創作についての考察
創作に必要なものは、「技術」と「才能」であります。
分けても「才能」のあるとなしとでは、出来栄えは天と地ほどにも雲泥の差がついてしまいます。
至極当然、今更何をと思われるやもしれません。
しかして、昨今、「技術」「才能」を兼ね備えた創作が果たしてどれほど生みだされているでしょうか。
「技術」に長けた作品を目にすることは多かろうと存じます。
人の目を向けさせ、心を奪い、時流に則した感性に刺激を与え賜う魅力的な当世風の創作物。
もちろん技術も鍛錬し身に着ける努力という点においては、広義には才能の一種です。
しかしながら、真の才能というものは、技ではないのです。
それは、もって生まれた、心の力、或いは脳の力です。努力はいくら重ねても、真の才能には叶わないのです。故に、それを有する者をして天才と呼ばしめるのです。
才能とは、技ではありません。才能とは、力なのです。
見出す力、獲得する力、持続する力、堪える力、継続する力、これらを順不同に適材適所使いまわしてこそ、才能の発揮というのです。
それは、努力をしても一朝一夕には獲得できるものではありません。努力ではないのです。
努力していると自覚することなく、そうせざるを得ない状況において最善の選択と覚悟し、行うことなのです。
他から見ればそれが努力と定義さるるかもしれません。けれど、当の本人にとってはそれは努力などという生易しいことではなく、いわば生きるか死ぬかの死活問題。前門の狼後門の虎、絶体絶命の二者択一の一期一会の、王唱子(ワンチャンス)という名の神さまの前髪なのです。
その「才能」から紡ぎ出された創作こそが、時を越え、人が変わろうとも、語り継がれ、求められる名作、名品と呼ばれるのです。名作は名品は、時代や時の流れが作るのではありません。生まれたときから決まっているのです。類まれな才能と磨かれた技術とによって生み出されたその創作物は、その完成の瞬間から名作、名品なのです。
なあんてこと、どこかのお偉いさんが、何かもっと、もっともらしく書いてくれたら、垂れ流しのアタシも赤面逆上自重して、モーツァルト・イヤーも更に盛り上がるってな寸法になろうものを?(≧∇≦)ぶぁっはっはっ!!
『よそゆき顔で』
「私は明日から変わるんだから
悪ぶってた思い出は捨てる」
学生時代の写真を久しぶりにみていたら、思い出した。
大好きだった恋人と別れてしまったのは、流されて結婚しようとしたわけでもなく、若かったから、という理由だけでもなかったこと。
ある日、その写真に写っていた女友達から聞いた。
7、8人の仲間が写っているそのうちのひとりが、私の恋人と密かに交際を始めたらしいと。
女友達は、どうしようか迷ったけどやっぱり話したほうがいいと思って、そして、ちゃんと彼と話したほうがいいよと進言してくれた。
私は格別衝撃も受けず、そして、彼女の話の真偽のほどを確かめる気にもならなかった。
なんとなく、もしかしたら、そんなこともあるかもしれないと、本能が既に感じていたから。
言葉でない伝達が、眼に見えない情景が、時として、人の感性に働きかける。
「らしい」
女友達も確かな事実を見聞きしたわけではない。
私は、その噂や真相よりも、彼を、そして、その相手だという仲良しの友を疑う自分の方が、むしろ疎ましかった。
相手が信じられないわけではない。信じる自分の心を疑ってしまうようで、どうして愛することができよう、愛されることができよう。
「よそゆき顔ですれ違うなら
二度と会わないほうがいいのね
よそゆき顔ですれ違うなら
それまでだった恋」
幸か不幸か偶然か必然か、よそゆき顔ですれ違う機会はいまだをもって訪れない。
『何んでも無い』
大好きなおいしいものは最後までとっておいて、見せびらかしながらゆっくり味わいたい。
少女趣味の残酷。
臼杵先生の奥様、松子さんのこの言葉が好き。
「あたし……あの娘が病院の廊下に立ち佇まって、何かしらションボリと考え込んでいる横顔を、この間、薬局の窓からジイッと見ていた事があるのよ。そうしたら眼尻と腮(あご)の処へ小さな皺(しわ)が一パイに出ていてね。どうしても二十五、六の年増(としま)としか見えなかったのよ」
アデノイドにちょっと唾液がひっかかっただけ、なんでもないの。
それより、先生に感謝しなきゃ。夜まで、かな。










