推されたのは、他戸親王への中継ぎの天皇といういう意味もあったのです。

 

ところが井上皇后が天皇を呪詛したとの疑いがもたれ、廃后とされ他戸親王も皇太子を廃されました。その後幽閉された二人は同じ日に薨去されています。皇后と皇太子に天皇を呪詛する理由はありませんから、次の皇太子になった山部親王を推す藤原百川らの陰謀があったと言われています。また天智系と天武系の最後の争いであったともいいます。

 

 

そしてこれらの事件は、その後の朝廷に影を落としていきます。二人の亡くなった翌年天災地変が続くと廃后・廃太子の怨霊と恐れられ、天皇は遺骨を改葬させ墓を御墓と追称しました。さらに次の桓武天皇の時代の延歴十九年(800年)には、皇后の追号及び御墓を山稜と追称。

 

他戸親王が廃されたあと皇太子に立てられたのは山部親王、後の桓武天皇ですが、桓武天皇は井上皇后と他戸親王の御霊のために霊安寺を建立し、その隣には親王を祀る御霊神社も創祀し、皇太后の追号も御霊鎮めも行っていくのです。


 光仁天皇は宝亀十二年(781年)四月譲位し、十二月に病のため崩御されました。


光仁天皇の諡号にある光は、転換期の天皇の通字となっていますが、その始まりは光仁天皇であり、天武系から天智系と変わったため選ばれた字といわれています。

 

御陵は田原東陵、奈良市日笠町にあります。

 

なお、現在天皇誕生日といわれる天長節は唐の時代に玄宗皇帝の誕生日を祝ったことに由来する日で、日本においては光仁天皇の時代に天長節の儀が行われ宴を賜ったことが始まりとされています。

 

 

第百十三代東山天皇は江戸時代、治世は徳川綱吉の頃の天皇です。

 

延宝三年(1675年)生。

 

御名は朝仁(あさひと)、五宮(ごのみや)。

 

御父は霊元天皇、御母は松木宗子。

 

在位、貞享四年(1687年)から宝永六年(1709年)。

 

朝仁親王は八歳で儲君(ちょくん:皇位を継承する君)に定められ、翌年立太子、十三歳で霊元天皇の譲位により即位されました。


霊元天皇はその親政において途絶えていた朝廷儀式の再興をはかっており、朝仁親王の即位には二百年以上途絶えていた大嘗祭を復活させようと幕府にかけあいましたが援助がなく、それでも簡略ながら復活しての即位となりました。


大嘗祭は、天皇の君臨と国民の奉賛を古来の生業を介して確認するための大切な祭儀で、また天皇が神性を獲得する大切な儀式でもあるからこそ、途絶えていた間の歴代の天皇の悲願にもなっていました。

 

霊元上皇は譲位後も院政をしき、幕府との間に東山天皇が立つ形になりましたが、父とは逆の穏和な性格で朝幕関係が改善したといいます。

 

在位中は徳川綱吉の将軍期間と重なり、赤穂浅野内匠頭の松の廊下での刃傷事件が起きた時は、東山天皇が江戸へ派遣した勅使の接待の時でした。

 

朝廷との儀式を台無しにされたことで綱吉が激怒し、浅野内匠頭が即日切腹にされたのは有名です。

 

しかしその一方で東山天皇は、焼失した内裏の修理を行った赤穂藩に好意を抱いておられたのに対し、幕府の威を背景にして後西天皇へ譲位を迫るなど様々な政治に関わった吉良上野介には不快感を抱いておられたようで、事件後なんの介入もなしに傍観し浅野内匠頭や浅野家を見殺しにしたのは良くないと、帰洛した勅使及び院使らを参内禁止処分にしています。翌年元禄十五年十二月十四日 ( 1703年 1月30日 )に赤穂浪士の吉良邸討ち入り事件が起き、吉良上野介は討ち取られました。これが後に歌舞伎などに取り上げれた赤穂浪士の物語となります。

 

また、この時代には後に日本独自の暦を作成する渋川春海が天文台を建造しています。なお、この渋川晴海が日本での紀元の算出を最初に行ったといいます。

 

葛飾北斎の描いた浅草天文台

 

御在位中には、元禄大地震をはじめとする地震や、浅間山や阿蘇の噴火など自然災害が多く発生しました。

 

三十五歳で皇太子の慶仁(やすひと)親王へ譲位後、霊元法皇を抑える形で院政を始めますが、同年宝永六年(1709年)末崩御(西暦では1710年の初め)。

 

翌年には遺言により閑院宮家が創立され、皇子の直仁(なおひと)親王が入りました。後に光格天皇が閑院宮家から即位され、今上天皇へと繋がっていきます。


御陵は 月輪陵、京都市東山区今熊野泉山町、泉涌寺(せんにゅうじ)内にあります。

 

 

参照:「宮中祭祀」
「天皇のすべて」
「歴代天皇事典」
「怨霊になった天皇」
「歴代天皇で読む日本の正史」

 


渋川春海が描かれた「天地明察」

 

原作があまりにも面白かったので危惧していた映画ですが、映画も面白かった。それは当時を再現した視覚化が大きいと公開当時思ったものです。

当時のオールスターが豪華な忠臣蔵映画。萬屋金之助さんが大石内蔵助の深作欣二版です。私は子供の頃から時代劇ファンで、萬屋金之助さんの初期の頃からの時代劇が大好きという子供でした。この映画の頃の時代劇映画復活の時代も歓迎していました。三船敏郎さん、千葉真一さん、近藤正臣さん原田美枝子さんとか豪華な時代、映画です。

 

本日は皇統の危機を感じさせる時代の光仁天皇とそのため宮家を創設されることになった東山天皇の祭日が重なった日でした。現在日本もそうした危機の中にいるわけですが、だからこそ現代日本人こそがきちんとした天皇、皇室についての知識を深めることが、無知に付け込む輩に対抗できる唯一無二の手段だと考えています。我が国はシラスという叡智で数々の危機を乗り越えてきた国です。

 

 

 

 

 

 

 

 

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