吉田健一著『シェイクスピア』を読む(五) 『十二夜』 | 俺の命はウルトラ・アイ

吉田健一著『シェイクスピア』を読む(五) 『十二夜』

 If music be the food of love, play on

  音楽が恋の糧なら続けてくれ

 

 Teflfth Night『十二夜』においてORSINO公爵が語る言葉

である。

 

 吉田健一はこの戯曲を深く愛し、著書『シェイクスピア』に

おいて讃えている。

 『十二夜』は、ウィリアム・シェイクスピアが1600年頃に

書いたと言われている。

 

 吉田健一は1912年3月27日に誕生し、翻訳家・小説家・評

論家・英文学者として活躍し、1977年8月3日に65歳で死去

した。受験勉強をしていた十代に『十二夜』を英語原文で全

文暗記していたという。その熱意に感嘆する。英語学習を志

すならば、そうした取り組みが必須であることを痛感する。

 

 『十二夜』は恋と愛と夢の物語である。健一はシェイクスピアの

戯曲の喜劇の中では一番に挙げるべき作品としているが、

わたくしも同意する。ここで注意したいのは、演劇戯曲としての

美が完成されており絢爛と芸術美が光っていることは確かで

ある。しかしそれは峻厳な城塞のように怖いものや堅苦しい

ものではない。戯曲を読む読者、芝居を見聞する観客に恋愛の

美しさを感じさせ夢見る心の甘美さに誘い、片想いの切なさを

痛いほどに伝え、調和と痛手の感情の深さを確かめる。

 この戯曲には生きることへの感動があり、ドラマに出会った

た人に喜びを感じてもらうことが作品そのものの根本的な主

題なのだ。

 ウィリアム・シェイクスピアが戯曲の天才・詩の名人であり

大文豪であることは事実だが、観客の日常的な感覚に訴え

てくる言葉を書いた人物であることを確かめておきたい。

吉田健一著『シェイクスピア』を読む(一) 8002

 

吉田健一『シェイクスピア』を読む(二)ロメオとジュリエット

 

吉田健一著『シェイクスピア』を読む(三) 真夏の夜の夢

 

吉田健一著『シェイクスピア』を読む(四)フォルスタフ

 

 本感想文は過去四記事同様1961年5月10日発行・1994年

1月15日五冊の新潮文庫版を底本とする。

 

 吉田はアンドレ・ジイドの『狭き門』においてアリサがジェロ

オムに宛てて引用したオルシノ公爵として、『十二夜』冒頭の

言葉を尋ねる。

 

    あの調べがもう一度聞きたい。

    あれは何か絶え入るような響きがあった。

    それは董が咲き乱れている土手伝いにきて

    董の匂いを掠め、又拡らせもする南風も同様に

    私には聞こえた。もう弾くのを止めてくれ。

    何故か、前程は美しく思えなかった。

                       (58頁)

 

 アンドレ・ジイド著 川口篤訳『狭き門』

 

 アリサは『十二夜』の冒頭の言葉を引用して、オーシー

ノ(岩波文庫『狭き門』の訳 オルシノのこと)の音楽への

思いのようにジェロームの心が変化しないかと注意する。

 

 吉田は「私はこういう不思議な手紙をアリサから受け取

った」というジェロオムの言葉に注目し、「不思議なのはア

リサの手紙ばかりでなくて、このシェイクスピアの「十二夜」

という喜劇の美しさ」(58-59頁)と確認する。

 『真夏の夜の夢』『ヴェニスの商人』『お気に召すまま』等

の喜劇を書いて人気者となったシェイクスピアが円熟しき

った時期に書いたと吉田は述べる。

 舞台のイリリアという国はイタリアがモデルとして、ペトラ

ルカ風の十四行詩から剣の柄の作り迄イタリアのものは、

教養ある英国人とされていたと吉田は尋ねる。典雅・洗練・

精神的欲求・異国趣味が『十二夜』ではひとつになっている

という健一の指摘は鋭い。

 

 冒頭のオルシノ公爵の気まぐれな音楽へのこころは片

想いで一途に恋する貴族の娘オリヴィアへの激しい気持ち

への悩みである。恋の糧として聞いた音楽は南風のよう

に感じたが今はそれほどでもないと変化が激しい。慰め

てもらえなかったがオリヴィアへの片想いはますます熱く

なる。恋に恋する気持ちもあり、片想いは彼にとって命の

主題になる。

 

    オルシノは音楽を愛し、女を追うことに、狩に出か

    ける気持ちで熱中し、自分の感受性が許す限り

    豊かに生活することを人生の目的と心得て、ルネ

    ッサンス時代の君主の理想を体現すると同時に、

    又それ故にエリザベス女王の宮廷に集っていた

    英国の貴族の典型でもあると考えて差し支えない。

    (59-60頁)

 

 狩猟気分で愛しい女性への想いに全てを賭けるのは

贅沢な生き方と映るかもしれないが、人間にとって恋愛

程身も心も燃やすものはないとも言える。そこに正直に

帰って集中するオルシノに上演当時のイングランドの貴

族たちが己のロマンに全てを賭ける姿に理想を見たとい

うことは確かに想像し得る事柄である。

 吉田はこの後イリリアの国に嵐で漂着した女性ヴァイ

オラが筋の中心人物であることを述べる。彼女は男装

してセザリオ(シザーリオ)と名乗ってオルシノの小姓と

なる。オルシノは美少年セザリオ(実は美女ヴァイオラ)

の若さと美貌に期待して恋の使者としてオリヴィアに派遣

することを決める。しかし、セザリオ実はヴァイオラは秘

かにオルシノに恋してしまった。吉田はオルシノがオリヴ

ィアに恋し、セザリオことヴァイオラはオルシノを恋して

いるという葛藤が二人の恋愛心理を展開させるのに役

立っていると分析する。

 オルシノは女の心は気持ちの上のことだけで自分が

オリヴィアを愛する真剣な恋とは違うと厳しく評する。

 

   ヴァイオラ  女が男を思う時にどんなかというこ  

           とをよく知っているのでございます。

           女も私達男と変わりません。私の父

           に娘が一人あって、それが或る男に

           恋をしました。

           それは丁度、若し私が女だったら、

           貴方にしたかもしれないような恋の

           仕方だったのでございます。

 

  オルシノ   そして、どうなった。

 

 ヴァイオラ   ただ、それだけでございます。誰にも 

          そのことを言わず、それを隠している

          ことが蕾の中にいるような虫のように

          その女の柔らかな頬を餌食にして行き

          ました。その女はただ思うだけで、切なさ

          に痩せ細り、墓石の飾りになっている

          彫刻のように、笑顔で笑み続けました。

          それこそ恋というものではないでしょうか。

                             (61・62頁)

 

 

 セザリオは「姉妹がいました」という設定でじっと恋を隠し

て微笑み続けていましたという女の恋の真実を、オルシノ

に伝える。自分の恋に恋するオルシノを愛で包む名場面

だ。これまで自分の恋に執着しそこにのめりこんでいる

オルシノは、セザリオの言葉を聞き想像力を与えられる。

 

  道化役者フェステが歌う声をオルシノは聞くのだが、

吉田はその美しさを讃える。

 

   Come away, come away death

  And in sad cypress let me laid

 

   死よ、私の所に来てくれ

     そして私が黒布に包まれて横たえ

   られるように

               (62・63頁)

 

 

 

 死を求める歌詞で暗い歌と思われるかもし

れないが、これは生涯を恋に捧げた存在の

愛しい人への想いを歌ったものなのだ。

 フェステの歌声を聞き、オルシノは改めて

片想いに生き甲斐を感じる。

 セザリオは主人オルシノの恋心をオリヴィア

に伝えるのだが、オリヴィアはセザリオを本物

の美少年と思い込んで恋してしまう。執事の

マルヴォ―リオに「置いていった指輪を返す

ように」と派遣し、「公爵のお気持ちに応えない

が、公爵の言葉を伝えるならば来てもいいで

す」と伝言させる。

 置いてたことも無ければ触れたこともない指輪

を渡されセザリオはお嬢様が自身を本物の男性

と思い込んで恋してくれたと直感する。

 オリヴィアは知らぬままに同性の女性ヴァイオラ

(セザリオ)に恋した。オリヴィアは女性ヴァイオラ

を男性セバスチャンと間違えて彼にも恋するから

あくまでも好きなった存在は、同性・異性関係なく

セザリオなんだという意見もある。いずれにせよ、

女性オリヴィアが女性ヴァイオラに恋するという

物語は、それ自身が魅惑的・蠱惑的である。美女

が美女を愛する。えも言われぬ甘美さが湧きおこ

る。

 

    登場人物の対話が時にはどれだけ切実な

    調子を帯びて来ても、それが美しい歌が歌

    われるのを妨げず、又、次の場面で凡そ滑

    稽な出来事が起るのを少しも不自然に思わ

    せない所に、この作品の、殆どそのまま歌劇

    の台本に使えそうな、洒脱な性格が認めら

    れる。

     (64頁)

 

 切ない片想いが語られ、大酒を飲んで騒ぐ宴会も

描写されるという変化に富む展開があっても、作品

全体がエレガントでおしゃれなムードに包まれてい

るので読者・観客を魅了する。過去記事で書いた

ように『十二夜』は甘い戯曲なのである。終始一貫・

徹頭徹尾甘いのだ。この甘さこそ魅力の源なので

ある。生命の尊さを探求することは文学・演劇に

おいても大事な課題であり、全ての作品が目指す

事柄はその道かもしれない。だが、生命の尊さを

尋ねる方法が厳しく重い道が強調されることが多い

為に見失われがちになるが、甘美さから生命を生きる

喜びへと誘うところに、『十二夜』の力がある。

 

  ヴァイオラがセザリオとしての自分の命の在り方

を語る名台詞 I am not what I am.を吉田は「今の

この私は、本当の私ではないのです」と訳す(65頁)。

 

  オリヴィア  セザリオ、私は春に咲く薔薇の花

          掛けて、処女であるということ、名誉、

          真実その他何でも掛けて貴方を愛し

          ています。

                   (66頁)

 

 オリヴィアが乙女の全てを賭けて命の全てを挙げて

愛しい想いをセザリオに打ち明ける。この言葉は恋の

美しさを明かしている。

 セザリオは女性オリヴィアの恋の告白を勿論嬉しく

思うが、実は自分も女性ヴァイオラなので気持ちに応

えることが出来ず断らざるを得ない。オリヴィアは冷た

くされたと感じる。

 シェイクスピア在世の時代の英国では女優が舞台に

立つことは禁じられ、少年俳優が女役を勤めていた。

 少年俳優が女ヴァイオラを勤め、劇中でセザリオと

なる。少年俳優演ずる女オリヴィアが物語では少年

俳優演ずるセザリオを男性と思って恋する。無限に

続く性の倒錯が観客の心を魅了する。

 

   オリヴィアの縁者のサア・トオビイ・ベルチや、

   ベルチの友達のサア・アンドリュウ・エイギュチ

   イクや、オリヴィアの召使マリア等が活躍する。

   イリリアという、どこか地中海の沿岸の国に、

   サア・トオビイ・ベルチなどという英国人の名前

   を持った人物が、マルヴォリオとか、マリアとか

   言った風の人物と一緒に登場するというような

   ことは、シェイクスピアも、当時の観客も平気で

   あって、そういう英国風の名前が示す通り、ここ

   にはフォルスタフが出て来ても構わない、混じり

   気のない喜劇である。

                    (66頁)

 

 

 オリヴィアの叔父サア・トオビイは大酒飲みで、「姪

と結婚させてやる」と囁いて愚直な友人の富豪サア・

アンドリュウ・エイギュチークから沢山の金を巻き上

げて夜毎飲み、道化のフェステに歌わせて宴会を

催している。

 家令のマルヴォリオは真面目な人物でトオビイ・

マリア・アンドリュウ・フェステの大宴会を厳しく叱る。

 マルヴォリオがオリヴィアを愛していることに着目

したマリアは主人オリヴィアの筆跡を真似た贋手紙

をマルヴォリオに拾わせ、「MOAI私の命」と書き、こ

れらの文字は全て私の名前にあると欣喜雀躍する

マルヴォリオは黄色い靴下を履いて一家の者達に

威張り散らすようにという手紙の指示を真に受ける。

 その指定通り、実はオリヴィアが一番嫌っている

色の黄色の靴下を履き、トオビイ達に威張って、オ

リヴィアはマルヴォリオの行動を心配しトオビイに

世話を頼む。トオビイは乱心したとしてマルヴォリオ

を牢に監禁して嬲り虐め馬鹿にする。トオパス牧師

に扮したフェステはマルヴォリオをからかうが、元の

フェステに戻ってマルヴォリオの「髪とインクを持って

きてくれ」という訴えを叶えてやる。

 

   この作品は歌と、恋愛と、笑いで出来ていて、そ

   れは言わば、この世に生きていることに対する

   生きる喜び以外の何物でもあり得ないものが作品

   の奥底から浮かび上がって来て、その笑いや、

   歌や、恋愛にそれぞれの形を取らせているという

   感じなのである。それ故に、筋が幾通りになって

   交錯していても、一つの場面から次の場面に、或

   いは笑いから歌に、又は歌から恋愛に移って行く

   のが単に軽快な転調という印象しか与えないの

   であり、そういう変化は我々がこの作品で味う喜び

   にしてもより深くして、その挙句にに、モオツアルト

   の音楽が甘美を尽した後に達する哀愁と同じもの

   を覚えることにさえなるのである。

                   (69頁)

 

 歌と恋と爆笑が様々な形で絡み合い繋がり合って

交互に出場し登場人物が関係性の中で生きること

の歓喜を感じ、観客も胸ときめかせて感動を覚える

が甘美にたっぷりと陶酔した後、哀愁を切なく感じる。

 ここが大事である。『十二夜』がヴォルフガング・ア

マデウス・モオツアルトの音楽と似ていると評される

こともこの喜びから哀感への動きなのであろう。厳密

には、『十二夜』にモオツアルトの音楽が似ていると

言うべきだと思うが。自分は『トルコ行進曲』を聞くと

『十二夜』の読後感が照応する。

 

  作品が終る頃になってセバスティアンという、ヴァ

  イオラの双子の兄弟が登場したりしなどして、凡

  そが芽出たく落着するのも、この明るい哀愁とで

  も言う他にないものによって、リアリズムの見地か

  ら詮議立てなどすることではなくなっている。

                    (69・70頁)

 

 セバスティアンをセザリオと間違え、オリヴィアは結婚

を申し込み、セバスティアンも承諾する。オルシノはセザ

リオを伴ってオリヴィアを訪問し、姫のお気持ちは知って

いるので小姓をこちらに遣わすことはしませんと言い、

オリヴィアは「夫」と呼ぶ。公爵は激怒するがセザリオは

身に覚えがない。そこにセバスティアンが現れ、自身と

そっくりのセザリオと対面吃驚する。オルシノは顔も声

も服装も全く同一で人間が二人いることに魔法の眼鏡

と讃嘆する。セバスティアンとセザリオ実はヴァイオラ

はそれぞれの道のりを語り合って生き別れになった妹・

兄であることを確かめ合う。

 オリヴィアは兄セバスティアンと結婚していたことを

知り、オルシノはセザリオ実はヴァイオラに結婚を申し

こむ。道化の手紙でマルヴォリオは牢から出されるが、

マリアの手紙で騙されたことを知り、騙したトオビイ達

への復讐を叫ぶ。

 めでたしめでたしのムードの中、怨念のマルヴォリオ

とセバスティアンに殴られたアンドリュウ・トオビイの

ムードは怒りと悲しみと暗さがある。恋の喜びと愛の

感動を得た二組四人の男女がいる一方で悲しみと

怨嗟を抱く三人の男達がいる。

 

 ラストのフェステの雨降りの歌は哀愁をしみじみと感じ

させるものとなっている。

 

 吉田健一はこの戯曲を「シェイクスピアの喜劇が示す

一つの頂点」と確かめている。

 

 

                      合掌