上のブログ記事読んだ。

 弓槍刀が重要視され鉄砲が軽視されてきたことが書いてある。

 特に戦争のない天下泰平な江戸時代にあっては実戦で効果的な鉄砲よりも、伝統技術である弓槍の名人の方が国内カーストでは上位になる。


 これって今の受験戦争に似てる。

 本来は戦いに勝つための武器、

 社会貢献のための学力、その証としての試験力

であっまはずが、

 本来の目的を離れ、国内カーストを上り詰める道具となってしまった。手段の目的化というやつか。

 情報が共通テストに入ったりしてるが、情報の試験問題見る限り、んー、これじゃないんだな。


 東大理三入っても結局はほとんどが普通の医師になる。

 塾予備校講師になったりテレビのクイズ番組に出たり、資格オタクになるのがせいぜいだ。資格をとってもどの分野で一流になるというわけではない。単なる試験オタクに多大なことを要求するのが無理だし、それは本人も自覚している。だから自分が一番得意な活躍場所として塾予備校を職場に選んだりする。でも、結局は自分と似たタイプの人の合格率を5%上げるとかその程度しかできない。軽度知的障害児を境界知能にまで引き上げることに関しては素人だ。


 プログラム電卓やChatGPTを使用した入試とか出てきたとしても、国内カーストとしては旧来の筆記試験の方が上とみなされるのかもしれない。

 鉄砲より弓や槍が重視されたように。

 そうやって国内カースト競争で消耗戦の末、国際競争力は下がっていく。


 もうAO入試が増え、少子化で大学受験も就活もゆるくなり、新卒入社しても三人に1人は辞め、終身雇用、年功序列賃金が消えて行っても、試験力による学校歴重視はアジアの伝統として残っていくのか。欧米化していくのか。


 井上尚弥や大谷翔平は英米ルールの下での国際カーストの地位争いで日本の国力を宣伝しているわけで、これなら意味はある。



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