新聞に見る沖縄戦中の奄美諸島(戦中編)(1) | 鹿児島県奄美諸島の沖縄戦

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 太平洋戦争中、大本営は戦果を過大に発表し逆に自軍の損害を少なく発表した。ミッドゥエイ作戦しかり、ガダナカル島からの撤退を転進と称したのもそうである。現在では大本営発表と言えば虚偽発表の代表例となっている。

 沖縄戦たけなわの頃、沖縄本島の戦況の推移と共に、奄美諸島の様子も新聞紙上で取り上げられていた。本稿では朝日新聞と読売報知(現読売新聞)を題材に、その報道内容から当時の奄美諸島の様子を見てみよう。

 

   一、徳富特派員の奄美見聞記

 当時の新聞を見ると地上戦の模様とともに航空部隊の「嚇々たる戦果」が報じられている。やはり一番多いのは神風特攻隊の戦果であるが、特攻を拒否して敗戦の日まで夜間攻撃を続けた芙蓉部隊や、三機の内一機しか帰還できないと言われた雷撃機隊もかなりの割合を占めている。

 その中に奄美大島の古仁屋を中継基地として使用した水上爆撃機瑞雲の記事も散見される。沖縄戦には台湾から六三四空の偵察第三○一飛行隊(以下、偵三○一と略す。他隊も同様と、九州から八○一空(後に詫間空)の偵察第三○二飛行隊が、それぞれ沖縄を南北から挟むように攻撃をおこなった。

 瑞雲は水上機ながら二五○キロ爆弾を抱え 急降下爆撃のできる高性能機であったが、沖縄まで往復するには航続距離が不足しているため古仁屋で給油する必要があった。

 瑞雲の記事の初出は四月五日の読売報知である。司令と飛行長の見送るなか三月三一日払暁、基地を出撃した少なくとも三機の瑞雲は、沖縄本島南方の輸送船団を攻撃した。猛烈な対空砲火を突いて行われた攻撃は大型輸送船・油槽船・掃海艇各一隻を撃沈破したと報じられ、被弾機はあったが全機帰還したという。

 同日沖縄に出撃した瑞雲は偵三○一の宮本平治郎大尉も出撃した四機(註1)と偵三○○二の瑞雲四機である。このうち古仁屋から出撃した前者は戦果なし、後者は鹿児島県の指宿から古仁屋を中継して沖縄へ向かったが、一機未帰還、二機を帰投中に喪失という損害を出し戦果も不明だった。(註2)

 となると新聞の戦果は誰の戦果なのだろうか。三一日前後の戦果を調べてもこれに該当するものはない。この他に出撃した機があるのならばともかく、そうでなければこの記事は捏造ということになる。

 問題のこの記事を発信したのが徳富特派員である。同特派員は読売報知に掲載された瑞雲関係の全ての記事を手掛けている。どうやら瑞雲隊を専門に追いかけていたらしい。

 この徳富特派員が書いた驚くべき内容の記事が七日後の四月一二日に掲載された。なんと自ら水上機に同乗して古仁屋基地に進出したというのである。にわかには信じられない話だがその内容を見てみよう。

 特派員を乗せた機は月の出の直後基地を飛び立ち、四月五日午前零時頃慶良間群島西方海上を通過した。この事から同機の発進は前日の四日深夜であることが分かる。

 折しも眼下の沖縄本島と慶良間群島の間の海上に展開する米艦隊に対して、雷撃隊や特攻隊が攻撃を行っていた。炎上する敵艦、猛烈な米艦隊の対空砲火、特派員を乗せた機に同行していた機(私註・瑞雲か)も米艦隊に攻撃を加え、敵艦から大きな火柱が上がるのが目撃された。

 その後特派員を乗せた機は無事に基地に到着した。特派員と入れ替わりに海軍機が出撃していく。それらの機を見送っていると米軍機が来襲し地上からは対空砲火が応戦する。 当時の新聞の例に漏れず基地の名前は伏せられているがこの基地は明らかに古仁屋基地である。機は慶良間群島西方海上を経て沖縄本島と慶良間群島の間の海上を通過しているが、そのためには台湾方面から東へ沖縄本島へ飛行するコ-スしかない。このコ-スの先にある南西諸島の水上機基地は古仁屋しかない。

 またこのことは基地についての描写からも想像できる。基地がある島について「蘇鉄と岩石とで形成された南西諸島唯一の自然の大要害」と表現している。蘇鉄は奄美大島の主要な植物であり、島は山が海岸線近くまで迫っておりまさに要害の地と呼ぶに相応しいと言える。

 

(註1)『モデルア-ト11月号臨時増刊海軍航空英雄列伝』(モデルア-ト社 一九九四)一二七頁、梶山瑞雲『瑞雲飛翔』(私家版 二○○二) 四○三頁

(註2)田村晃「水爆瑞雲驕れる海上要塞に一弾を放て」(丸エキストラ版第一一九集『日本空戦秘録』 潮書房 一九八八所収) 九八頁