聖書の言葉を気軽に読もう -4ページ目

キリスト教的生活とは?

『愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛を持って互いに愛し、尊敬を持って互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。』 (ローマの信徒への手紙12章9-12節)

 同じ信仰を持つ仲間同士の規範を述べている部分の一部です。この言葉の解釈で必要なのは、「兄弟」という言葉の扱い方です。ここで言う「兄弟」というのは、マタイによる福音書の23章8節で明らかにされています。

「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ」

おわかりでしょうか同じ信仰を持つ仲間同士のことをすべてひっくるめて「兄弟」と呼んでいるのです。ですから仲間同士で、愛をもって接しなさいといいたいわけですね。

 みなさんも信仰などは別にして、仲のよい友達とかがいると思うんですけど、そのような仲間に対しても友情(=愛)を示していますか?相手のすぐれたところを謙虚に認めていますか?そのようなことも考えてみてはいかがでしょうか。聖書というのは、「意図的に拡大解釈するもの」だと思っています。ですから、今の生活に当てはめて考えてみながら読んでみてはいかがでしょうか。

悪と戦うための神の武具

『だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理の帯として腰に締め、正義の胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備の履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとくけすことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。』 (エフェソの信徒への手紙6章13-17節)

 今回は若干わかりやすいように聖書の言葉の太さを変えてみました。「神の武具」といわれるものが太字になっています。このようなものを身につけることによって、悪いものからの攻撃に対処しなさいと言われているのです。必要であることを箇条書きにすると、

 ・真理

 ・正義

 ・平和の福音

 ・信仰

 ・救い

 ・神の言葉(霊)

と、いう具合です。ほとんど、これまでにこのブログに書いてきたことですよね。それを、身に着けることがクリスチャンとして寛容なことであるというわけですね。逆に言えば、それだけ悪魔からの攻撃が強力であるから気をつけなくてはいけないということを言わんとしてるのでしょう。ですから、まずは神の言葉をよく学ばないと、信仰へと結びつかないですよね。

 みなさん、もっと聖書と親しくなってくださいね。

神の国を受け継がない肉の業

『肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。』 (ガラテヤの信徒への手紙5章19-21節)

 前回に引き続いての内容です。今回は「肉の業」ですが、まず、肉の業とはどういう意味なのでしょうか。新約聖書の中で「肉」という語が用いられるとき、人間そのものを意味することがあるようです。ではなぜ、肉の業が神にとっていけないものなのでしょうか。実際、肉それ自体は罪ではないのですが、肉である人間が悪魔から罪の支配を受けて、肉すなわち罪という事態を引き起こすのだということです。わかりました?ざっくり言っちゃうと、肉という語は、「人間の性向」をあらわすって事ですね。

 その中でも、ここでは魔術について考えてみようと思います。どのようなことが魔術に含まれるのでしょうか。ある本によると、「一般的には魔術とは魔(精霊)を用いて超自然的な現象を起こさせることを言う。魔術が禁じられている理由は、これが神に依り頼まないで他の神または神々に助けを乞うことによるのであり、これは偶像崇拝に他ならないからである。」って書いてありました。あら、偶像崇拝にも繋がっちゃいましたね。それはいいとして、要するに霊媒だとか、占いだとか、細木●子だとかってことになりますね。人間はアダムの罪から完全な状態を失い、悪魔からの攻撃の的にっていますから、唯一神に依り頼まないことが当然のようになってしまっているわけですね。それが肉の業だと思ってくれればいいものだと思います。

 さて、霊の実と肉の業を扱ってみましたがいかがでしたでしょうか。培うべきは霊の実でしょう。そのためには悪魔からの攻撃に立ち向かう準備が必要です。そのことについて、次回扱ってみようと思います。

 

霊の実と肉の業

『これに対して、霊の実を結ぶのは愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。』 (ガラテヤの信徒への手紙5章22,23節)

 今回と次回に分けて、霊の実と肉の業について書いてみようと思います。

 まずはイエス・キリストの言葉に耳を傾けててみましょう。 「霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。」(ガラ5:16,17)ですから、霊の導きよって結ぶべきものが、今日の言葉にあるものだということになるんですね。

 ここでは、「柔和」に注目したいと思うんですが、日差しが柔らかだと、穏やかで快適で気持ちよく感じますよね。ですから柔和な人、温厚な人と一緒にいるのも気持ちのよいものといえないでしょうか。とはいうものの、「穏やかな舌は骨をも砕く」(箴言25:15)とソロモン王は言っています。柔和は快さと力を兼ね備えている特質だというわけです。ですから、柔和、穏やかさというものを培うことが、容易ではないことが理解してもらえると思います。それでも、柔和な特質を身につけることができるならば、その時その人は周りの人たちにとってまさに柔らかな日差しになるのではないでしょうか。


神の言葉は生きている

『というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。』 (ヘブライ人への手紙4章12節)

 ちょっと神の王国の話から離れてみましょう。

 この言葉は、神の言葉の力強さが伝わってきますね。しかし、後半には「心の思いや考えを見分けることができる」とありますよね。ですから、神の側についていない者は刺し通されてしまうのかもしれません。このブログでは、残念ながら神の側にt立つにはどうしたらよいかとか核心をつくことができません。それは、σ(・ω・*)オイラ自身が未熟者であるからです。ですから、ぜひ聖書をお手にとって自分でも聖書を読んでみてはいかがでしょうか。本当に神の言葉が生きているものなのかを感じることもできるかもしれません。

新しい天と地

『しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。』 (ペトロの手紙二3章13節)

 ここで言われている「新しい天と新しい地」というのが、まさに神の王国といえるでしょう。その王国を神の約束に従って待ち望んでいるのがクリスチャンであるというわけですね。この続きではこう述べられているんです。「だから、愛する人たち、このことを待ち望みながら、きずや汚れが何一つなく、平和に過ごしていると神に認めていただけるように励みなさい。また、わたしたちの主の忍耐深さを、救いと考えなさい。」 (ペト二3:14、15) だから、クリスチャンはきずや汚れがなく、平和で中立な立場を保つわけです。今の世の中が終わるときに、神が正しい人と、そうでない人を選ぶわけですが、今はまだ待ってくださっているわけです。聖書の中でも、神はすべての人が悔い改めて神の側につくことを望んでおられると書いてあります。

 あなたは待ち望む人になりますか?

永遠の命

『世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人のうちにありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去っていきます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。』 (ヨハネの手紙一2章15-17節)

 まずは、「世」というのは今の時代のことです。ですから、今のこの時代のことを愛してはいけないって言ってるわけですよね。その理由が後に書いてありますけど、御父(すなわち唯一神)はその御心を行う人に対して永遠の命を授けると言っているわけですから、今のこの世を愛していてはいけないといっているのだと思います。世から出るものは、「肉の欲、目の欲、生活のおごり」というものであり、御父の御意志とは調和しないって言うわけですね。それで、御父の御意志と調和して神の御意志を行う人が永遠に生き続けるということになるわけです。

 σ(・ω・*)オイラはほとんど独学で学んでいますから、なかなかうまく説明できませんが、まずはどんな人が神の王国への道に入ることができるかということはわかっていただけたのではないかと思います。いま、いろいろ聖書の中から、王国へ繋がるものは何かということに関する聖句を探しているところです。いい聖句があったらまたご紹介いたします。

終わりのときの人々

『しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。』 (テモテへの手紙二 3章1-5節)

 みなさん。上の聖句に注目してください。皆さんの周りで、このような人がこれまでになく増えているのではないでしょうか。ニュースを見ててもそうです。金のために人生を棒に振ってしまう人、両親に従うどころか、殺してしまう人、相手の心を考えないで行動する人、簡単に人を裏切る人、神に誓いを立てながら信心のないもの。すべてが今の時代に当てはまっているのではないでしょうか。そうです、今こそ終わりのときだというのです。

 な~んていっても、キリスト教は末法思想などではないのでご安心を。聖書が言わんとしていることは、終わりのときの「後」の問題なのです。それは、「神の王国」といわれるものです。簡単に言ってしまえば「真に唯一神を崇拝することによって、神の王国での永遠の命を享受することができる」といったとこでしょうか。これから、いろいろ説明を加えていきますから、今後のこのブログに乞うご期待!(なんちゃって)

命の源

『命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。』 (詩編36章10節(訳によっては9節))

 神が人間に命を与えたということはすでに書きましたが、そのことについて詩編作者ダビデが書いたものでしょう。命の源というものは神にあって、神が作られた光のゆえにわたしたちは光を見ることができるってわけでしょうね。

 このように見てくると、やはり唯一神の存在があったのだということを理解できますね。「あった」、と書いたのは今ではどうであるかははっきりしないのでこのように表記したまでですが、今は神は何をされているんでしょうね。そういう不思議も感じてしまいます。

有言実行の神

『神は人ではないから、偽ることはない。人の子ではないから、悔いることはない。言われたことを、なされないことがあろうか。告げられたことを、成就されないことがあろうか。』 (民数記23章19節)

 「聖書」という書物は、預言の書とも言われているようで、神によるさまざまな預言が記されているわけですね。それが「今も」成就し続けているというのです。だからこそ、偽ることなく、悔いることもないわけですね。聖書を調べれば、これまで何があったのかという歴史や、これから何が起ころうとしているのかを啓示しているということになります。

 そんなことを考えながら読むと、また違った読み方ができるんじゃないでしょうか。聖書っていうものはそれぞれの書が相互に関係を持っているんですから、それを考えながら読むとさらに深く聖書を知ることができるんですね。だいたい聖書には対照表がついていますから、それを参考にすると面白いと思います。