そして明治以前の家元制度で閉鎖的に行われていた和算の記録を掘り起こし、保存し、西洋数学の枠組みで構成し直してみて分かったことは、明治以降の西洋数学に付け加える価値のあるものは何もないということだった。
江戸時代の和算家ってね、現代では高校生が習う部分積分の公式も知らなかった。だからいろんな図形について巧妙に変換させたりして各藩各流派独自の厳密に証明もされていない非体系的で各論的な方法が散財していた。今となっては統一的な方法で解ける。いろんな特殊算をケースバイケースで覚えなくても方程式一発で解けるのと同じ。
林鶴一は関孝和が世界最初に行列式の理論をつくっていたことを発見した。
しかし西洋では独立に発見され、日本を追い越していた。
学問はじめ職業がギルド的閉鎖性を持っていたのは西洋も同じだった。しかし近世において意識改革が起きたことは(過去記事2)に書いた。ルソーらの思想である。
世の中の真理は全て聖書に書かれており、頭の良い一部のエリート職が読んで解釈した説を庶民がありがたがる。そんな時代から、一般の庶民たちがひろく読み書き計算を学び、各自発見したことを広く交流して検証し共有してさらに発展させる、そんな時代へのシフトである。知識のオープンアクセス化であり、特許もその考えに基づく。
そのような仕組みで科学、数学は爆発的に進展した。
明治以前の和算は歴史としての興味を除けばもはや価値はない。
和算も特殊算も算盤も歴史懐古趣味のものである。
現代の価値はない。
昔の社会制度や思想について、頭ごなしに批判する人が多い。しかし多くはその時代において合理的理由があったと思う。そして現代ではその前提条件が変わってしまい合理的理由を失ったものがある。しかしそれでも歴史的慣性の法則で、すでに合理性を失った制度、思想、道具にこだわってしまうことがある。
それは馬鹿らしいことだ。
世界的に見ても、日本の特殊算を我が国の教育に取り入れよう、なんて、そんな動向は無い。
インドでは高校で3*3行列も微分方程式も習う。そしてインド工科大学全23校を受ける受験生の人数は、日本の1年間の出生数より多い。
誤答は白紙よりマイナス点なので当てずっぽうで得点することは無い。自信を持って出した回答しか得点されない。
国際競争力を高めるためには、中学受験で国内カースト形成はマイナスである。
江戸時代末期では既に戦場で無用の弓が格上とされていた(過去記事4)。
ガラパゴス和算である特殊算に未来はない。弓と同じく趣味人だけがやれば良い。
(過去記事2)
(過去記事3)
(過去記事4)