1982デロリアンDMC-12 | 乗り物ライター矢吹明紀の好きなモノ
2008-03-01 16:04:33

1982デロリアンDMC-12

テーマ:ヨーロッパ車



クルマの誕生以来現在までというもの、その発展の過程においては「カリスマ」というべき有能な人物が常に重要な役割を果たしてきた。ヘンリー・フォード然り、ルイ・シボレー然り。クルマとは多くの人にとって身近かつ愛情を注ぎやすい対象だったこともあって、そこに関わったカリスマの名が歴史に刻まれやすかったといってもいいだろう。時は流れて1960年代の初め、GMポンティアック・ディビジョンにその豊かな才能と将来性を嘱望されていたとある有能なエンジニアが在籍していた。その名はジョン Z.デロリアンである。


デロリアンはキャラクターのハッキリしていた解りやすいハイパフォーマンスカーを求めていたユーザーの声を敏感に察知し、後にマッスルカーの奔りと自他共に認めることとなる名車である「ポンティアックGTO」の具体化にあたってチーフエンジニアという立場でその才能をいかんなく発揮することとなった。そしてこの時点で「デロリアン」の名は彼のかつての上司であった「バンキー」ことシーモン E.クヌッセンやフォードのカリスマであったリー・アイアコッカと並んでアメリカ人が言うところの本物のクルマ好き、すなわち「カー・ガイ」としてマッスルカーファンの間では認識されるようになった。


ところでデロリアンにはエンジニアとしての夢があった。それは他の多くの同業者がそうであったように「自身の名を冠したクルマを造ること」。すなわちヘンリー・フォードやルイ・シボレー、さらにはウォルター・パーシー・クライスラーやランサム・オールズが歩いた道を同じように辿ることを夢見ていたというわけである。もちろんハイパフォーマンスカーを通じて自己主張をしていたデロリアンであれば、理想のクルマとはスーパースポーツカーに他ならなかった。


1970年代末。GM内部でのスーパースポーツカーの具体化を諦めたデロリアンは、長年勤めたGMを辞し、ついに自身の自動車メーカーを立ち上げることを決心した。そして彼の元には彼の才能と人格に共感する人材と様々な方面からの資金が集まった。ここでまず彼が決めなければいけなかったのは会社をどこに作るかということだった。


アメリカで国内であればもちろん理想的ではあったが、基本的にアメリカでは新規参入の自動車メーカーに対するビッグスリーによる風当たりが厳しく、参入は色々な意味で簡単ではなかった。デロリアンは検討に検討を重ね、結局は工場の立地条件、税金その他で優遇を図ることを約束してくれたイギリスは北アイルランドのダンマリーに本拠地を置くことを決めた。そしてここにDMCことデロリアン・モーター・カンパニーは走り出すこととなったのである。


デロリアンはハードとしての良いクルマとはどういうものなのかということを、その対象というべき様々なユーザー層の好みと共に熟知していた筋金入りのエンジニアであった。同時にクルマとは売り方一つ、ディテールのデザイン一つで大ヒットもするし失敗もするということをポンティアックGTOの計画と販売を通じて思い知らされていた。さらに「良いクルマを造っていさえすれば売れる」という一見当然の様に思えた命題ですら、時としてエンジニアの奢りにもなりかねないという危険性も…


その結果、デロリアンの名を冠したオリジナルカーは魅力的なデザイン、ハードとしての優秀性、そしてキャッチーなセールスポイントの3点を漏れなく備えることに注意が払われることとなったのである。 基本コンセプトはハイパフォーマンスカーのスペシャリストであったデロリアンの好み通り、スタイリッシュなスポーツカーとすることが真っ先に決まった。


ちなみに1970年代後半の時点で「デロリアン」の名そのものはアメリカのコアなマッスルカーマニアの間では知れ渡っていたが、世間一般的には無名であったことから、デロリアンのニューカーは既存のビッグネームの名を最大限に活用する道を選択した。すなわち、シャシーの設計はコーリン・チャプマン率いる「ロータス・カーズ」へ、内外装のとりまとめはジョルジェット・ジウジアーロの「イタルデザイン」へとそれぞれ外注に出されたのである。


こうした手法は知名度が低い新参メーカーにおいては極めて妥当であり、かつ有効な販売戦略を構築する上でも極めてまっとうな道だったことはいうまでもない。ロータス設計によるシャシーにジウジアーロの手に拠る美しいボディをまとったデロリアンの夢の具体化は、こうして81年モデルから市場へと送り出されることとなった。その名は「デロリアンDMC-12」である。


それではDMC-12のディテールを見てみよう。まずシャシーはロータスお得意というべき鋼板プレスバックボーン・フレーム。前後がそれぞれY字型に開いていたことからY型バックボーンフレームと呼ばれた。リアに搭載されたエンジンは当時の最新モデルであり、他社への販売をも念頭に置いていたPRV(プジョー、ルノー、ボルボの共同開発による汎用ユニット)の2.8リッターV型6気筒SOHC(130ps)が選択されていたが、これは軽量かつ調達価格がリーズナブルだったことが理由だろう。


ここで、なぜデロリアンはアメリカ製のV型8気筒を搭載したミドシップカーにしなかったのか? という疑問が残るが、おそらくはこの時点でのアメリカンV8の未来となると、決して明るくなかったことが理由といっていいだろう。実際、この時期はアメリカ車のニューモデルの多くがV6エンジンを搭載したFFへとスイッチをし始めていたのだから。


ただしそのパワー数値は排気ガス規制への対応によってあらゆるエンジンのキバが抜かれていた時期のモデルとはいえ甚だ不満が残るものだったが、どうもデロリアンとしては、ベーシックモデルはコストを抑えるためにパワーを控え目としつつも、プラスアルファのパワーを求める人にはパワーアップキットで対応するというメニューを考えていたと思われる。


サスペンションはフロントがダブルウィッシュボーン・コイル。リアがダイアゴナル・トレーリング・ラジアスアーム+アッパー&ロワーリンクというロータスならではの構成。デザイン的にはロータス・ヨーロッパやロータス・エスプリに近かったといっていい。ブレーキはパワーアシスト付き4輪ディスク。ディスクローター径はフロントが10インチ、リアが10.5インチとスペック的にはストリートカーとしては当時のアベレージレベルを超えていたといっていい。


さて、いよいよボディである。ジウジアーロの手で整えられたそのデザインは、エッジの効いたシャープなラインと豊かな面構成でまとめられていた。そして何といっても見るものの目を捉えたのは大きく上方へと開くガルウイングドア。敢えて手間の掛かるこのドアを採用したのも、デロリアンの攻めの戦略ゆえ。それだけガルウイングドアにはルックス及びスペックにおけるインパクトがあったということである。


さてデロリアンがフィーチャリングした「革新」にはまだ秘密兵器が存在していた。それはボディパネルの素材。何と通常の高張力鋼でもアルミ合金でもFRPでもなくSUS304、すなわちステンレス合金が採用されていたのである。ご存じの通りステンレスは耐食性に優れた特性を買われ、錆びやすい水回りの構造物などに多用されていた素材だった。デロリアンはこのクルマの外板用としては未知かつ意表を突いた素材を何と未塗装で使うことを決断したのである。


こうしてデロリアンDMC-12は新しい自動車メーカーに対する多大な期待と共に発進、初年度の1981年には6539台もの売り上げを記録、その大半がアメリカへと送り出されることとなった。ところが思いもかけない事件でデロリアン・モーター・カンパニーは終焉を迎えることとなった。何と代表たるデロリアン自身が、会社を立ち上げる過程で資金を調達するためにコカインの密輸に与したとの疑いを掛けられ、アメリカ政府から告発されてしまったのである。


裁判は結局デロリアン側の無罪で結審することとなるのだが、創業者に降りかかった災厄としか言いようがないスキャンダルによって会社の業績は急激な悪化を余儀なくされた。そして1982年には1126台、1983年には918台を生産した後に倒産の憂き目を見るのである。


この事件後、デロリアンDMC-12は1985年の映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でタイムマシンのベースとして取り上げられ再びブレークすることとなるのだが、それはまた別の物語である。