奄美諸島の標準語教育と方言札(2) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 阿布木名国民学校では、方言を使わないことが「今週の目標」とされた。罰は方言札をぶら下げるだけでなく、呼び出しを受けて朝礼台に立つ日も多く、時には全校生徒の前でただ一人恥をかくこともあった。それでも方言は無意識に出てしまうので、島口でしか言えない言葉の時は、「シマグチで言えば」と断りを入れて方言を使った。(註1)自分の体の内に無意識のうちにしみ込んだ言葉を直すのだから、みんな相当苦労しただろう。

 方言札は標準語教育の一手段として、奄美諸島の各島で使われていた。泉芳朗さんが教鞭をとっていた徳之島の神之嶺国民学校では、校内で方言の使用が禁止されていた。方言を使うと便所掃除や愛の鞭を加えられる等の罰を受けた。(註2)岡前国民学校には、「標準語を使いましょう」という校則があった。高学年の週番に見つかると、「方言使用者」という札を背中に張り付けられた。(註3)首からさげるのではなく、背中に張り付けるところが違うが、これも方言札と言えるだろう。

 天城町に住んでいた里村文雄さんが通っていた国民学校でも、紙で作った方言札があり、島口を話すと着けさせられた。着けさせられた子供は、島口を話す子供を見つけて着けさせた。ガキ大将は方言を話しても、決して着けなかったという。(註4)ここでは方言札が紙製だったようだ。

 戦前の喜界島の志戸桶の小学校でも、幅一〇センチ・長さ三〇センチの杉板に「方言使用者」と書いた札を首からぶら下げ、他の方言を使った者を見つけるまでは、胸に下げたままだった。(註5)

 このように断片的ではあるが、数々の資料が奄美諸島でも沖縄県と同様に標準語教育が行われていたこと、その手段として方言札が使用されていたことを伝えている。方言札は国民学校生徒が方言を話さないようにするには、有効な手段だったため、県を問わず使用されたのだろう。奄美の方言札の使用のはじまりが、沖縄県のそれと関係があるのかどうかは不明である。

 奄美諸島は敗戦と同時に米軍の占領下におかれたが、標準語教育については敗戦後も続けられた。喜界島では一九四六年(昭和二一)頃、小学校で生徒が標準語に慣れず方言使用が多いのに困った先生が方言札を作って、方言使用者の首から掛けさせた。(註6)

 知名町でも学校では方言を使うと叱られた。生徒は校内では標準語を使い校門を出るとすぐ方言に変わり、友達とおしゃべりしながら帰ったという。(註7)また奄美諸島のどの島かは明確ではないが、学校では方言の使用が全面的に禁止され、方言を使った仲間を先生に告げ口したり、「〇〇君は、今日方言を使った」などと犯人探しの様なことが、毎日の日課のように行われていた。(註8)

 戦後の標準語教育も戦前と同様に、生徒が内地に行った時に困らないようにとの実生活上の必要性から行われたものと考えられる。ただ戦前と戦後で大きく違う点は、戦前はそれ以外に、防諜上の必要性が大きな理由になっていた可能性である。奄美諸島の場合、大正時代に要塞司令部が設置された。大島海峡一帯は要塞地帯に指定され、立ち入りはもちろん、写真撮影や写生等も厳しく規制された。「本土からの来島者が多く、スパイの暗躍を防ぐにも、標準語の使用が必要になった」(註9)という。

 これは沖縄戦中の日本軍の対応とよく似ている。沖縄の陸軍第三二軍は「方言を話す者はスパイとして処刑する」と、米軍上陸後に命令している。内地の人間にとって、沖縄方言は内容がよく理解出来ない言葉である。もともと沖縄の住民を信用していなかった日本軍が、理解出来ない言葉を話す住民を、スパイが紛れ込んでいるまたはスパイそのものと考えたのは、決して不思議ではない。

 今のところ奄美諸島の標準語教育に、日本軍の影響や働き掛けは確認されていない。奄美大島要塞司令官は「カトリック教徒を集めて、敵国の邪宗を信ずる奴は銃殺だ、十字架に架けるなどと抜刀して脅すだけでなく、さまざまな迫害も加え」(註10)た。とかく日本軍には自分とは異質なものを敵視し、排除しようとする傾向があった。キリスト教も方言も日本軍にとっては、異質な存在である。日本軍が表だって標準語教育を進めなくても、その存在自体が影響を及ぼしていた可能性はあるだろう。

 

(註1)益満友忠『島の加那』(近代文芸社 1995) 二一頁

(註2)水野修『炎の航跡 奄美復帰の父・泉芳朗の半生』(潮風出版社 1993) 六九頁

(註3)古希に思う同窓会実行委員会編『古希に思う 昭和20年岡前国民学校卒業生の手

 記』(同会 2001) 一四五頁

(註4)里村文雄さんからの証言

(註5)志戸桶誌編集委員会『志戸桶誌』(1991) 七三五頁 七一一頁

(註6)志戸桶誌編集委員会『志戸桶誌』(1991) 七三五頁

(註7)『知名町奄美群島日本復帰50周年記念誌』(知名町奄美群島日本復帰50周年事業実行委員会 2005) 六一頁

(註8)記念誌出版委員会編『明日へつなぐ 奄美群島日本復帰五十周年記念』(東京奄美会 2004) 一一七頁

(註9)富島甫「我が古仁屋青春回想」(奄美瀬戸内しまがたれ同好会編『しまがたれ 第6号』(同会 1998)所収) 二

 一頁

(註10)島尾ミホ『海辺の生と死』(創樹社 1974) 一四四頁