江戸川橋~早稲田~高田馬場(跡)探訪 その3 穴八幡宮~高田馬場(跡) | jinjinのブログ

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江戸川橋(神田川)~早稲田周辺~高田馬場(跡)探訪

その3:穴八幡宮~高田馬場(跡)

 

今回の「江戸川橋~高田馬場(跡)探訪」シリーズでは

◉その1:

江戸川橋~今宮神社~目白坂~正八幡宮~一休橋~大滝橋~椿山荘冠木門~芭蕉庵~水神社

◉その2:細川庭園~大隈庭園~早稲田宝泉寺 をレポートしました。

◉その3:今回は、穴八幡宮から高田馬場(跡)までをレポートします。

 

 

早稲田大学の正門前を通る通りを「大隈通り」といいますが、早稲田大学正門前から通り沿い少し南に「宝泉寺」・・・前回レポート。

宝泉寺から大隈通りを更に南へ進むと「馬場下町」交差点。ここに「穴八幡宮」と別当寺であった「放生寺」があります。

 

ちょっと寄り道。

馬場下町交差点を渡って左折、早稲田通りを東に100mほど歩いた交差点、「夏目坂」をちょっと上ったところに「夏目漱石の生家の地」があります。

 

お隣は延宝年間まで歴史を遡れるという小倉屋(こくらや)酒店。

講談や歌舞伎では、かの堀部安兵衛が叔父の決闘の助っ人として駆けつけるにあたって、ここで五合枡を飲みほして闘いに臨んだ・・・という老舗酒屋さんです。 

もっとも、堀部安兵衛は下戸だったという話もあるようですが。

 

「夏目坂」と言うのは漱石のお父さんがつけた名前だそうで、夏目家は元禄時代からここ馬場下の名主であったようです。

 

■夏目漱石生家跡(誕生の地)

ここに漱石の生誕百年を記念して新宿区がたてた「夏目漱石誕生の地碑」があります。

 

 

 

 

再び穴八幡宮へ戻り参拝しますが、この地にあった広大な尾張徳川家屋敷跡にちょっとだけ触れてみます。 とにかく広大な屋敷だったようです。

 

■尾張徳川家下屋敷(戸山荘)

穴八幡宮の南側の通り、「諏訪通り」といいますが、その南側に江戸時代、尾張徳川家の広大な下屋敷がありました。

切絵図ではその広大さが実感できにくいですが・・・この屋敷の中に、屋敷地の8割を占めたという池泉回遊式の庭園があり、小田原宿を模したという宿場町や箱根山という築山もありました。

「箱根山」は45mもの高さを誇っていたといいます。この「箱根山」今も戸山公園に現存しており、山手線の内側では最も標高の高い地点になっているのだそうです。

 

 

 

◉下の写真の方が、その大きさが実感できるでしょうか。

庭園の中に大きな池と、池の中に弁天。 小田原宿と箱根山がありました。

赤枠内緑色の部分・・・のもう一回り・二回り位の範囲が尾州殿のお屋敷でした。

 

 

江戸時代の戸山荘の様子について、尾張候上大園池図という巻物が残されています。

次世代デジタルライブラリーより数枚お借りしました。

 

<弁天>

 

<小田原宿> 正に本物の宿場町のようだった・・・とか。

 

<箱根山>

 

<竜門の滝> 庭園内はいくつか小川が流れており、滝もあった。

 

戸山公園内に行くと実感できるのでしょうが、穴八幡宮からみると想像もつかない。

 

穴八幡宮を参拝します。

■穴八幡宮

 

 

 

◉創建:社伝によれば、康平5年(1062)、奥州の乱を鎮圧した源義家が凱旋の折、この地に兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請したといいます。

慶長・元和の頃までこの辺りは八幡山と呼ばれ、神木の下に祠が祀られていたといいます。

寛永13年(1636)には、幕府の御持弓組頭であった松平直次がこの地に的場を築き、射芸の守護神として八幡宮を奉祀しました。

 

 

<随神門>

 

 

◉金色の御神像出現!  =穴八幡宮の名前の由来=

寛永18年(1641)、宮司の庵を作るため南側の山裾を切り開いていたところ神穴が出現、中から金色の御神像が見つかったことから穴八幡宮と呼ばれるようになったとのこと。

その後色々な奇瑞が起こったことが将軍家光の耳に入り、幕府の祈願所となり、城北の総鎮守に指定されました。

 

正面の鳥居ではなく西鳥居から参道の石段を登っていくと左手に「出現殿」があります。一般に公開されていないのですが、なかなかの佇まいです。

この社の裏手から金色の御神像が出現したわけです。

 

 

 

 

楼門を入った左手に神武天皇陵遙拝所があり、隣に鼓楼があります。

 

 

綺麗な鼓楼です。

 

 

◉穴八幡宮流鏑馬神事

流鏑馬は平安時代末から鎌倉時代に武士の間で盛んに行われていました。江戸時代、8代将軍吉宗は久しく絶えていた流鏑馬の儀式を復活、享保13年(1728)世継の疱瘡平癒祈願のため高田馬場で流鏑馬を行い穴八幡宮に奉納しました。

以降、将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに高田馬場で流鏑馬が行われるようになりました。

現在は・・・昭和54年から都立戸山公園に会場を移して毎年体育の日に行われるようになっています。

 

 

◉穴八幡宮社殿

昭和20年の東京大空襲で社殿はことごとく焼失してしまったとのことですが、戦後仮社殿によりいち早く再興、本殿や拝殿こそ鉄筋コンクリートで再建されましたが、平成になってから楼門、出現殿、鼓楼、手水舎、布袋尊堂と木造で再建されたとのことです。

社殿は本殿・幣殿・拝殿を連結した権現造りです。

 

 

 

◉手水舎の布袋様

この布袋様・・・可愛いですね。

先代布袋尊と2代目布袋尊が並んでいます。

 

(こちらは先代の布袋様)

 

◉穴八幡宮と冬至祭・・・穴八幡宮は「一陽来復お守り」で有名                      

穴八幡宮では、冬至の日から翌年の節分まで「一陽来復お守り」が授与されます。

一陽来復とは・・・1年のうちで最も昼間の時間が短い「冬至」を境に日が一日一日と長くなっていきます。陰の気がきわまって陽の気が生じるという意から、悪いことが続いた後で幸運に向かう・・・と言う意味なのだそうです。

 

ネット画像からお借りしました>

 

 

◉穴八幡宮北参道鳥居・・・キトラ玄武

穴八幡の北側から外へと出ますが、ここに大きな「北鳥居」があります。

光線の具合でうまく撮れていないのですがご容赦。

 

 

この鳥居はちょっと変わっていまして、鳥居の根元に珍しい「キトラ玄武」が彫刻されています。「キトラ玄武」とは、キトラ古墳の壁画に描かれた「蛇の巻き付いた玄武」のことらしい。 

玄武は北を守る神獣、北鳥居を守るには相応しい・・・とか。

通りすがりの女性も不思議そうに眺めていました。

 

 

 

◉江戸名所図会 穴八幡宮

鳥居の横の壁に江戸名所図会高田八幡宮(穴八幡宮)の模写が大きく描かれています。

 

 

 

■放生寺(ほうしょうじ)  =真言宗高野山派=

 

 

穴八幡宮の江戸時代の別当は「放生会寺」。現在は「放生寺」といいます。

寺伝によれば、寛永18年穴八幡宮の造営に尽力した良昌(りょうしょう)上人が開創したと伝わるとか。

 

良昌上人は三代将軍家光の世子誕生に奇瑞を示現されたとのことで将軍家の崇信厚く、将軍家の祈願所として葵の紋を許されていました。 

お守りは一陽来福・・・穴八幡宮と同じですが、こちらは「復」ではなく「福」となっています。

 

 

境内に小さな放生池があり、神変大菩薩(役行者)を祀る祠があります。 

江戸新撰33観音霊場の15番札所でもあります。

 

 

 

■高田馬場(跡)

北参道を出て、早稲田通りを北へ、高田馬場(跡)へ向かいます。

高田馬場跡には民家が立ち並び、こんなところに競馬場にも匹敵しようかという馬場があったのかと不思議な気持ちがします。

 

 

高田馬場前には茶屋がならんでおり「茶屋町通り」と呼ばれていました。今もまっすぐな道であるのは江戸時代と同じです。(現在も茶屋町通りと呼ばれている)

ここに「高田馬場(跡)」の説明板が立っています。

 

 

<茶屋町通り>

 

ところで「高田馬場」・・・「たかだのばば」か「たかたのばば」か??

新宿区の説明板にも「たかだのばば」と記されていますが、永井荷風が日記である「断腸亭日乗」にこんな風に書いています。

『秋葉原に停車場あり。これを「アキハバラ」と呼ぶ・・・高田の馬場も「タカダ」と濁りて訓む。秋葉原を「あきはばら」、高田馬場を「たかだのばば」と読ませるのは、鉄道省の役人は地方出身者が多く、東京の地名に疎い者が多いからだろう』と書いています。

 

江戸時代~明治時代には「あきばはら」「たかたのばば」であったようです。(断腸亭日乗 大正15年7月12日)

 

「高田馬場(跡」・・・江戸時代にはどんなところだったのか?

結構絵に残されています

 

 

<広重 名所江戸百景 高田乃馬場>

高田馬場は、もともとは家康の六男、越後高田藩主・松平忠輝の生母「高田殿(茶阿の局)が遠望の景色を楽しむため芝生を植えさせて庭園を開いたのが始まりとか。

 

寛永13年、家光が旗本たちの馬揃え(閲兵式)や馬術の練習のため馬場を築かせました。

馬場の大きさは東西に6町(約650m)、南北は30余間(約55m)という横に長い馬場でした。 外側は馬術の練習に。内側は弓の練習に使われていたようです。

 

広重は馬術の練習に励む旗本の姿や弓を引く侍の姿を遠景の富士山とともに描いています。

大きな的を描き、当たったのであろう矢が数本、的の前におちています。 

(練習用の矢には、皮でできていた的が破れないよう矢尻は布でくるんであった)

なんとも、広重らしい構図の絵ですね。

 

<江戸名所図会>

馬場と茶屋町通りの茶屋が描かれています。

馬場と茶の間にある通りが茶屋町通り・・・この絵を見ながら現在の茶屋町通りを見ると、全くさま変わりではありますが、江戸時代当時の通りや町の姿も浮かんできます。

 

 

 

<元文三年高田馬場流鏑馬之図>

この絵は8代将軍吉宗が世継の疱瘡平癒祈願のため享保13年(1728)を「高田馬場」で行い、穴八幡宮に奉納した時の図です。(ブログサイズでは小さくてよく見えないかもしれませんが、拡大して見てください)

中央に赤い随神門が見えていますが、穴八幡宮です。

 

 

こちらが高田馬場の流鏑馬の様子

 

馬場の向こう側が現在の「早稲田通り」、手前が現在の「茶屋町通り」と思われます。

 

明治に入ると流鏑馬神事は行われなくなりましたが、昭和9年、現在の上皇陛下の誕生を祝う奉納神事として「穴八幡宮」の境内で再興され、戦時中・戦後の中断の後、昭和54年(1979)からは都立戸山公園内で「高田馬場流流鏑馬保存会」が主催する流鏑馬が行われているとのことです。

 

ここから、

水稲荷神社~高田富士~甘泉園公園~山吹の里碑~亮朝院へと巡ります。 

次回に。

次回もよろしくでござります