ちょっと話題がそれまして・・・
なんとなく疑問が湧いてきてしまいまして、ここに書かせていただきます。
「聖書」っていうのは、創世記から黙示録までを言うんじゃないんですかね。何でかっていうと、本屋さんをのぞいたら、新約聖書のみで売ってたりするじゃないですか。聖書っていうのは、前半と後半でリンクしてますよね。にもかかわらず、新約だけで売ってるっていうのは、なんでなんでしょうか?くだらない質問かもしれませんが、湧いてきてしまいました。
あー、どこかの宗派が新約だけを使ってるとかっていうのは聞いたことあるかもしれないなぁ。まぁ、いずれにしても、このブログでは全巻通して扱っていきますね。
悪の根
『なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。』 (テモテへの手紙一 5章7-10節)
これはもっともな言葉だと思います。自分たちは裸で生まれ、死んだあとには何も残りません。そう考えるなら、信仰から離れでて金銭の欲望に迷い出ることのむなしさが理解できると思います。ライブ●ア事件でもそうですが、金銭への欲望が罠となって偽りを重ねていったのではないでしょうか。それがまさに、人を破滅させてしまったわけですね。
わたしたちも確かに、「チャンスがあったら・・・」って思いながら生きているのかもしれませんが、そのチャンスが破滅の道への入り口かもしれないと、じっくり考えてみる必要がありそうです。
新しい発見
『彼らが悟りますように、あなたの御名は主、ただひとり、全地を超えて、いと高き神であることを。』 (詩編83章19節)
この言葉、変だと思いませんか?「あなたの御名は主」。「主って名前ですか?」っていう質問が湧きませんか。あなたの御名はって言うくらいですから、唯一神には固有の名前があるはず。それが「主」だなんてありえないですよね。そこで、英語を勉強しようと思って、最近手に入れた英語の聖書(King James Version)の同じ言葉はこうなっています。
『That men may know that thou, whose name alone is JEHOVAH, art the Most High over all the earth.』
ほら、名前が書いてあるでしょ!「JEHOVAH」だそうです。なぜちゃんと名前が書いてあるのに、「主」なんて訳をしているんでしょうかね。原本は今ないんでしょうから写本とか翻訳とかが残っているだけでしょうけど、いつどのようにして唯一神の名前が消されてしまったんでしょうかね。そういう疑問は残りますが、唯一神の名前がはっきりしたことについてはすっきりしましたね。
聖書の理解の過ち
『お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与えられる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし、お前のゆえに喜びの歌をもって楽しまれる。』 (ゼファニヤ書3章17節)
この言葉を誤解している人がいるということを聞いたことがあります。それは、唯一神の存在を否定するものなのです。どのようなことかといいますと、唯一神や悪魔というものが実物のものではなく、「お前のただ中におられ」と書いてあることを誤解して、よく漫画などである天使と悪魔のやり取りみたいなものが、聖書の言わんとしている神の存在だというのです。すなわち、精神世界を描いているって訳ですね。でもですよ、そうだとするとその神が果たして地球を創造できるのでしょうか。これだけを考えても合点がいかないことがわかるんですよね。
ちょっと、自分で書いていてもなんだかわからなくなったので整理します。(笑)
あるキリスト教の宗派では、神という存在は人間の精神世界の問題だといっているんですが、聖書を読めば読むほど合点がいかなくなるんです。すなわち、唯一神は存在するのだという結論になるんですよ。だから、この言葉ひとつを取って、聖書の理解を誤ってはいけないということが言いたかったわけです。
どのような書物でもそうですが、書いた人間がいない今となっては、さまざまな解釈というものが錯綜するのは理解できますが、あえて事実をひん曲げて解釈するのはおかしいと思います。いつか取り上げなければならない「三位一体」についてもそうです。嘘のほうがまかり通っているのです。
なんだかこのブログの最初の趣旨とは違っている面もありますが、あくまでもσ(・ω・*)オイラ流の解釈ですけど、聖書に書かれていることに基づいた解釈をしていますので、根拠はすべて聖書の中にあります。そこだけは安心して読んでいただきたいと思います。
種をまく人のたとえ
『大勢の群集が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話になった。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。』 (ルカによる福音書8章4-8節)
イエスはたとえを用いないで話さないことはなかったといわれていますが、σ(・ω・*)が印象深く感じたのがこのたとえです。これは神の御言葉を受け入れる人について書かれたものです。説明についてはルカ8:11-15で書かれていますが、それを取り上げながら書いていきます。
まず、種が神の言葉をあらわしているということです。その種が、どのように成長を遂げるかがたとえのポイントです。
ある種は道端に落ち・・・これは、御言葉を聞くことは聞くんだけど、信じることに甘くて踏みつけられたり、鳥が食べてしまったりしてすぐに忘れ去ってしまう人のことをあらわしています。その御言葉を取り去ってしまう存在が「悪魔」だということです。
ほかの種は石地に落ち・・・これは、御言葉を聞いて芽を出すことはできるんですが、なにせ石地ですから根がつかないわけですね。ですから暴風などの試練があると飛んでいってしまうように、御言葉から離れてしまう人な訳です。
ほかの種は茨の中に落ち・・・茨の中ということは、土の上ですからある程度根をはって育つことができるわけですが、周りの茨のほうが成長が早いために栄養を茨に吸い取られてしまって、最終的に実を結ぶことができない訳です。ここで注目すべきは、茨というものが人生の「思い煩いや富や快楽」だという点です。茨のほうが成長が早いわけですから、それに飲み込まれてしまうということも考えられるわけですね。
ほかの種は良い土地に落ち・・・これは、あるべき良い土地に蒔かれた種ですね。ですから、御言葉を聞き入れることによって立派に成長する種であるというわけです。そして、その御言葉に対してよく守り、忍耐するといった根をしっかりとはって、実を結ぶに至るということになります。
とてもわかりやすいたとえですよね。ぜひ良い土地に蒔かれる種になりたいものです。
心配なこと・・・
このブログを書いていて、心配になったことがあります。それは、
『読者不在で書かれているのではないか?』
ということです。聖書の言葉を伝えようと思って毎日書き連ねているものの、どこか自己満足に終わっているように思えてなりません。
そこで読者の皆様で、リクエストなどがありましたらご遠慮なくコメントを残していただければ、その点を研究して記事にしたいと思います。
このブログは、多くのみなさんに聖書というものを知っていただくこと、聖書というものの見方を変えると今でも役に立つ情報が詰まっていること、本当に唯一神がいて聖書に書かれたことが成し遂げられるなら私たちにもパラダイスへの道が開かれていることなどを伝えていこうとするものです。「最初に読者ありき。」の姿勢で続けていこうと考えていますので、以後よろしくお願いいたします。
筆者 談
信仰とは?Part.1
『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているからできたのではないことがわかるのです。』 (ヘブライ人への手紙11章1-3節)
ここでは、「信仰」というものがどのようなものなのか定義されています。人間という生き物は、とかく「目に見えるもの」だけを信じる傾向にあります。もちろんかく言う自分のその一人でした。
昔の人々は、神に導かれることによって生きてきたという記述も聖書の中にはあります。そしてその神というものに付き従ってきたからこそ、神に認められる民となりえたのです。ですから、唯一神が存在するのであれば、今の人間でさえも神に導かれて生きることができるのではないでしょうか。少なくともわたしはそう思いました。
今では宇宙の存在に関するわたしの考え方は、「最初に神ありき。」と言うものに変わりました。というか、もともとビッグ・バンという宇宙の創始というものがあやしいと思っていましたから、聖書の記述から、唯一神の存在を見出すことができたのだと考えています。
信仰というものは、すべての人が同じ方法で見出すものではないと思います。わたしはたまたま、宇宙の創始という観点から入りましたが、皆さんの興味の置き場所によって琴線に触れるものが変わってくるものだと思います。ぜひ、聖書を実際に開いて自分の心の琴線に触れるものを探す旅に出てみてはいかがでしょうか。
唯一神
『わたしの証人はあなたたち、わたしが選んだわたしの僕だ、と主は言われる。あなたたちはわたしを知り、信じ、理解するであろう、わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しないことを。わたし、わたしが主である。わたしのほかに救い主はいない。』 (イザヤ書43章10、11節)
この言葉を読んだときには、唯一神の力強さを感じましたね。自分の前にも後にも神はいないって言うのですから、唯一神であることを確信させますよね。ですから、σ(・ω・*)オイラも唯一神のいわば「証人」としてこのようなブログを書いているのかもしれません。
日本というお国柄、多神教的な見方が強いと思っています。正月には仏教、バレンタインには(本当は違うが)キリスト教、厄年には神道、クリスマスには(異教から来ているが)キリスト教・・・、のような感じで自分の都合のよい神を使い分けていますよね。それではいけないと思っています。でも、日本のお国柄ですから、仕方ないですかね。
とにかく、今日の言葉からは力強い唯一神がいるのだということをなんとなく理解していただけたのではないかと思います。
結婚について
『結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫するものを裁かれるのです。』 (ヘブライ人への手紙13章4節)
今の状況を見ていると、できちゃった結婚は当たり前で、また離婚も意外と簡単になされているように感じます。今日の言葉にもありますが、「神は、みだらな者や姦淫するものを裁かれるのです。」って書いてありますよね。ですから、浮気をするとかドメスティックバイオレンスのような行為をするなどということは、神から見て正しくないことであるというわけです。
結婚はすべての人に尊ばれるべきだともいわれていますから、結婚のきっかけも正しいものでなければならないというわけですね。できちゃったから結婚しようとかいうのは、危険な結婚のきっかけだということでしょう。自分もまだ未婚の身ですから、ぜひ、神の目から見て喜ばれる結婚をしたいと思います。
いさかいの初め
『いさかいの初めは水の漏り始め。裁判沙汰にならぬうちにやめておくがよい。』 (箴言17章14節)
この言葉を、こんな風に翻訳している聖書もあるんです。
『争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ。』
後述の言葉のほうがやわらかく書かれているので、こっちで話を進めましょうか。単純にこの争いというものを喧嘩に例えてみましょう。喧嘩というものには何らかのきっかけがあるわけですよね。そのきっかけっていうのが、水の漏り始めってわけですよね。それで、その漏り始めた水道管が破裂しないうちに喧嘩をやめるべきであるっていうことが言いたいのではないでしょうか。