(過去記事1,2)で

中世キリスト教世界からルソー以降の考え方のパラダイムシフトを述べた。


重要な真実は全て聖書に書かれている。教会の権威者はこれを正しく理解して、神父を通じて庶民に伝えている。庶民が日常で得る知見は取るに足りない。


上のカトリック教的ないしギルド的パラダイムから、(聖書を皆が読むというプロテスタント的パラダイムを経由して)


知識は一部のものが占有してはならない。学びたい全ての人が読み書きに通じ、観察し実験して論文として公に発表して皆んなのものとし批評し合い、隠された新しい真実をより深く知り、広めよう。


という、科学的パラダイムへの転換である。


 現代は科学的パラダイムの時代ではある。

 しかし部分的にはまだカトリック的パラダイムが生き残っている。学校歴競争の中にである。


 ギルド的パラダイムが長く続いた理由は分かる。これは現代の学校歴主義と同じ構図である。


 つまりはこうだ。

 ある古い世代の知識人ギルドが利益を独占したいと考える。新規参入障壁を作って現在のギルド内の人々の利益を守りたい。しかし全く新しい人を入れないと、新しい人たちの中の優れた人たちが群れをなし、現在のギルドの競合勢力となりうる。

 例えて言えば、日本将棋連盟で誰も新規にプロ入りさせなければ、藤井聡太のような優れた若い人たちが新連盟を使ってしまい、日本将棋連盟が負けて倒れる可能性がある。

 だから、限られた数だけのとても優秀な若者だけギルド内への新規参入を認める。

 そこで若者を選抜するためのルールを作りたい。それは客観的である方が良い。

 そこで選ばれる競争ルールが聖書とか学校教科書とかのわけである。


 本来は知識人ギルドの役割は、正しい意見や知見を行政や現実世界に還元するということであった。

 新人選抜ルールはそのための手段に過ぎなかった。しかし、手段が目的化する。


 知識人を希望する者はギルド内に入れないと発言の場がない。一旦ギルド内に入ると、ギルド内地位を高めるためには、ギルド内ルールを守るしかない。


 分かるだろうか。

 もともと宗教とは祖先崇拝から生まれた。子供に何か伝える時、亡くなったお爺さんは立派だった、こう言っていた、という形式を取る。目的は子孫への意思の伝達であり、そのための手段として祖先を使う。立派な祖先の遺伝子を継ぐという事実は子孫を喜ばせ、従わせられる。

 それが転じて、弟子への教育で先代の亡き師匠の話を使う。

 共通の師匠としてイエスを使うのは有効なのである。そして年功序列の支配構造が出来上がる。

 新人たちに先祖を超えるような新しい知見を発見されてはギルド的には困るわけである。



 本来、大学入試は大学に入った後の学習の準備ができているかどうかを見るためのものであった。しかしそれが競争の意味を持つと、学問をするという目的のための入試であったはずが、入試で高得点を取る事そのものが目的になってしまう。

 かくして東大や一流大学へ入った者たちが、大学における学問はおろそかにし、またそれを社会で活かそうという意思もなく、予備校や塾の講師として一生を過ごすことになったりする。


 確かに偏差値70まで獲得するには学力が必要だが、それ以上となると学力ではなく、試験突破能力というものに変わっていく。





(過去記事1)


(過去記事2)


(関連記事)