吉田健一『シェイクスピア』を読む(六) 十四行詩 | 俺の命はウルトラ・アイ

吉田健一『シェイクスピア』を読む(六) 十四行詩

 Look in thy glass, and tell face thou viewest
  Now is  the time,that face should form another;
  鏡を見給え 映った顔に言うのだ、
 今こそこの顔はもう一つの顔を生み出す時だと。
 
  ウィリアム・シェイクスピアには Sonnetsという十四行詩集が
ある。戯曲作家として巨匠・天才であることはその傑作が雄弁に
語っているが、詩人としても言葉を美しく記し謳いあげることの達
人であった。この詩集は1609年頃に出版されたようだ。
 
 吉田健一(1912/3/27(4/1説あり)-1977/8/3)の名著『シェイ
クスピア』におけるこの名詩の研究を尋ねたい。
 

 
 
 
 
 
 本感想文は過去五記事同様に、昭和三十六年(1961年)五月十日
発行、平成六年(1994年)一月十五日第五冊の新潮文庫版を底本と
する。画像にはしおりの紐が映っているが、読みまくって現在紐は
切れている。
 著者吉田は、シェイクスピアがまず喜劇作者として絶賛され、
後に悲劇の研究が盛んになった道を追う。若き才能が溢れる
時期から喜劇傑作執筆を円熟の腕で見せて四大悲劇を重厚
に書いた。
 吉田は「ハムレットやオセロの名前が一般に知られている割に、
ボトムやマルヴォリオのことを言うものがない」(71頁)という研究
・言及の状況を俯瞰する。確かに『真夏の夜の夢』のボトムや『十
二夜』のマルヴォリオについて語る人は少ないが、ハムレットの
苦悩やオセロの嫉妬についてはよく語られ書かれている。これは
吉田が『シェイクスピア』を執筆した時代の傾向だけでなく、現代
にもずっと続いている。これは甘く美しい喜劇よりも、重い苦しみ
を感じる悲劇の深刻さを重視する傾向が影響しているのではない
か?だが前回『十二夜』で尋ねたように、戯曲の甘味こそシェイク
スピアの筆力が冴えわたり読者・観客を魅了していることを忘れ
てはいけない。
 喜劇対悲劇の優劣バトルをするつもりもないし、吉田も優劣競争
判定を「元来が無意味」(71頁)と位置付けつつも中期の喜劇には
「清水が地面から湧き出て日光と戯れているような性格」(71頁)
があることは押さえている。
 オルシノ×オリヴィア×セザリオことヴァイオラの男一人女二人
の三角関係でありつつ、セザリオという男姿に女オリヴィアが恋し、
そこに男セバスチャンが関わってめでたく男二人女二人で四人は
二組のカップルとなって幸を掴む。だが、オリヴィアに恋したマル
ヴォリオとアンドリュウ・エイギュチークは失恋の上に痛手を負い
悲しみにくれる。喜劇の中に六人の恋のドラマが絢爛と描かれる
のだが、その魅力はまさに晴れた日を受け緑の中の川が滾々と
水を躍らせているような生命力がある。
 吉田は、十四行詩の『ソネット集』が1609年に出版されたもので
ありつつ、初期の詩は『ロメオとジュリエット』『真夏の夜の夢』が
書かれた1595年頃・1596年頃に書かれたものと推測する。即ち
『ソネット集』は凡そ14年の歳月をかけて書かれた大作詩集で
あると推測される。
 
   Shall I compare thee to summer's day?
      Thou art more lovely and more temperate.
 
     君を夏の一日に喩えようか。 
  君は更に美しくて、更に優しい。
                         (72頁)
 
 シェイクスピアは恋する人が愛しい存在の美を夏の一日
に喩え、夏の日が終わっても愛しいひとの美は限りないも
の例えている。吉田健一の和訳は綺麗だ。
 
  And summer's lease hath all too short a date:
    又夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか。
                          (71・72頁)
 
 恋する人は愛しい存在が夏の一日が終わってもずっと
綺麗と胸躍らせつつも夏そのものは何時の日か終わると
いう無常に近い有限性を嘆く。即ち愛しい存在も命を終え
て亡くなる時は来るという生命の一回性への歎きである。
 
    シェイクスピアは劇作家である前に、先ず詩人だっ
    た。これは殆ど自明のことであって、詩人の眼が彼
    に人間の生活、或いは性格の急所を掴ませたので
    あり、それを一篇の劇に仕組むことに彼は年ととも
    に、又、作品とともに巧みになっていった。そしてそ
    の手腕に掛けては、彼は後年、初期の作品では想
    像を許さない程の熟練を示したが、そういう初期や
    中期の作品で何よりも当時の観衆を沸き立たせた
    のは、必要に応じて豊麗な言葉を際限なく織り出し
    て見せる彼の詩人としての才能であった。これも登
    場人物の台詞と筋、或いは場面の繫りは、作品を
    追って緊密になっていく。併しシェイクスピアが書き
    出した頃は、観衆とともに彼自身が、自分の豊かな
    表現力に酔っている感じがする。(74頁)
 
 吉田健一の洞察は鋭い。シェイクスピアが喜劇・悲劇・
史劇の傑作を書いた劇作家の巨匠であることは事実だ
が、その執筆・作劇において詩人の眼が人間の生活・性
格の急所を掴ませたという指摘に感嘆する。考えてみれ
ば詩は、文学としての戯曲や演劇としての舞台公演に先
立って、文字で書かれた物語もであり読者の心に想像力
を呼び起こす。詩によって人間の生命を語り歌う活眼が、
シェイクスピア戯曲の基軸になっているという言葉に、戯
曲の名台詞を思い起こす。                                
  さらに吉田は若き日の斬新な作品には、観衆に先立っ
て彼ウィリアム自身が自身の筆致に酔っていたのではない
かという自己陶酔を問う。これも当たっているだろう。しばし
ば舞台では名優が自身の名演に酔って舞台で堂々と役を
勤め自分自身も感動している光景を見ることがある。若き
シェイクスピアが活気溢れる筆で書いた詩や戯曲に彼自身
が惚れてしまったことも察せられる。
  吉田は『ヘンリー六世』三部作や『ロメオとジュリエット』や
『恋の骨折り損』や『じゃじゃ馬馴らし』や『真夏の夜の夢』と
いった戯曲でロンドン演劇界の寵児になり、宗教に凝り固ま
った人々に殆ど悪魔扱いされた劇団人であったものの、エリ
ザベス一世や貴族や国民の熱中を呼び人気を博していた。
 
    シェイクスピアはそういう生活の中心にいたのである。
    彼の十四行詩の中でも初めの方に属する部分を含め
    て、清新な言葉がその印象を決定的にしているのは、
    自分の天才の開花に対する喜びから来ているのであ
    ることも勿論であるとして、彼の環境がそういう気分に  
    浸ることを彼に許したということも十分に考えていいの
    である。彼は世俗的に成功するばかりでなくて、既に
    引用した詩が示す通り、恋愛に掛けても幸福だった。
    第一八番の十四行詩が失恋を歌ったものでないこと
    は明らかであって、美しい恋人を得てその恋人に、自
    分の詩による永生を約束する充実した気持が、殆ど
    哀調をさえ帯びて行間に漲っているのが感じられる。
      その相手は男だった。それが誰であったかは今日
    にいたるまで、徒らに憶測の種にされているに過ぎな
    いが、上流階級に属する美青年であったことは、シェ
    イクスピアがその青年に宛てた百篇余りの十四行詩
     の内容から察せられる。(73頁)   
 
 若き日のシェイクスピアは自ら記した詩や戯曲の清新な言葉
で商業的に成功を収めたが、吉田は恋愛においても美しい相手
を得ていたと見て、その源を十四行詩の初めの詩集の言葉に
確かめ、愛しいひとの美を自身の詩によって永遠の生命を現す
もののそこに哀調さえ溢れさせていると分析する。
 そして、若き日から中期にかけてのウィリアム・シェイクスピア
の恋のお相手を男性で美男子であったと推測する。
 十四行詩におけるI 「私」にウィリアム・シェイクスピアが投影
されることはあるだろうが、彼ウィリアムその人のことであると
どうして言えるという問いも起こるだろう。これは一理ある。
 ヴァイオラ・オリヴィア・オルシノ・マルヴォリオは生き生きと
戯曲の中で命を生きているが、女も男も若きも老いも皆、作者
ウィリアムが投影された分身であることは確かだろう。それは
主役・準主役だけでなく、脇役の船長や警吏の役人に至るま
で、作者ウィリアムが自分を確かめたことは間違いない。
 シェイクスピアの作品において、彼ウィリアムがはっきり自身
と思われる人物を作品内人物に書いたのは、過去記事で述べ
た通り『ヘンリー五世』の序詞役(コーラス。現在のナレーター
・語り手のような存在)であろう。
 その問題は掲げた2010年4月26日記事で少しく管見したので
そちらに譲るが、『ヘンリー五世』の序詞役程ウィリアムが自己
自身を強く投影・反映した人物がいるのかとなるとやはり、『ソネ
ット集』の「私」になるのである。激しい恋愛・嫉妬の描写は恋に
生きる本人以外書けないのではないかという問いを、リアリズム
思考のような見方と言われても抱かざるを得ない。勿論十四行
詩全文がシェイクスピアの愛の道であったかどうかは分からない。
 だが冒頭に引用した、愛しい人に鏡を見てもらい、その人に子
供を作って欲しいと頼む「私」の切実な気持ちは、恋する存在の
正直な想いがあり、やはりシェイクスピア自身の生き方があること
を感じずにはおれない。戯曲では『ヘンリー五世』の序詞以外の
人物には自己自身を強く打ち出さず、言葉の魔術で読者・観客を
魅了して暗喩的に自己の心の表現を見せてきたシェイクスピア
が何故、十四行詩で濃厚に自分を見せるのか?やはり恋心と相
手の美の讃嘆の熱さである。
 ウィリアム自身は1582年11月29日に8歳年上のアン・ハサウェイ
と結婚している。それ故に彼は俗に言う「両刀」、バイセクシャル
であったことも伺えるのである。        
 わたくしは作品の生き生きとした描写にも、ウィリアムのバイセ
クシャルの反映を見る。『十二夜』において女性ヴァイオラが男性
セザリオになって、男性オルシノに恋して、オルシノは女性オリヴ
ィアを愛し、オリヴィアは恋の使者セザリオを男性と思って恋して
しまう物語にも見れる。過去記事で述べたように女優が禁じられ
ていた時代なので少年俳優が女性ヴァイオラに扮して、劇中で
小姓セザリオになって、男優勤める男性オルシノに恋して、少年
俳優演じる女性オリヴィアに愛される。こうした性の魅惑的な倒錯
は、作者自身が性を越えて人間を好きになったことと照応してい
るのではないか?
 ws
   十四行詩のうちの多くは英国の抒情詩の中での白眉となす
   に足るものであり、誰であるかは解らないままに、その相手  
   は事実、この一篇の作品によって不朽の身分を保証される
   ことになったのである。(76頁)
 
  シェイクスピアはもし自分が死んだら、蛆虫の餌食にされる
ことになったのを知らせる教会の金が鳴り止む時に、自分を忘れ
てくれと愛しい美男子に頼む。
 だが美青年とシェイクスピアの恋には思わぬ展開が待ってい
た。
 
    That thou hast her, it is not all my grief,
    And yet  it may be said I loved her dearly,
        That she hath thee, is of my wailing chief,    
 
        君があの女を取ったということが、
    私の悲しみの凡てなのではない。
    それにしても私はあの女を愛していたのだが、
    あの女が君を取ったことが
    今は私を苦めているのだ。
                          (77・78頁)
 
 シェイクスピアと美青年の関係に女性が入り、ウィリアムも
青年もその女性を愛した。美青年と女性が結ばれ、ウィリアム
は美男子に振られた。青年が女性を選んだことよりも、女性に
青年を取られたことこそ苦しいとシェイクスピアは悲嘆を語る。
 その女性はプレイガールで黒髪で眼も黒か茶色と吉田は
想像する。更に「自分の女との関係にも拘らず、彼が男を
愛し続けたことは疑いない」(81頁)と推測する。
 
 アイヴァ・ブラオンというイギリスの批評家は、この娼婦型
の女性が『恋の骨折り損』のロザラインや『ロメオとジュリエ
ット』に名のみ語られるロザラインや『アント二イとクレオパ
トラ』のクレオパトラのモデルになったのではないかと推測
したという。
 
   For I have sworn thee fair and thought thee bright,
      Who art as black as hell, as dark as night.
 
   その証拠に、私はお前が美しいことを誓い、
  愛すべき女だと思っていて、
  お前は実際は地獄の闇夜に似た人間ではないか
                             (83・84頁)
 
  女性に愛を感じながらもその火とに地獄の闇夜と罵って
怨嗟を語る。女性を愛しながらも怨念を語る言葉は、娘ゴヌ
リル(ゴネリル)・リーガンに裏切られた父リヤ(リア)の悲しみ
を想起させるものがある。
 
    シェイクスピアが「十二夜」で終る喜劇の系列の制
    作から「ハムレット」、「オセロ」などの悲劇に転じた
    ことに就いては、各種の学説が行われているが、
    ここにその動機となったものを認めてはならない
    だろうか?(84頁)
 
 吉田健一は『十二夜』に終わる恋愛喜劇の時代から『ハ
ムレット』『オセロ』『リヤ王』『マクベス』の四大悲劇時代に
転じる契機を想像する。
 更にウィリアムの友人であったサザムプント伯爵(第3代
サウサンプトン伯爵ヘンリー・リズリー(1573/10/6 -1624/
11/10))が第2代エセックス伯爵ロバート・デヴァルー(156
6/11/10-1601/2/25)の内乱に連座してロンドン塔に幽閉
されたことに、ウィリアムはショックを受けたというシェスト
フの意見を見て、吉田はサザムプント伯爵ヘンリー・リズ
リーが十四行詩の美青年のモデルと想像されていること
を確かめる。
 
  詩の初めでその美しさを讃えていた青年が政変で捕
らわれの身となり、彼と自身を魅惑する女性に振り回され
たとしたら、詩人の心が乱れたであろうことは推測しうる。
勿論想像内の出来事で真相は、ウィリアム当人しか知ら
ないし、現代地球の読者は詩を読む以外に道はない。
  
  青年は「私」のもとを去るが、「私」は女への思いを捨て
きれない。
 
  吉田は1609年の出版は、ウィリアムの元から無断で
持ち出されたと推測する(86・87頁)。
 
   シェイクスピアはこの事件で、不幸な恋愛の屈辱と
   複雑な心理を尽くしたと考えられる。そしてそれが
   彼のものの見方を変えずに置く訳には行かなかっ
   た。(87頁)
 
 シェイクスピアにとって、美青年と黒髪・黒目のセクシ
ーレディへの失恋の屈辱と悲嘆は、確かに悲劇の因
となったであろう。
 父を殺され、母を奪われ、恋人も結果的に水死させて
しまうハムレットや無実の妻が不貞を犯したと勘違いし
て誤って絞殺してしまうオセロや優しい三女の誠実な
言葉が分からず表面的に迎合する長女・次女の媚態
に騙されて国も権力も失い捨てられるリヤや魔女の
誘いに乗って野望の道を歩んで王位を得るも転落す
るマクベスを彼ウィリアムは後期に描いた。善悪それ
ぞれの生き方はあるものの、四人の主人公は最善の
道を思って行動し、自身だけでなく愛する存在も巻き
込んで悲しみを齎し、自身の命も散らす。
 
  Before, a joy proposed behind, a dream
 
    前は歓喜だったものが、後では夢なのだ。
                      (88・89頁)
 
 吉田健一はこの口調を「悲劇時代のシェイクスピアに
属する」(89頁)と確かめる。

 

 この動画は引用すると削除されるかもしれないが、John Gielgud

ジョン・ギールグッドが朗読する十四行詩『ソネット集』の「1」である。

 朗々たる声は音楽のようでもあり、英語詩の美しさをしみじみと伝

えてくれる。これがシェイクスピアポエムの読み方なんだと思う。

 日本人、在日定住外国人(イギリス人以外の人)が原語英語で

Sonnetsを読む時は、ギールグッド卿の読み方を真似る気持ちで

自室で声に出して音読するべきだろう。

 

 今月二十一日はジョン・ギールグッド没後二十年の日でもある。

本日令和二年(2020年)五月三日は憲法記念日である。

 

 憲法第九条の改変や緊急事態条項の明記を自民党や日本維

新の会が語る。

 吉田健一の甥の麻生太郎副総理・財務大臣は平成二十五年

(2013年)七月二十九日に「憲法改正はナチスに学んでみては

どうか」と発言した。恐ろしい案である。 

  吉田健一自身は自衛隊に「右翼の軍隊にならないで欲しい」

と語っていた。

 コロナウィルス猛威の中、対応の難しさを憲法第九条のせい

にしても、罹患者支援にはならない。この大変な時代に国民

投票等絶対にやるべきではない。ワクチンの開発を支援し、

クラスターを警戒し、家に入れる存在は居て、満員電車・満員

バス問題を解決して、休業補償に尽力すべきである。愛煙家

の方々にはしばらく煙草を我慢して頂き、パチンコ愛好家の

方々にもしばらく待って頂く。

 

 初夏の夕べに読む十四行詩と『シェイクスピア』は読書の喜び

をたっぷりと与え恵んでくれる。

 

 

                                   合掌