聖書の言葉を気軽に読もう

 「聖書」

素晴らしい言葉の宝庫だと思っています。みなさんとその楽しさを分かち合いたいと思い、ブログを書いています。

 σ(・ω・*)オイラはクリスチャンですが、牧師や宣教師ではありません。純粋に「聖書」に触れて、いいなぁと思っています。「聖書」の言葉はいろいろな解釈があると思いますが、このブログでは「σ(・ω・*)オイラの勝手な解釈」を綴っていきたいと思っています。


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神聖法集

今回から何回かに分けて、「レビ記17-26章」の神聖法集について考えてみようと思います。


『イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。・・・血はその中の命によって贖いをするのである。』 (レビ記 17章10-11節)

“If any Israelites or any foreingners living in the community eat meat with blood still in it, the LORD will turn against them and no longer consider them his people. The life of every living thing is in the blood, and that is why the LORD has commanded that all people's sins. Blood, which is life ,takes any sins.”


 みなさんはご存知でしょうか。あるクリスチャンの1宗派では、輸血が禁じられているということを。その答えのひとつがこの今日の言葉に含まれています。「生き物の命は血の中にある」からだということでしょう。ですから、血にかかわることを避けているのです。

 さて、ここに「贖い(あがな・い)」という言葉が出てきていますが、広辞苑を開くと「(罪などの)代わりをすること。また、その代わりとなるもの。つぐない。」と書いてあります。ですから、血そのものの中の命が、替わりになるものとなるということになるわけです。実際に、イエスの贖いも血によるものだったことはお判りでしょう。イエスが流された命の血によってのみ、人類がアダムのときのようになる道を開いたのです。

人に必要なもの

『イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。』 (ルカよる福音書 4章4節)

“But jesus answered, “The scripture says, ‘Human beings cannot live on bread alone.’””


 さて今日の言葉の中で、イエスが述べていることは何を意味しているのでしょうか、、まただれに向けて言っているのでしょうか、背景を見てみましょう。


 ルカ4章を目で追っていきますと、ここでは洗礼を受けたイエスが「悪魔」から誘惑されている場面だということがわかります。そして、空腹を覚えられたイエスに対して、「神の子なら、この石をパンになるように命じたらどうだ。」と悪魔がイエスに言った返答として、今日の言葉を述べたのです。もちろん悪魔は、イエスが神の子であるということを知っていましたし、イエスは石をパンに変えることもできました。それでもイエスがそうしなかったのは、イエスは神のご意志を行うためにこの世に降り立ったということを認識していたからです。


 ですから、ここで「パンだけに」といわれている背景には、神のご意志のために生きる、ということが包含されているものだと考えられます。イエスは神のご意志のために奇跡を用いるのであって、決して自分の思うがままにそうするのではないということを理解していたものと思われます。ですから、イエスに対して信仰を抱いているものとしては、イエスの模範に習うことが要求されているわけですから、もし自分がクリスチャン生活を送っていたとして、あなたの教会では、何を教えているのか、牧師はパンによって生きてはいないかを吟味してみることが必要でしょう。真の崇拝は、イエスに、そして唯一神に向けてなされなければならないのですから。

どうして人間って死んじゃうの?

『生きているものは、少なくとも知っている、自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく、彼らの名は忘れられる。』 (コヘレトの言葉 9章5節)

“For the living know that they will die; But the dead know nothing, And they have no more reward, For the memory of them is forgotton.”


 人はなぜ死ぬのか、死んだらどうなるのかということを説明するときによく使われる言葉です。現在の世の中では、残念ながらすべての生きているものには「死」が待ち受けています。しかも、それをだれもが知っているということです。


 それでは死んだらどうなっちゃうんでしょうか。後世に自分の魂が残るのでしょうか。霊となるのでしょうか?いいえ、それは違うんですね。もう一度今日の言葉をみていただければ一目瞭然です。「死者はもう何ひとつ知らない。」と書いてありますよね。ですから、死んだものの魂がこの世に残ったりということはないんです。一見すると寂しいことのように思われますが、唯一神は「復活」という希望を人間に与えています。その復活にあずかる者は、神の記憶の中では生きているのです。そして、この世の終わりが来たときに、復活させられるのです。


 このことからもわかるように、霊魂不滅、輪廻転生などということはないのです。今世の中では怪しい心霊術がブームになっているようですが、ぜひ注意してください。そのような人たちは「悪魔」に精神を牛耳られているのですから。

得体の知れない何かにすがっていませんか?

『国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことはできない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。偶像を作り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じになる。』 (詩編115編4-8節)


 「日本人は信心深い」って事を聞いたことがありますが、それは何に対してなのでしょうか。わたしが不思議に思うのは、信心深いわりには「神さま」がいっぱいいることです。さて、ここで言う「神さま」ってなんでしょうか。わたしにはそれがわかりません。なぜかって、万物の創造を行った神は「ひとり」しかありえないわけですよね。一番最初に命のあったもの、それが神ですよね。であるならば、何でこの世の中にはたくさんの神さまが存在するのでしょうか。

 そこで、今日の言葉をもう1回読んでみてください。そう、この世の大多数の神さまは「人間が作ったもの」なんですよ。要するに、人間自身が崇拝されたいと思って神になっているケースが多いんです。麻原●晃しかり、大川●法もまたしかり。もちろん、自分のことを「神の使い」といっている人もしかり。人間はそんなに偉いんでしょうか。今流行りのスピリチュアル何とかっていうのもそうです。人間に何がわかるっていうんですか。

 しかし、分かる人がいるのは確かなんです。霊的能力を持たされているのは事実なんです。それはなぜかというと、悪魔が人間を惑わすために選ばれた人が、そのような能力を持たされているのです。わたしから言わせてみれば、江原なにがしっていう人はなんてかわいそうな人なんだろうと思います。悪魔に操られて、自分の生活を台無しにされてしまっているんですからね。これでは、最初の人間夫婦が悪魔にだまされたのとまったく同じです。

 ですからわたしはあえて、このように今日の結論を出します。

 「悪魔を信仰するなら、何も信じないほうがいい。」

いかがですか?わたしはみなさんを唯一神へと導こうとは考えていません。なぜなら、それは唯一神からの賜物である「自由意志」の行使を邪魔してしまうからです。唯一神は、自分の使いたちにも自由意志を与えられ、その自由の中で万物の創造に携わりました。そして今があるのです。ですから本来、自由意志というものはよい特質だと思うのですが、現在はそうではないようです。「自由」という言葉を履き違えてしまっているのです。

 それでもみなさんは、形だけの存在の偶像に身をかがめますか?

物欲主義者ですか?

『わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。』 (コリントの信徒への手紙二 4章18節)

“while we do not look at the things which are seen, but at the things which are not seen. For the things which are seen are temporary, but the things which are not seen are eternal.”


 今の世の中、さまざまな「モノ」が氾濫していると思うんです。次々と新しいものが開発され、さもそれを持っていなければ時代に乗り遅れると思わせるような広告やCMも人間の物質欲をあおっていますよね。これでは自分に本当に必要なものがなんなのか、判断がつかなくなってしまうのではないでしょうか。例えば、パソコンのモデルチェンジは翌年、いやそれよりも先のものまで決まっているって言うじゃないですか。そうです、やろうと思えば「本当の」最先端を今出すことができるのに、それを出さずに小出しにしているわけです。そのような商業主義に乗じてしまっていいものでしょうか。


 そこで、今日の言葉をもう一度読んでみてください。目に見えるものは過ぎ去るんですよ。簡単に言えば「流行」って言うやつですね。今だけにしか目を向けられないのなら、あなたは商業主義の餌食になってしまうわけです。それでいいのでしょうか。本来この言葉の解釈では、「見えないもの(=唯一神)に目を向ける」ということを言わんとしているのでしょうが、ここでは違う観点で解釈しましょう。


 「見えないもの」を自分の心だと思ってください。そうすると、心に目を向けるように勧められているわけです。ですから、物を買うときなどには「これは、本当に将来の自分の生活の中で必要なものだろうか?」と自分に問いかけることの必要性を述べていることにはならないでしょうか。今だけを見るのではなく、将来の必要性も考えることで自制を働かせることもできるのではないでしょうか。例えば携帯電話を例にとって見ましょう。今の携帯電話はさまざまな機能が付いていて、一見便利なように見えますが、本当に自分が使っている機能はなんなのか、どこまでの機能が付いているべきなのかを考えれば、最新機種を買う必要がないことに気付くのではないでしょうか。しかも、今の携帯電話には過剰ともいえる機能が付いているように思います。「おさいふ携帯」っていう言葉がもてはやされていますが、果たしてそれは本当にあるべき姿なのでしょうか。便利になることで出費が増えてしまうということは考えられないでしょうか。そして、肝心なことは「なくしたとき」です。携帯にこんなにさまざまな機能をつけて、携帯に依存をしていたらなくしたときにはすべてがなくなってしまうのです。そこまで考えたことがあるでしょうか。


 かなり細かいところまで突っ込みましたが、物質主義の怖い面を書いてみました。簡単にできる自問ではありませんが、ぜひ物を買う前にちょっと立ち止まってみてください。

罪の奴隷

『イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。』 (ヨハネによる福音書 8章34節)

“Jesus answered them, “Most assuredly , I say to you, whoever commits sin is a slave of sin.”


悪いことを行う人は、罪の奴隷なんですね。ですから、悪魔の手先としてこの世で働かされているということなんでしょう。

確かに人間は現在、最初の人間アダムからの罪を受け継ぎつつ生きているわけで、普通に生活しているならば、この世の支配者である悪魔に支配されていると言うことになりますよね。それで、人間は「神」という存在を作り上げることによってその罪から逃げようとしています。しかし残念なことに、そのように作られた神も偽りの神々なわけで、結局は悪魔が作らせたものなんです。ですから、唯一神をしっかり捕らえることが重要だということになると思うんです。

唯一神は人間を創造されたときに、何を考えておられたでしょう。神のことをぞんざいに扱ったり、信仰を働かせなかったりすることを願っていたでしょうか。もしそうであるならば、『神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。・・・」』 (創世記1章26節)などど言われたでしょうか。自分に似せて作るときに、その相手が悪者であって欲しいと思うでしょうか。今回はそこに注目していただき、お考えいただきたく思います。

ダ・ヴィンチ コード

ダ・ヴィンチ コード

           (評価:★☆☆☆☆)

σ(・ω・*)オイラは原作本を読んでいませんでした。というよりも、会衆から、

 「読まないほうがいいよね。」

なんていういわゆる「暗黙の了解」のようなものが出ていて、読んでいなかったわけです。そんなσ(・ω・*)オイラだって、興味がないわけではないので、ファーストデー(1000円の日ね)でもないのに見に行ったわけですよ。(極秘裏にねw)


でも、本当に聖書という本と付き合っている人、創造者に信仰を持っている人であれば、

 「ないない。くだらない話だよ。」

ってな感じで終わってしまうような話でした。


ストーリーの展開も薄っぺらで、サクサク展開しちゃうし、聖書の知識なんてまるっきりなくってもある程度理解できちゃう内容だしね。2時間半は座っているだけでも辛かったです。


カンヌでも酷評をいただいたらしいですね。


-- ここからは小難しい話をします(宗教的です) --

(嫌な人は読まなくていいですよ。σ(・ω・*)の考えですからw)


もし仮にですよ、イエスに子供がいたとして、何が悪いんでしょうか?


だって、もしいたとしてですよ、イエスと結ばれたのは生まれながらに罪を持っている人間なわけじゃないですか。だから、罪のない完全なイエスのような人間が生まれてくるわけでもないし、イエスが性交渉を持ったことでイエスが罪を受けるわけでもないんですよ。だから、もし今この世のどこかにイエスの血筋の系譜があって、子孫が生きていたとしても、ぜんぜんおかしい話ではないと思うんですよ。


σ(・ω・*)オイラはクリスチャンのくせに、情報通ではないので、なぜ隠蔽しなくてはならなかったのかがわかりません。ですが、聖書に書かれていないんだから、実際にはありえないことなんじゃないですかね。だって、子供が生まれたなら喜ばしいことじゃないですか。その子孫がイエスの教え、ひいては神のみ言葉の伝道者になればいいんですから。福音宣明の業に携わってきたのは、みんな生まれながらに罪を持つ人間だったわけでしょ(今でもそうですが・・・)。だから、イエスが子供を作る能力があったのなら、作るべきだったんですよ。そして、イエスの血統を守ることによって、伝道が司られればさらによかったわけですよ。


さて、ここでσ(・ω・*)オイラの結論です。

イエスは神の御意志を行うために、肉の身体をつけて地上にこられたわけです。聖書の中での神の御意志は、

 『神は彼ら(=アダムとエバ)を祝福して言われた。

 「産めよ、増えよ、地に満ちて・・・」』

(新共同訳聖書 創世記1章28節)

というものなはずです。これはあくまでも罪のない人間、最初の人間であるアダムとエバがするべき仕事なわけです。ですから、イエスにはその御意志は与えられていないはずです。神の御意志はこう書かれています。

 『この子(=イエス)は自分の民を罪から救うからである。』

(マタイによる福音書1章21節)

この言葉からお分かりの通り、罪をもって生まれ続ける人間を、罪から救うためにやってきたわけです。そして、イエスは神の御意志どおりに働いたのです。ですから、人間を罪から救うはずのイエスが罪を持つ人間を産ませるために性交渉をしたとは考えられません。イエスは人間の罪を買い取るために命を与えたのです。


ε-(´・`) フー

まじめなこと書いちまったぜ。(。+・`ω・´)シャキィーン☆

(o・。・o) あっ! でもこれはσ(・ω・*)オイラの考えですからね。勘違いしないでね。同じクリスチャンの中にもいろいろな宗派や信条を持つ方がおられますからね。σ(・ω・*)オイラは議論を闘わせようとか、そんなことは考えていません。あくまでも「ダ・ヴィンチ コード」をみた感想ですからね。そこのところお間違えのないように。

お久しぶりです

長い間、放置状態おなってしまっていたことをおわびいたします。


自分の病気のこと、愛うさぎの大病のこととありまして、更新できずにおりました。

これからまた、できるかぎり定期的に更新していこうと思っておりますので、ぜひお付き合いください。

欲しいものでいっぱい

『金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」といわれました。』 (ヘブライ人への手紙13章15節)

“Let your conduct be without covetousness; be content with such things as you have. For He Himself has said,“I will never leave you nor forsake you.””

今の日本は、新製品ラッシュで購買意欲をあおる世の中となっています。しかし、そのような攻撃に屈してしまっていいのでしょうか。それでは「この世」の策略にまんまと乗ってしまっているわけです。

今日の言葉にもあるように、金銭に執着せず、今持っているもので満足するという生活をしてみてはいかがでしょうか。みなさんは、物質欲や生活レベルの向上のみに目が向いてはいないでしょうか。ぜひじっくり考えてみてください。生活欲や生活レベルの向上のためにあくせく働いているということは、それを提供している人たちのために働いているのだということにならないでしょうか。どうそ、自分の心にゆとりを持って生活してみてはいかがでしょうか。

もちろん、必要なものは備えなければなりませんが、まだ使えるテレビがあるのに、「プラズマがいい!」だとか、新商品という言葉につられて、買わなくてもいいものを買ったりしてはいないでしょうか。今あるもので満足できないでしょうか。それをじっくり考えて購買行動に移してみてはいかがでしょうか。

じつのところ、唯一神はすべてのものを備えてくださっているわけです。そのことを心の隅に銘記して置くなら、きっと「心の生活観」が向上するものだと信じています。

神が共にいる

『人は倒れても、打ち捨てられるのではない。主がその手をとらえていてくださる。』 (詩編37章24節)

“Though he fall, he shall not be utterly cast down; For the LORD upholds him with His hand.”

私たち人間は、幾度も失敗を経験する。でも、神の後ろ盾があり、守っていてくださっていると思えば、失敗を恐れることはなくて済む。神への信仰さえあれば、助けを待ち望むことができるというわけです。

聖書時代の使徒たちも、神の助けを得ながら述べ伝える業を行うことができていた。唯一神は存在するんです。人間を助けたいと思っているのです。だからこそ、主が手をとらえてくれるわけです。なんと心強いのでしょうか。創造者だからこそ、被造物を守りたい、助けたいと思われているんです。

神のそのお気持ちを大事にしたいと思います。

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