ダ・ヴィンチ コード | 聖書の言葉を気軽に読もう

ダ・ヴィンチ コード

ダ・ヴィンチ コード

           (評価:★☆☆☆☆)

σ(・ω・*)オイラは原作本を読んでいませんでした。というよりも、会衆から、

 「読まないほうがいいよね。」

なんていういわゆる「暗黙の了解」のようなものが出ていて、読んでいなかったわけです。そんなσ(・ω・*)オイラだって、興味がないわけではないので、ファーストデー(1000円の日ね)でもないのに見に行ったわけですよ。(極秘裏にねw)


でも、本当に聖書という本と付き合っている人、創造者に信仰を持っている人であれば、

 「ないない。くだらない話だよ。」

ってな感じで終わってしまうような話でした。


ストーリーの展開も薄っぺらで、サクサク展開しちゃうし、聖書の知識なんてまるっきりなくってもある程度理解できちゃう内容だしね。2時間半は座っているだけでも辛かったです。


カンヌでも酷評をいただいたらしいですね。


-- ここからは小難しい話をします(宗教的です) --

(嫌な人は読まなくていいですよ。σ(・ω・*)の考えですからw)


もし仮にですよ、イエスに子供がいたとして、何が悪いんでしょうか?


だって、もしいたとしてですよ、イエスと結ばれたのは生まれながらに罪を持っている人間なわけじゃないですか。だから、罪のない完全なイエスのような人間が生まれてくるわけでもないし、イエスが性交渉を持ったことでイエスが罪を受けるわけでもないんですよ。だから、もし今この世のどこかにイエスの血筋の系譜があって、子孫が生きていたとしても、ぜんぜんおかしい話ではないと思うんですよ。


σ(・ω・*)オイラはクリスチャンのくせに、情報通ではないので、なぜ隠蔽しなくてはならなかったのかがわかりません。ですが、聖書に書かれていないんだから、実際にはありえないことなんじゃないですかね。だって、子供が生まれたなら喜ばしいことじゃないですか。その子孫がイエスの教え、ひいては神のみ言葉の伝道者になればいいんですから。福音宣明の業に携わってきたのは、みんな生まれながらに罪を持つ人間だったわけでしょ(今でもそうですが・・・)。だから、イエスが子供を作る能力があったのなら、作るべきだったんですよ。そして、イエスの血統を守ることによって、伝道が司られればさらによかったわけですよ。


さて、ここでσ(・ω・*)オイラの結論です。

イエスは神の御意志を行うために、肉の身体をつけて地上にこられたわけです。聖書の中での神の御意志は、

 『神は彼ら(=アダムとエバ)を祝福して言われた。

 「産めよ、増えよ、地に満ちて・・・」』

(新共同訳聖書 創世記1章28節)

というものなはずです。これはあくまでも罪のない人間、最初の人間であるアダムとエバがするべき仕事なわけです。ですから、イエスにはその御意志は与えられていないはずです。神の御意志はこう書かれています。

 『この子(=イエス)は自分の民を罪から救うからである。』

(マタイによる福音書1章21節)

この言葉からお分かりの通り、罪をもって生まれ続ける人間を、罪から救うためにやってきたわけです。そして、イエスは神の御意志どおりに働いたのです。ですから、人間を罪から救うはずのイエスが罪を持つ人間を産ませるために性交渉をしたとは考えられません。イエスは人間の罪を買い取るために命を与えたのです。


ε-(´・`) フー

まじめなこと書いちまったぜ。(。+・`ω・´)シャキィーン☆

(o・。・o) あっ! でもこれはσ(・ω・*)オイラの考えですからね。勘違いしないでね。同じクリスチャンの中にもいろいろな宗派や信条を持つ方がおられますからね。σ(・ω・*)オイラは議論を闘わせようとか、そんなことは考えていません。あくまでも「ダ・ヴィンチ コード」をみた感想ですからね。そこのところお間違えのないように。