七十九回目の広島原爆の日 | 俺の命はウルトラ・アイ

七十九回目の広島原爆の日

 昭和二十年(1945年)八月六日午前八時十五分、

アメリカ合衆国政府は軍に核兵器リトルボーイを投

下した。広島では九万人から十六万六千人が亡く

ったと言われている。ハリー・S・トルーマン大統

領の原子爆弾投下に悲憤の心を覚える。

 

 原子爆弾によって沢山の人々が命を奪われた。

 

 身体が焼け爛れ水を求めた人々。苦しみもがき

肉が剥き出しになった人々。広島原爆投下の日の

絵画や証言を見聞した。

 

 五十六万の人々が被爆したと言われている。原

爆によって癌や重い病に罹り闘病されている方も多

い。

 

 

 

 昭和五十七年(1982年)六月十九日わたくしは

広島に行き、原爆ドームを見学した。

 令和五年(2023年)二月十九日、原爆ドームを

見学し戦争の恐ろしさを学んだ。

 戦後七十九年間、日本は広島・長崎への原子爆弾

投下という痛ましい事実による痛みを確かめ、平和

国家として歩んだ。

 

 世界各国では核兵器を有する国は多く、核戦争の

恐怖は今もある。

 

 日本国憲法第九条が誓った戦争放棄は、戦後日本

の平和の根本的な支えである。

 
 
 
  日本國憲法 第九条
 
  

 第二章 戦争の放棄

 

 第九条 【戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認】

 

 ①日本国民は、正義と秩序を基調とする

国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる

戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、

国際紛争を解決する手段としては、永久に

これを放棄する。

 

 ②前項の目的を達するため、陸海空軍

その他の戦力は、これを保持しない。

 国の交戦権は、これを認めない。



 元の英文
 

 THE CONSTITUTION OF JAPAN

 

CHAPTER Ⅱ. RENUNCIATION OF WAR

 

 Article 9.

 

  Aspiring sincerely to an  international

peace based on justice and order , the
 

Japanese people foever renounce war as

a sovereign right of the nation and the
threat or use of the force as means of
settling international disputes.
 

 In order to accomplish the aim of the

preceding paragraph, land sea, and air
forces , as well as other war potencial,
will be never maintaned. Tha right of
belligerency of the state will not be
recognized.

 

 (引用出典
 『日本国憲法』 講談社学術文庫版
 1985年 講談社)
 
 

  戦争は恨みのない人同士の殺し合いです

  わ。絶対にしたらあかん。よその国が軍隊

  を持ってるよって、日本も持とうとするんや

  のうて、「日本の憲法は戦争はやらん言う

  てる、あんたとこもマネしなはれ」と言わな

  あかん。

 

 人形遣い初代吉田玉男(本名上田末一 1919

年1月7日ー2006年9月24日)の名言である。

 

 「戦争は恨みのない人同士の殺し合い」という

言葉は重いです。戦争に召集され帝国軍人として

戦を強いられた初代玉男師は戦後戦争放棄の絶対

平和主義を語った。

 

 

  明治三十四年(1901年)四月二十九日
裕仁は誕生した。迪宮裕仁は大正十五年
(1926年)十二月二十五日天皇に即位
した。
 昭和六十四年(1989年)一月七日八十七
歳で死亡し昭和天皇の名が追号された。
 
 裕仁が統治していた大日本帝国は亜細亜
諸国を侵略した。
 
 
 731部隊による中国人の人体実験があった。
 

 昭和十二年(1937年)七月七日盧溝橋に

おいて銃声があり、大日本帝国軍隊と中華

民国軍隊の対立は激化し戦闘が起こった。

 

 七月二十二日「支那駐屯軍司令部ハ平津

地方ノ支那軍ヲ膺懲シテ同地方ノ主要各地ノ

安定ニ任スヘシ」という奉勅が伝えられ宣戦

布告の無い戦争が全面的に開始された。

 二十八日支那駐屯日本軍は中国軍を攻撃

した。

 八月三日戦争の炎は上海に及んだ。

 

 十二月一日大本営は首都南京の攻略を命じ

た。

 

 十二月十三日裕仁統帥軍隊は南京を占領し

市民を虐殺した。三十万人の中華民国市民が

虐殺された。

 昭和十二年(1937年)十二月十四日大日本

帝国統治者裕仁は、「中支那方面ノ陸海軍諸

部隊カ上海付近ノ作戦ニ引続キ勇猛果敢ナル

追撃ヲ行ヒ首都南京ヲ陥レタルコトハ深ク満足

ニ思フ此棟将兵ニ申シ伝ヘヨ」と述べた。

 
 
(画像出典 『戦争と人間 完結篇』DVD)
 
 統帥していた軍隊が中華民国に侵攻した戦争
を裕仁は喜び満足を覚えた。戦争を侵し他国を
蹂躙し中華民国兵士・市民を殺したことを喜ん
で褒めている。
 
 南京大虐殺の真犯人であることを裕仁自ら証し
ている。
 
 
 1945年アメリカ政府は8月6日に広島、9日に
長崎に原子爆弾を投下し、日本国民を虐殺した。
 日本政府は大日本帝国憲法を改正し、日本国
憲法で戦争放棄を宣言し、戦後戦争を禁じた。
 
 幣原喜重郎総理の強い意欲のもと日本国
憲法は書かれ制定に向けて作成された。
 
 
 大日本帝国憲法
 
 第一条
 大日本帝国は萬世一系天皇之ヲ統治ス
 
 第十一条
 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
 
 第二十条
 日本臣民ハ法律ノ定ムル所󠄁ニ從ヒ兵役ノ義務ヲ有ス
 
 大日本帝国憲法において国の統治者は天皇であ
りその天皇は陸海軍を統帥する責任者である。臣
民とされた民は兵役義務が強制された。
 
 日中戦争・太平洋戦争の全責任は統治者・統帥
者裕仁にある。
 
 
 

 昭和五十年(1975年)十月三十一日、宮殿石橋の

間において、裕仁と皇后良子後の香淳皇后の記者

会見が開催された。彼自身の戦争責任と広島原爆

投下について記者から質問があった。   

 

 

 

   記者「陛下はいわゆる戦争責任について、

       どのようにお考えになっておられますか?」     

 

   裕仁「そういう言葉の綾については、私はそう

       いう文学方面はあまり研究していないの

       で、よく分かりませんから、そういう問題

       についてはお答えができかねます。」   

 

   記者「陛下は、これまでに三度広島へお越し

       になり、 広島市民に親しくお見舞いの

       言葉をかけておられる訳ですが、戦争

       終結に当たって、原子爆弾投下の事実

       を、どうお受け止めになりましたでしょう

       か?」  

 

   裕仁「原子爆弾が投下されたことに対しては

       遺憾に思っていますが、こういう戦争中

       である事ですから、どうも、広島市民に

       対しては気の毒であるが、やむを得な

       いと思っております。」 

 

 

 

 日中太平洋戦争を起こし、中華民国の人々を

殺し、沢山の日本人・外国人を戦死させた犯人は

裕仁である。

 敗戦が決定的になれば、「三種の神器はどうな

る?」と怯え、民の命を冒涜した。敗戦後自身

の命の保証が得られるかどうか分からず、降伏

決断を遅らせた。

 

 東京大空襲・沖縄戦・特攻隊兵士自爆死・広島

原爆投下・長崎原爆投下は裕仁の敗戦決定の遅

れによって起こった出来事である。

 

 「テレビについてはよく見ていますが、放送会

社の視聴率競争が激しいのでどういう番組を見て

いるかについては答えられません」という冗談を

語って記者と共に談笑している。

 

 

 戦後は「戦争に反対していたが、部下の軍人達

に押し切られ同意させられた」と嘘を言って、ダグ

ラス・マッカーサーに媚び諂い、補弼の臣と民に

戦争責任を擦りつけて、昭和六十四年(1989年)

一月七日に死亡するまで税金で贅沢暮らしを為し

た。

 

 戦争責任を「言葉の綾」と誤魔化し、「文学方面」

の事柄 と決めて答えられないと逃げる。広島の民

が原子爆弾で虐殺されたことに対して「やむを

得ない」とその死を冒涜した。これが大日本帝国

統治者であり、大日本帝陸・海・空軍を統帥してい

た大元帥だった男の言葉である。裕仁を守る為

命を捨てて戦った帝国臣民を裏切った。

 

 池上彰・池澤夏樹・小林よしのり・半藤一利・

保阪正康が語る裕仁平和主義者は捏造であり嘘

である。

 

 『昭和天皇物語』は出鱈目の捏造漫画である。

 

 

 戦争は無責任な存在が勝手に侵して、徴兵され

た民は殺し合いを強制され、負ければ元首は民に

責任を押し付けて逃げる。

 

 日本国憲法は、第一条から第八条までで天皇制

を認めるが、第九条で戦争を放棄するという憲法で

ある。

 つまり裕仁に生命は保証するが侵略虐殺を禁止

するという憲法である。

 

 裕仁は戦後日中太平洋戦争は自身が負けた戦

争であったことを熟知し、自分の命を助けても

らった事の交換条件として、「日本国憲法第九

条で戦争は禁止されている」事を受け入れた。

 

 


 
 国民投票法案改正は、自民党の憲法草案を
支持するCMをテレビ・インターネット・ラジオで
無制限に流すことを可能にする。電通は数百
億円の資金をテレビ局に払って有名人・芸能人
を起用して、「時代に合った新しい憲法を作りま
しょう」と宣伝して国民を洗脳する作戦である。
 
 
 岸田文雄内閣総理大臣・橋下徹弁護士は「今
の時代に合った憲法を作る」と語っているが、
彼らの求める憲法は、天皇元首・国旗国歌への
服従・民人権抑制・戦争可能化・緊急事態条項
の恒久独裁である。
 
 天皇を神格化し、民から人権を奪い、君が代・
日の丸を敬わせ、徴兵して戦争で外国人を殺害
させる。自民党・公明党・日本維新の会・国民民主
党の連立政権は緊急事態条項による独裁で政権
の座に常にいることになる。
 mRNA薬物接種を日本在住地球人に強制する
ことが緊急事態条項で可能になる。
 
 岸田文雄首相は死亡者が出ているのにmRNA
接種を民に強いている。レプリコン毒薬も乱用
する政策を掲げた。
 能登大震災が起こっている現況において岸田
文雄首相は憲法改変に固執している。
 
 
 岸田文雄・麻生太郎・安倍晋三・森喜朗・
小泉純一郎の爆笑風景。
 
 明日令和六年八月七日、戦争放棄に自衛隊
を明記する改憲の集いに岸田文雄は出席すると
いう。
 
 七十九年目の広島原爆忌の翌日に戦争放棄
改変を狙う。
 
 福島第一原発事故放射能汚染水の海洋投棄を
岸田文雄首相は犯した。
 
 石破茂は戦争放棄に続く第二項を削除する
という。名義だけ戦争放棄を掲げて戦争を侵す
陰謀である。
 
 戦争したければ岸田文雄・石破茂が戦争に
行けばよい。
 
 「徴兵制は良い制度です」と仰る方に限って
ご自身は憲法第九条の兵役免除に守ってもらい、
若者に軍隊生活を強制するのである。
 
 卑怯な大人から若者を守ろう。
 
 子供達を戦場に送るな。
 
 平成二十四年(2012年)五月十日創生の憲法
改正決起集会において長勢甚遠元法務大臣は「国
民主権・基本的人権・平和主義。この三つを無く
さないと自主憲法にならない」と述べた。
 故安倍晋三議員・新藤義孝議員・下村博文議員
は拍手している。

 

 

 裕仁統帥大日本帝国が昭和十二年(1937年)から

二十年(1945年)に中華民国を侵略し、戦争で打ち

負かされた。

 

 岸信介をはじめとする自由民主党鷹派には、日中

戦争敗戦の逆恨み感情がある。この逆恨みをアメリ

カ政府はくすぐり、「戦争放棄を変えて戦争禁止を

解けば対中国の戦争を侵させてやるし協力してあげ

る」と撫でる。

 

 岸信介が犯したくて犯せなかった戦争可能化改憲

に安倍晋三は執念を燃やした。

 令和四年(2022年)七月八日山上徹也の

鉄槌により安倍晋三元首相は死亡した。

 

 だが、その戦争可能化の野望は岸田文雄に

受け継がれた。

 

 ダボス会議はmRNA人口削減計画が意図

していたほどに進んでいない事に苛立ち第二次

日中戦争を画策しているという研究がある。

 

 

 

 

 

 

 法律すら守れない自公政権に法律の根幹

になる憲法を改変させる訳にはいかない。

 

 

 

 犯罪者達が犯罪を犯しても裁かれない事

の根元は裕仁美化の観念にある。

 

 

 

 

 

 

 戦争を起こし外国人を虐殺し日本の民を戦死

させ、戦後戦争責任を補弼の民に押し付けて税金

で贅沢暮らしを犯した。

 

 裕仁の罪を徳仁・文仁・明仁は亜細亜諸国の犠

牲者に謝罪し天皇制皇室廃止に取り組むべきであ

る。

 

 ロシア・ウクライナ戦争の終結、イスラエル・

パレスチナ戦争の終結、イスラエル・イランの対

立の終結、mRNA猛毒恒久禁止を祈る。

 

  

 本多勝一は『中国の旅』で日本軍の行為

を謝罪しないと中国人に語った。



   「もし、謝罪して日本が戦争する国にな

    れば、嘘を言ってしまったことになる。日

    本が二度と戦争をしない国になること。

    これが謝罪なんだ」

 本多勝一の教えを確かめて学ぶ。

 

 奥崎謙三。

 

 

 昭和四十四年(1969年)一月二日皇居において

「ヤマザキ、ピストルで天皇を撃て!」と語り、裕仁

にパチンコ玉を放って戦争責任を糾弾した。

 

 奥崎謙三の勇気に学ぶ。

 

 
 映画・音楽・演劇といった芸術を鑑賞することは、
平和があるから成り立つ。
 
 初代吉田玉男が教えてくれた日本国憲法第九条
戦争放棄の尊さを心に刻み世界平和を祈りたい。
 
 昭和二十年(1945年)八月六日、広島において
原子爆弾で殺害された全ての人々に哀悼の意を表し、
未来に向けて戦争放棄を守護することを誓う。
 
 
 
               文中敬称略
 
 
 
                  合掌