幕末剣史 長恨(其の五) 大河内傳次郎主演 伊藤大輔監督作品 | 俺の命はウルトラ・アイ
2019-07-17 20:38:28

幕末剣史 長恨(其の五) 大河内傳次郎主演 伊藤大輔監督作品

テーマ:伊藤大輔(伊藤葭 呉路也)

『幕末剣史 長恨』

 

 伊藤大輔(いとう・だいすけ)は、明治三十一年

(1898年)十月十二日、愛媛県宇和島元結掛に、

父朔七郎・母寿栄の息子として誕生した。

誕生日には同月十三日説もある。

 日本映画を支え、時代劇を産み出し、その黄金

時代を現出された一大巨星であらせられる。

 

 少年期より文学・演劇に親しみ、演劇青年時代

に小山内薫に自作の戯曲の添削指導を頼み、師

の導きによって、松竹蒲田に入社し活動大写真

の脚本家となった。

 大正九年(1920年)十一月二十四日公開、製作

松竹キネマ(蒲田撮影所)、監督小谷ヘンリーの『新

生』が、第一回伊藤大輔脚本作品で、この映画では

原作も兼ねている。

 大正十四年(1923年)七月一日公開、製作松竹

蒲田、監督野村芳亭の『女と海賊』の脚本におい

て、大輔は松竹に、女役に女優を起用し、現代劇の

男優にオファーすることを求め、自ら脚本を「新時

代劇映画」と名付けた。当時現代より昔の物語を

描く旧劇は、女役は女形の男優が勤め、新派と言

われていた現代劇の俳優の出演は厳しく制限さ

れていたという。

 大輔の提言を受け入れた『女と海賊』は大ヒット

したという。

 この後「新」と「映画」が抜けて、現代より前の物

語を、日本の映画・舞台・ラジオ・テレビにおいて

「時代劇」と呼ぶようになった。

 「時代劇」の言葉を産みだした人は、伊藤大輔

である。

 大正十三年(1924年)五月一日公開、製作帝国

キネマ演芸(芦屋撮影所)の『酒中日記』が、第一回

伊藤大輔監督作品だ。

 大輔脚本『酒中日記』は、大正十年(1921年)六月

二十四日公開、製作松竹キネマ(蒲田撮影所)、監

督賀古残夢の演出の版で公開されている。

 自身のシナリオの映画化の松竹版に満足しなか

った大輔は、敢えて同じ脚本で自ら演出し、第一回

監督作品とした。

  松竹蒲田や帝国キネマ巣鴨撮影所で沢山の脚

本を書いているが、この時代のフィルムは僅かな断

片が幾つか残っているのみでスチール写真も殆ど

残っていない。

 

 

 

 伊藤映画研究所時代は奈良での生活が厳しく、

ガス代や水道代にも苦しみ、栗を拾って食べたと

いう。この時期の貧困との戦いが、後に『忠次旅

日記』で中風に悩みながら苦闘する忠次像の探求

に生きることとなる。

 

 大輔は時代劇に熱い意欲を燃やしていた。大正

十五年(1926年)日活大将軍に入社した大輔は、

長年夢見ていた、時代劇映画の演出の機会を獲

得する。

 

    この奈良時代、助監督が服を売っては生

    フィルムを買うという状態ですから、どうに

    も仕事が進められない。私は食うために

    シナリオを書いておりました。そのうち日

    活から、シナリオより監督で来たらどうか

   という話がありました。その一回目に書いた

    のが「国定忠治」です。当時日活では尾上

    松之助を“重役さん〟と呼んでる。撮影所

    の取締役なのです。その“重役さん〟は私

    が日活に入ってすぐに亡くなったのですが、

    私の書いた無頼漢忠治は死んだばかりの

    “重役さん〟が作りあげた英雄忠治に何事

    であるかということになりました。私は現代

    劇が撮りたかったのですけど、現代劇は監

    督が沢山いましてね。これを撮らしてくれぬ。

    そこで仕方なく月形半平太の伝説を裏側か

    ら見て書いたのが「長恨」なんです。その頃、

    沢田正二郎とは直接関係ないのですが、第

    二新国劇というのがあって、金井修とか原健

    作とかがおりました。その中に大河内伝次郎

    も居たんです。あの渋い顔でしょ。月形半平太

    とか国定忠治を彼で撮ると言っても、会社はな

    かなかウンと言わないのです。そこで「長恨」

    を大河内で撮る時は、立ち廻りばかり多くし

    ました。これがまア幸いに大いに当たったも

    のですから、私はやっと発言権を得たのです。

      立ち廻りの勉強、というのもおかしいです

    ね。私の家は代々槍の家柄で父親も天覧試合

    に出ている。私自身も身体が弱かったので黒

    帯まで行かなかったのですが、柔道も剣道も

    一級まで行ったくらいで、元来好きなのです。

    それから松竹は観世能の盛んなところで。能

    に親しんだのも助けになっていると思います。

    立ち廻りは、沢田の新国劇に負けないものを

    映画でやってみよう、これが念願でした。それ

    に剣戟は、いいストーリーさえあれば、ある

    程度意欲的な表現が出来るのではないか、と

    考えたのです。

    (『伊藤大輔シナリオ集Ⅱ』325ー326頁

     「自作を語る」

     昭和六十年七月二十五日初版発行

     淡交社)

 

 新国劇の俳優室町次郎に注目していた大輔は、彼の

主演で『月形半平太』の企画を提案するが、室町次郎が

活動大写真では無名であることから通らなかった。

 大輔は室町次郎を主役に迎え、『月形半平太』の物

語をひっくり返してみようと試みた。

 

 

   伊藤 『長恨』はね・・・・・・実際は大河内君の

       日活第一作は「月形半平太」と決まって

       いたんですが、大河内君のことを誰も知

       らないでしょう。もちろんこれといった時代

       劇を撮っていない監督の第一回で「月形

       半平太」をやらすこともできない。

       だから『長恨』は「月形半平太」のひっくり

       返しなんですよ。

       (『映画の青春』  1998年キネマ旬報社)

 

 室町次郎は明治三十一年(1898年)二月五日豊前市

大河内に生まれた。本名を大邊男(おおなべ・ますお)

と申し上げる。

 少年時代から剣道・学道を鍛錬し、劇作家を夢見て

沢田正二郎に師事し、新国劇で演技経験も脚本にと

って大事であると教わり、正親町勇の芸名時代も経て

役者として舞台に立って活動していた。

 次郎は大正十五年の日活入社に大河内傳二郎と

芸名を改めた。

 伊藤大輔監督、大河内傳二郎主演で幕末の志士壱

岐一馬の生と死を語る活動大写真が、『幕末剣史 長

恨』のタイトルで製作された。ところが、傳二郎の芸名

が日活スタッフのミスで、「大河内傳次郎」と記された。

 傳二郎は以後芸名を大河内傳次郎を名乗った。

  『幕末剣史 長恨』

  (ばくまつけんし ちょうこん)

  映画 無声 白黒

  オリジナル九巻 15分版のみ現存

  15分版のフィルムは青色に染色されている

  大正十五年(1926年)十一月二十日公開

  原作 伊藤大輔

  脚本 伊藤大輔

  撮影 渡会六蔵

 

  出演

 

  大河内傳次郎(壱岐一馬)

 

  川上弥生(沼田雪絵・芸妓松栄)

  市川百之助(目明し富五郎)

  尾上卯多五郎(沼田惣左衛門)

  久米譲(壱岐次男)

  

  監督 伊藤大輔

 

  ☆☆☆

  大河内傳次郎=正親町勇=西方弥陀六

           =大河内傳二郎

 

  伊藤大輔=呉路也

  ☆☆☆

  平成十六年(2004年)九月二十二日 

  平成二十三年(2011年)八月二十七日

  平成二十四年(2012年)十月六日

  平成三十年(2018年)十一月三日

  京都文化博物館にて鑑賞

 

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 幕末の京洛。尊皇攘夷の志に燃える漢学者沼

田惣左衛門は、脱藩してきた勤皇の志士壱岐一

馬(いきかずま)・次男(つぐま)兄弟を匿う。一馬・

次男の兄弟は互いに敬い合い、二人の兄弟愛

は篤い。

 しかし兄弟二人は、惣左衛門の娘雪絵に恋

し三角関係が出来てしまう。

 

 新選組の襲撃により、惣左衛門は斬殺され、

次男は両眼を負傷し視力を失った。雪絵は次

男を看護し、二人の間に深い愛が芽生えてゆ

く。

 

 兄一馬は恋に破れ深い悲しみを覚える。祇園

の芸妓松栄は雪絵とそっくりの女性で失恋の悲

しみを彼女への想いで癒した。だが松栄には榊

半三郎と言う情夫が居た。榊は師匠沼田惣左

衛門を斬った仇であった。

 悲しみの底にあった一馬は榊と松栄を斬る。

 

 新選組は一馬・次男・雪絵を見つけて包囲す

る。

 両眼を失った弟次男の身を、恋する雪絵に託

し、二人の命を助けるために逃がす。一馬は押

し寄せてくる新選組隊士の大軍に対して、唯一

人で戦うことを決める。

 

 壱岐一馬は走る。新選組隊士が襲いかかる。

雪絵が視力を失った恋人次男の手を引いて、

二人は走り、新選組の追跡をかわそうとする。

 一馬はたった一人で襲撃してくる新選組隊士

を斬る。だが多勢に無勢で、新選組の猛攻に

遭い、寺の本堂前の階段に追い詰められ、縄

をかけられる。

 だが一馬はそれでも諦めず、縄で縛られ、斬

られながらも必死の抵抗を試み、新選組隊士を

斬る。

 新選組隊士の刀が一馬に致命傷を与える。

 

 この時目が見えぬ弟次男は兄を思う。

 

 雪絵も一馬殿が自身を犠牲にして助けてくれた

ことに感謝する。

 

 最愛の女性雪絵と愛弟次男の安全を確信し、

一馬は斬られる。その命は尽きようとしていたが

彼の目には最愛の人たちが生きていることへの

喜びがあった。

 

 ☆大河内傳次郎の一馬の大いなる愛☆

 

 『幕末剣史 長恨』は前述の通り、現在断片十五

分のみ残っているのだが、この十五分が深い。

 懸命に走って新選組と戦う一馬と新選組の攻撃

から逃げる次男・雪絵の恋人達が、ほぼ同時進行

で描写される。

この十五分版のフィルムは青色に染色されている。

 

 大河内傳次郎の殺陣が壮大である。襲いかかっ

てくる新選組隊士の大軍をたった一人で戦い斬っ

て斬って斬りまくり、自身も刺され致命傷を負う。

日本映画の殺陣の歴史の中で、殺陣の壮絶さ

では最も強烈なものと自分は考える。

 剣と剣の闘いで、ただ一人で大軍を相手に闘って

斬られ血を流し死んで行く一馬。

 愛した女性松栄をも榊の情婦ということで斬ってし

まうという筋にも震える。この松栄斬りの場面は現存

していないのだが、一馬の荒れた心象を物語るもの

だと思う。

 一馬も又純粋さばかりではなく、惚れた女をも斬って

しまう荒々しさと暴虐もあるのだ。

 そのような暴れ者であっても、愛した雪絵と大切な

弟次男だけは守りたいと願い、二人を助けて、自身は

新選組大軍と激闘を為して斬られて行く。

 伊藤大輔は殺陣に物語を確かめてその命を息吹

かせた。殺陣にはドラマがあるのだ。

 

 新選組隊士の刀で斬られ、激痛の中で苦しむ一馬

だが、彼は愛する雪絵と次男を救出したことに大いな

る喜びを感じていることを確かめたい。

 

 自己を犠牲にして、愛する存在を守る。

 

 

 

 現存する伊藤大輔監督作品では、『幕末剣史 長恨』

十五分版が最古のシャシンである。

 監督伊藤大輔・主演大河内傳次郎のコンビは、時代劇

において悲しみを探求し、歴史を開いた。ここに二人の

黄金時代が始まる。

 

 平成三十年(2018年)十一月三日京都文化博物館別館

において、弁士片岡一郎、ピアノ鳥飼りょうによって上映さ

れた。片岡一郎の明瞭な語りは鮮やかで、鳥飼りょうの演

奏は心の琴線を刺激してくれた。

 

 大河内傳次郎の決定的と成り、無声映画時代劇を代表

する大スタアとなる。傳次郎は自身を抜擢してくれた伊藤

大輔への恩義を忘れず、生年のプロフィールを明治三十二

年(1899年)として、自身を大輔より年下とした。

 無声・トーキーの時代において日本映画を代表する大

スタア・大名優として活躍し、昭和三十七年(1962年)七月

十八日に満年齢六十四歳で死去した。

 

 

 大河内傳次郎の壱岐一馬が、最愛の人である川上弥生

の雪絵と久米譲の次男を、命を賭け捨てて守り切って感じ

取った喜びに、伊藤大輔の大いなる愛を感じた。

 一馬は自身が死んでも大切な雪絵と次男を救えたことに

大いなる喜びを実感した。無償の愛を明かした人。それは

壱岐一馬である。

 

 本日令和元年(2019年)七月十八日は、大河内傳次郎

の没後五十七年・五十八回忌の御命日に当たる。

 

 

 

                          文中敬称略

 

 

                             合掌

 

 

                        南無阿弥陀仏

 

                            セブン