江戸川橋~早稲田~高田馬場(跡)探訪 その4 水稲荷神社~甘泉園~亮朝院 | jinjinのブログ

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江戸川橋(神田川)~早稲田周辺~高田馬場(跡)探訪

その4:水稲荷神社~甘泉園~山吹の里~亮朝院

 

今回のシリーズでは

◉その1:江戸川橋~今宮神社~目白坂~正八幡宮~一休橋~大滝橋~椿山荘冠木門~芭蕉庵~水神社

◉その2:細川庭園~大隈庭園~早稲田宝泉寺

◉その3:穴八幡宮から高田馬場(跡)までをレポートしました。

◉その4:今回はシリーズ最終回、水稲荷神社~甘泉園~山吹の里碑~亮朝院までをレポートします。

 

 

 

■水稲荷神社

 

高田馬場跡から茶屋町通りを少し歩いて右折、水稲荷神社へと向かいます。

水稲荷神社も高田富士も、江戸時代・明治初期には、この地にはありませんでした。

 

「その2」で触れたように宝泉寺の隣にあり、明治38年、早稲田大学との土地交換によって水稲荷神社と高田富士は現在の地に移転してきました。

その際、高田富士や富塚、水稲荷の境内社は全てこの地に移され築き直されました。

従って・・・江戸切絵図には水稲荷も高田富士も描かれていません。清水殿の下屋敷となっています。

 

 

 

◉水稲荷神社の創建:平将門討伐で知られる藤原秀郷が天慶4年(941)当初の地の「富塚」に稲荷大神を勧請したのが始まりと伝わります。

 

その当時は将軍稲荷・富塚稲荷と呼ばれていたそうです。

時は下って江戸時代元禄の頃、境内の「大椋」の下に霊水が湧出し、眼病に聞くということで大評判になったとのこと。その節のご神託に「我を信仰する者には火難を免れしむべし」とあり、以来「水稲荷神社」と称するようになったとのことです。

 

前述の通り昭和38年早稲田大学との土地交換でこの地に遷座しました。 この地は徳川御三卿の一つ、清水家の旧趾です。

 

<社殿>

 

 

社殿の横から裏側へ廻るといくつかの摂社・末社と「富塚」があります。

これらは全て水稲荷神社移転の際、移築・築山されたものです。

 

 

 

<水稲荷神社ご祭神>

倉稲魂大神(ウカミタマノオオカミ)・・・いわゆる稲荷大神。全ての人の衣食を護られ、生活を豊かにしてくださる。

佐田彦大神(サダヒコノオオカミ)・・・猿田毘古神。道路を護る神様。旅行・交通の安全を護り、開運の神様。

大宮姫大神(オオミヤヒメノオオカミ)・・・住居を護られ、夫婦や人々の和合を叶えてくださる。

 

<摂社・末社> 祀られている摂社・末社は以下の通り

浅間神社・三島神社・水神社・大国社・高木神社・北野神社

 

◉富塚のこと:

現在早稲田大学のある周辺には、数多くの古墳があったということで、富塚はその1基であったとのことです。

江戸時代はこの周辺は「戸塚村」と呼ばれていました。

「戸塚」の名称の由来は諸説あるようですが、「富塚」がその起源であるという説があります。

江戸名所図会には次のように記されています。

『宝泉寺の地に富塚(とつか)といふありて、ところの名も富塚村と号く。いまは富を戸に改むると云々』

またこの辺りには沢山の塚があったので「十塚」と言った。それが「戸塚」になったとの説も紹介されています。

 

<水稲荷神社裏 富塚>

 

<江戸名所図会>

江戸時代には、水稲荷神社は「高田稲荷」と呼ばれていました。

 

 

◉水稲荷神社耳かけ神狐

身体の痛い処と神狐をかわるがわるさすると痛みが和らぐそうな・・・

 

 

 

■堀部安兵衛顕彰碑

水稲荷神社から出て甘泉園(公園)の入り口前あたり、「堀部安兵衛顕彰碑」があります。

水稲荷神社HPによると・・・

『元禄七年(1694)二月十一日のこと、安兵衛は市ヶ谷から喜久井町を通り、馬場下の小倉屋で、枡酒をあおると高田馬場に駆けつけ、叔父の菅野六郎左衛門の果し合いに助太刀し相手方三人を切り倒した。
この果し合いの場所は、現在の西北診療所のあたりといわれています。
この決闘で助太刀をした安兵衛の活躍が江戸中で評判になり、後に講談や芝居の題材となりました。 安兵衛は、浅野内匠頭切腹後、終始あだ討ち推進派として活躍。元禄十五年吉良邸に討ち入ったその功績が称えられ、明治四十三年(1910)に安兵衛の石碑が旧高田馬場、現在の茶屋町通りの一隅に建立されました。その後、昭和四十六年に現在の水稲荷神社の現在の場所に移されました。』  ということです。

 

 

明治後期から大正初期の顕彰碑(ネットから借用)

 

 

<高田馬場の仇討ち>

(歌川豊斎が1891(明治24)年に描いた、歌舞伎の演目『高田馬場仇討』の役者絵)

 

■高田富士

甘泉園の入り口を入ると右手に「高田富士」があります。 道の横に甘泉園との境のフェンスがありますが、正直あまりきれいとは言えません。(写真割愛)

高田富士は安永九年(1780)に高田藤四郎によって築かれました。その後昭和38年、当地に移され再築山されましたが、この富士塚は7月の海の日とその前日2日間だけ冨士祭と称して山開きされるそうです。

ということで、私自身登ったことがないので、写真はネットから借用しました。

 

<絵本江戸土産 高田富士>

 

 

 

■甘泉園

甘泉園公園(かんせんえんこうえん)は日本歴史公園100選にも選ばれている新宿区の公園です。

この地は江戸時代の宝永年間(1701~1711)に尾張徳川家の拝領地となり、更に安永3年(1774)に御三卿の一つ清水家の下屋敷が置かれました。

 

明治以降は子爵相馬邸の庭園として整備され、昭和13年早稲田大学の敷地となり、附属甘泉園となりました。

昭和36年、早稲田大学が水稲荷神社の敷地を領有、代わりに当地は東京都の所有となり水稲荷神社が当地に遷座しました。(新宿区HP、Wikipedia) 

現在は新宿区立公園となっています。

別説として、同じ相馬でも、相馬永胤(横浜銀行頭取➡専修大学創始者)の邸宅だったという説もあるようです。

 

 

(春)

 

◉清水家生まれの有名人物 徳川好敏

日本初の航空機による飛行を成功させ、後中将となり、航空士官学校の校長を務めた徳川好敏(とくがわよしとし)はこの地に生まれています。

 

◈徳川好敏による日本初飛行

代々木にあった練兵場で、明治43年(1910)、陸軍大尉徳川好敏が日本で初めての飛行機飛行に成功しました。

徳川好敏は清水徳川家8代当主、陸軍で航空分野を主導しました。軍人としては陸軍中将になっています。

華族としての爵位は男爵でした。

 

 

 

 

甘泉園をあとに史跡「俤(面影)橋」を見学します。

 

■姿見の橋、俤(面影)橋

今はなんていうこともない橋なのですが、江戸時代は風光明媚な場所で、広重がこの橋の絵を1枚残してくれています。良く知られた絵ですが、江戸時代らしい長閑さを感じます。

 

「高田姿見のはし 俤の橋 砂利場」という絵ですが、この絵は御三卿清水殿の下屋敷辺りから姿見の橋を渡って雑司が谷へと続く風景を描いています。

高田の馬場から少し北へ下りて行くと神田上水にかかった土橋がありました。その先、田んぼ道を進むと小川にかかったもう一つの橋がありました。

「砂利場」とありますから、昔はこの辺りで砂利を採掘したんでしょうね。

 

幕府編纂誌によれば、前者が面影橋、後者が姿見の橋となっているとのことですが、この辺りが後世混同され、広重も切絵図も前者を姿見の橋、後者を面影橋としています。

江戸名所図会は「俤橋」~「姿見橋」となっています。

 

 

 

◉面影(俤)橋の名前の由来

俤橋の由来としては諸説あるようですが、代表的な説としては

◈在原の業平が鏡のような水面に姿を映したという説(姿見の橋)

◈戦国時代、この地に移り住んだ和田靭負の娘織於戸姫が身に起こった不幸を歎き神田川の川辺で亡き夫の俤を水面に映しながら川に身を投げました。於戸姫を憐れんだ里人が面影橋、姿見の橋と名付けたという説

などなど・・・

 

◉山吹の里(太田道灌)

この面影橋にはもう一つ有名な逸話が伝わります。

『姿見の橋近辺に民家があり、「山吹の里」と言っていました。 ある時、鷹狩に出かけた太田道灌が急な雨にあい、蓑を借りようとある民家を訪ねると、少女が何も言わず山吹の枝をさしだしました。 

 

蓑を借りることができなかった道灌は憤慨して帰りましたが、後に・・・

「七重八重 花は咲けども山吹の 蓑(実の)ひとつだに なきぞ哀しき」の古歌にかけたものだと教えられて大いに恥じいり、以来和歌の勉強に励んだ』というものです。 

「山吹の里碑」が現面影橋の畔に建てられています。

 

<江戸名所図会>

 

<現在の面影橋>

 

 

<面影橋上から上流を望む>

 

<山吹の里碑>面影橋を渡ってすぐ右手にあります。

 

◉都電荒川線「面影停留所」

面影橋の前に、都電荒川殿の「面影橋」停留所があります。

『愛称「東京サクラトラム」。東京に残る唯一の都電で、三ノ輪橋~早稲田間(12.2km・30停留場)を運行しています。地域の身近な足として長年親しまれ、沿線には、桜やバラなど花の見どころや歴史・文化に触れられる名所旧跡、生活感あふれる昔ながらの商店街など多様で魅力あるスポットが満載です』 とのこと(東京都)。 

料金は回数制、1回大人170円。170円で早稲田から三ノ輪まで行くことができます。

 

 

面影橋から高田の馬場方面に戻ります。

面影橋駅を右横目に新目白通りを渡り、坂に名前はないようなのですが、まっすぐ坂を登ってお寺「亮朝院」を目指します。

 

ちょっと登ると「亮朝院」・・・新目白通りと早稲田通りの中間位

 

 

■亮朝院  =日蓮宗=

如意輪山亮朝院栄亮寺と号します。

 

 

創建:3代将軍家光の時代、日暉上人が身延山の奥の院にあたる七面山で荒行を修めた後、現在の戸山村付近に七面尊像を祀ったのが起源とか。

 

その後、明暦元年(1655)には将軍家の祈祷所となりました。 寛文11年、境内が尾張徳川家の下屋敷となっため現在地に移り、江戸時代には「江戸名所図会」にあるような大きなお寺となったとのことです。

江戸時代、境内の七面堂は七面社として有名で、「高田の七面堂」と呼ばれていました。

 

<江戸名所図会>

 

 

◉七面大明神

七面天女とも呼ばれ、日蓮宗においては、法華経の守護神とされる女神です。

身延山久遠寺の守護神として信仰されましたが、日蓮宗が広がるにつれ各地の日蓮宗寺院でも祀られるようになりました。

吉祥天や弁財天と呼ばれることもあるそうです。

 

<七面堂>

 

◉七面天女伝承:

『日蓮聖人が身延山山頂から下山の道すがら説法をしていた時、一人の妙齢な女性が熱心に聴聞していた。見かけない女性なので、皆が「誰だろう?」と不思議に思った。

日蓮聖人が女性に向かって「皆があなたを不思議に思っています。本当の姿をみせてあげなさい」と言い傍らの水差しの水を一滴差し上げると、美しい女性はたちまち緋色の紅龍に変じ、「私は七面山に住む七面大明神です。身延一帯を護っていますが、法華経を修め広める方々を末代まで守護し、苦しみを取り除き安らぎと満足を与えます。」と仰いました。

そういい終わると七面山の方へと天高く飛び去った。

皆は感激し、随喜の涙を流したということです。

 

 

◉七面堂前の狛犬さんと石造仁王様

門を入ると正面に七面堂があり、可愛い狛犬さんと、石造のこれも可愛い仁王様が置かれています。

 

 

 

<石造仁王様>

 

 

この仁王様は宝永2年(1705)に奉納されたものとかで大変古い石像です。

新宿区では唯一の石造り仁王様だそうです。新宿区の有形文化財に指定されています。

 

◉鐘楼堂(門)

七面堂への山門の横にもう一つ、非常に珍しい門・鐘楼堂があります。

こちらの鐘楼堂(門)の奥が本堂です。

江戸名所図会を見ますと、七面堂へ向かう参道には鳥居があり、本堂への門は普通の冠木門であったように見えます。

江戸時代当時は、まだ鐘楼堂はなかったのですね。

 

亮朝院は午後4時で門が閉まってしまうため、境内に入るためには4時前に参拝する必要があります。

 

 

 

 

<本堂>

亮朝院の本堂は寄棟造、本瓦葺きの建物で嘉永3年(1850)に建築されたもの。

内部は細かい部屋に仕切ることができ、修行僧が籠る場として使用されていたと推定され、修行道場としての本堂という性格ももっていたとか。

 

 

 

これで当シリーズ完結です。

最後までお読みいただき

ありがたきしあわせ