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シコブチ3社と石田川ロックフィルダム
「信長の隠れ岩」まで戻って、鯖街道を若狭・小浜方面に北進。 昔、「金ヶ崎の戦い」で朝倉・浅井軍による挟撃の危機から信長が京に向けて逃げ帰ったと伝わる道の逆行です。
往路は素通りした「信長の隠れ岩」。
折角なので、所々肩まで伸びたブッシュで足元が見えないなか、倒木に悩まされつつ登りました。
これまで何度も来て路を熟知しており、5分ほどの登りなので「まあ~いいか(面倒だ)」と思い、長靴・トレッキングシューズ・ストック・手袋などをクルマに残したまま~で、結果、初めてヒル害に・・・【カッパの悪戯?④「かっぱの吸血??」】
スニーカー履き、ストック・手袋なし、ヒルにとっては格好の餌食でした。 この季節、湿気の多い山に入るには、それ相応の準備が要りますね。 これも加齢による判断力の低下? 何の疑念もなく突進~
九里半街道(小浜・熊川・保坂・今津)の途中、保坂で鯖街道と別れ、石田川沿いに北進し、突当りにあるダムへ・・・。
まずは、管理事務所に行って談笑し、ダムカードをゲット。
近年の災害でダムから上流の林道は全て通行止め。 なので、こちらから函館山や淡海湖・平池方面には行けません。 ダム湖左岸の道も通行止めでした。
四角錐の屋根・・・女性職員の提案だそうです。 いいですね~
ダムの天端(堤頂)を歩いて対岸まで行きましたが、その先は通行禁止。
殆ど水のなくなったダム湖は宛らミニ湿原。 なかなかの景色ですが・・・湿原に降りられません。
このあと、今津ソバの作付けと開花の状況(王塚古墳の西隣で咲く白花。間もなく満開)を確認し、
びわ湖・木戸湖岸緑地でカッパの穢れを祓ってから帰路につきました。
この日、走行136.3km/歩行5321歩
【参考】
● シコブチ神社・・・近江の国の「カッパ伝説」
2014-03-29
https://akidream.shiga-saku.net/e1025764.html
● かっぱ(河童)~近江の国の「カッパ伝説」
2014-03-20
https://ameblo.jp/akiaddress/entry-12495595710.html
※民話
※Yahoo!(ブログ廃止)➡ Ameba
移行の際、ブログ記事の配置に多少の乱れ発生。
シコブチ3社と石田川ロックフィルダム
雲洞谷の集落を抜け、さらに西進。
上村(かみむら)集落の道路脇に、シコブチさんと同じような覆屋を発見。
散歩中(?)の親爺さんに尋ねると・・・シコブチさんではなく山神さんとのこと。
上村橋の下で、潜って鮎を獲る親爺さん・・・。
上村集落から先、道はさらに狭くなり、舗装してある林道のイメージ。
道の両側は、木々を伐採中。
伐採したあとに植樹されていました(この先、針葉樹の需要が見込まれるのかな? 落葉広葉樹を植えて元あった山の姿に戻す~ってことはないのでしようか・・・)。
この辺り、山中にも関わらず広い川幅。伐採した木々の集積地だったのかな?
一本一本に番号が付されていました。
直ぐに、能家(のうげ)集落。
集落の西端近くにある集会所に駐車。クルマ1台分のスペースあり。
少し戻って、道端の広場から数段高くなった処に 思子淵神社。
円錐状、急な斜面に参道らしきモノがなく滑って登れないので、下から参拝。
覆屋に扉がなく、祠が見えていました。
周りの建物の多くは、玄関や窓を板などで塞がれていました。
「無人、廃村かな?」と思いつつ集落内を歩いていると洗濯物を干してある家が目に留まりました。
少なくとも1軒、居住されておられる家がありました。
集落の西外れに、山神神社、無住。
滋賀県内には祠や石碑の山神さんを見ることはよくありますが、単体でこれほど大きな堂屋を観たのは初めて・・・。
神社の前はススキの原・・・秋です。
神社の東隣に無住の極楽寺。
予定していたシコブチ3社の参詣を済ませたので、最後の目的地である石田川ロックフィルダムに向かいました。
が途中、隘路のカーブで市営バス(マイクロ)とバッタリ出逢い、手に汗を握りながら恐る恐る数10m後退して路譲り【カッパの悪戯?⓶「かっぱのとうせんぼ??」】
隘路を過ぎ快適に走行中、道沿いの木々が気になり停止。 少しバックしたのですが・・・水路に脱輪【カッパの悪戯?③「かっぱの駒(クルマ)引き??」】
水路に蓋はあったのですが、草に隠れて1ヶ所だけ蓋がないのに気が付かず、左後輪を落としてしまいました。 幸い、スグに脱出できたので、タイヤハウス周辺に異常がないことを確認した後、気を取り直して石田川へ向かいました。 この脱輪も加齢による注意力の欠如?
シコブチ3社と石田川ロックフィルダム
9月の中旬、滋賀県の最西北の地、朽木の山村にシコブチさんを訪ねました。
鯖街道(R367)を北進し、「信長の隠れ岩」の下「三ツ石橋」三叉路で県道に入り安曇川の支流・北川に沿って西進。
途中、道路は2車線⇒1.5車線と狭くなり、崩落した道の補修工事で片側交互通行の場所や隘路のカーブがあったものの、雲洞谷家一(うとだに えべつ)集落の手前の一軒家で畑仕事帰りのお姉さんに 志故淵神社 の場所をご教示いただき、無事、到着。 駐車場はないので、少し広くなっている路肩に駐車。
川から離れた丘の端部、電気柵の中に入る。 野草の花々。
祠の中に・・・コブシより大きな石(河原石?)が10数個など。 覆屋の内壁に絵馬が掛けられていました。
カメラを弄っているときに右手袋紛失。
さほど草丈はないのだけれど・・・見つからず。【カッパの悪戯?①「かっぱの手袋盗み??」】
県道を少し進んだ杜の端に 雲洞谷犬丸(うとだに いぬまる) シコブチ神社。
覆屋の横にクルマ1台分の駐車スペースあり。
県道の左手(東)に神社、右手(西)に北川の流れ。
こちらは、県道から覆屋まで石敷きの参道。
覆屋の中、石敷きの上に小祠。
10月に入り、随分と凌ぎ易くなりました。
比叡山から涼風が吹いているとはいえ、日中、外歩きするには、日射しが強すぎます。
なので、キャンプ用のミニテーブルを庭に出し、木陰で、珈琲を飲みつつ読書を楽しんでいます。
・・・時々、びわ湖畔で休むのと同じ~☺
何を読んでいるかと言えば、今は・・・
1)「地図から消えた村」
2)「日東壮遊歌」
前者は、エネルギー革命(製炭業衰退)やダム建設計画(のちに建設中止)で立ち退きになった湖北、余呉の奥、高時川の上流域「奥丹生谷」にあった七つの村について書かれた本(写真集)です。
戦国時代、柴田勝家が北ノ庄城と安土城を結ぶ短絡路を開くまでは、畿内と北陸を結ぶ北国道が高時川沿いを通っていたとのこと。
先年、訪ねた際は通行止め(進入禁止)で谷に入ることが出来ず、近くの洞寿院(曹洞宗の禅寺)を参詣しました。
比叡山・横川の山麓に住まいしていることや「道元禅師得度の地」参詣などをお伝えすると、若い(?)僧侶の方から、お寺の歴史や生活(交流)などについて丁寧に教えていただきました。
「丹生谷」は、「野神さん」、「山神さん」、「朱」や「天領」など歴史的な話題がいろいろとあるようなので、再訪したい処です。
後者は、ハングルで綴る朝鮮通信使の記録ということですが・・・大丈夫、日本語に完訳された本です。
江戸時代、12回にわたって日本を訪れた通信使(※ 第二次は京都まで、第十二次は対馬まで。第四・五・六次は日光まで)。
第十一次使節の書記として随行した金仁謙による1763年8月から1764年8月まで、公州と江戸の間を往復した時の紀行文です。 18世紀の使臣の対日観や日本の沿道の様相などが活写(創作でない実写?)されており、なかなか面白いです。
18世紀を生きた一人の知識人が、家族、国家などをどう見ていたのか、秀吉の朝鮮侵略や日本に対する思いはどのようであったのか等々・・・。
兵庫(神戸市)に上陸してからは殆どが陸行なので、とくに「朝鮮人街道」沿いに住まわれている方に、ご一読をお薦めします。
『やすらぎの道』と名付けられた参拝路を先達さん3名のご協力をいただいて歩いてきました。
仁和寺のHPに「傾斜は緩やかで、老若男女、誰でも巡拝できるように整備された軽いハイキングコース」と紹介されていましたが、老体の暇爺、無事に結願できたのでしようか・・・?
文政10年(1827)当時、四国八十八ヶ所への巡拝が困難であったため、時の仁和寺29世門跡済仁法親王の御本願により四国八十八ヶ所霊場の砂を持ち帰り、仁和寺の裏山である成就山山道に埋め、その上に諸堂を建て霊場を整備したのが始まりとのこと。
本来の四国八十八ヶ所霊場は、阿波・土佐・伊予・讃岐と四国を巡り、全行程三百余里(1,450km)。 徒歩だと50日前後かかるものが、「御室八十八ヶ所」では約3kmに短縮され各所にお堂が建てられており、それぞれが四国にあるお寺のミニチュアという趣向。 参拝路のほとんどは舗装され歩き易く整備されているので、写真を撮りながら3時間ほどで巡れるようになっていました。
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京都駅から、ほとんど冷房が効いていない通勤時間のような超混雑バスに30分ほど揺られてやっと着きましたBS「御室仁和寺」。 大汗をかきつつ立ったままだったので、巡拝開始前から相当に疲れました。
先達の3人さんと二王門で合流。
花の季節でなければ仁和寺の境内は無料で入れるので、突き当たりの金堂の前を左折し西門まで行ったのですが、補修工事中で通行不可。 西門から出られず、二王門まで戻って再スタート。
1番札所・霊山寺から杉木立の間に建つお堂巡りのスタートです。
既に最初から先達さん達に遅れ始めました。 同行者の姿が写ら
ないように距離を取って撮影しつつあるいていたのですが、それだけで遅れたのではなさそうです。 朝のバスの疲れ? 昨日までの歩き過ぎの疲れ? 老齢化による脚力の衰え?
特に、11番藤井寺までは長く感じられた坂道。
約30分で23番札所薬王寺。
南西に開けた見晴らし場所、眼下に双ケ岡がよく見えました。
遠くに、天王山や霞んだ生駒の山並み・・・。
愛宕眺所との分岐から少し歩くと成就山頂上に建つ48番札所西林寺。
眼下に広がる京都の市街地。
標高236mとの表示がありましたが、5~600mほど登った感覚。脚の疲れを感じました。
小1時間ほど大休止して、昼食。 脚の疲れが少し楽になりました。
道は登りから降りに転じて、直ぐに51番石手寺。
山頂からの展望より広角な範囲が見え、木陰のベンチに座って京都市の眺望を楽しみました。 京都タワーなどを確認・・・。
岩場に建立された懸造り風の53番札所円明寺への道は岩場。鎖が設けてありましたが、鎖が必要なほど危険なことはなさそう(逆うちで降る場合は、鎖のお世話になるかも・・・)。
つづら折れをどんどん下って65番三角寺の辺りは少し開けており、池畔の鳥居を潜るとお不動さんの石像、奥に滝の行場。
この辺りから登り降り繰り返しが続く。 登りでは、脚が思うように上がらず、「笑い始める」前兆?
弁財天を祀るような景色、浮御堂の68番神恵院。
お堂の倒壊した71番弥谷寺。傷んでいるお堂は多かったですが、倒壊していたのは唯一ココだけでした。
86番志度寺で、やっと平地に降り立ち、ひと安心。
石のそり橋を渡って結願の88番札所大窪寺。 鐘楼があり、これまでの札所とは異なり、普通のお寺の趣。
ここで暫く談笑して、門前の茶店で休憩したあと解散。
脚の疲れは取れ、京都駅まで冷房の効いた車内で座って快適な時間を過ごしました。
この日、13073歩。
進行性末期ガンの摘出手術、そのあとコロナ禍で家籠りの日々。
入院、そして外部からの刺激の少ない生活が続くことによる記憶障害(?)
前回は、いつ、どこの発掘調査現場に行ったのか・・・まったく記憶がありません。
栗東市にある古墳時代前期から中期前半(約1700~1600年前)の鍛冶工房群「出庭遺跡」の現地説明会へ行ってきました。
調査現場・・・背景右の山は「近江富士」
過年度の調査で20棟以上の竪穴建物、そのうち9棟から鍛冶関係の炉跡を検出するとともに鉄製品や砥石などの鍛冶関係遺物が出土しています。
竪穴建物跡・・・中央の左上に焼土痕(炉跡)
古墳時代前期の竪穴建物の床面積は、100~9.24㎡と大小様々なものが見られます。
発掘調査最終年度になる今年度の成果は、
古墳時代前期の建物 5棟
うち 4棟に強く被熱した炉跡。床面で金属反応。
結果、この遺跡群から出土した「鍛冶工房」とみられる建物跡は全国最多の13棟
建物内部から、鍛冶作業で使われた(?)「敲石(たたきいし)」や「砥石(といし)」などが出土。
現地に早く着いたので、旧知の技師さんから遺物の説明を受けた後、遺構を確認して、説明会の始まる前に退散しました。
帰路、振り返って見た遺跡方向
正面に「近江富士」、右側の2階建てプレハブは現地事務所
日射しが弱く、爽やかに秋風も吹いて、快適だったので、稲の刈取りがすすむ田圃路を歩いて宇和見神社を参詣してから帰路につきました。
この日の走行 42.7km、 歩行 5832歩。
8月上旬、イベント「北山友禅菊祭」が終わるのを待って、京都市最北(?)の山里「久多」の北山友禅菊と安曇川水系のシコブチ3社を巡りました。
R367鯖街道・梅ノ木から(滋賀)県道781・府道110を西進し、久多の集落へ・・・。
途中、川沿いにカーブが続く見通しの効かない狭隘な道で、十分に減速せず車体を倒して集団走行する二輪に冷や汗をかぎながらも無事に集落西端近くの菊畑に到着。
左端にポツンと1台クルマの屋根
龍宝寺の駐車場(5台駐車可。有料)を利用。 この日は、他に利用車両なし。
寺の周りを囲むように北山友禅菊が咲いていました。
山裾を流れる涼風と淡紫に咲く花々が、暫し夏の酷暑を忘れさせてくれました。
北山友禅菊は、元々、久多地域に自生していた野生菊(チョウセンヨメナ)。
休耕田など70アールほどを活用し、観賞用に栽培しているのだそうです。
あまりの心地良さに・・・暫し大谷川沿いを散歩。
京都で一番小さい(?)という「ちゃちゃんこ(松上げ、京都市無形民俗文化財)」の松場がありました。
「宮の町 万灯籠場跡」の標柱。
1時間ほど山里の景色を楽しんだ後
集落の中心部近くの三叉路に鎮座する志古淵神社(「久多のシコブチさん」)を参詣。
久多川と大谷川の合流地点近く。 久多川は、神社の上流側、下流側で大きく屈曲しています。
境内の案内によると
久多の産土神。 創建や由緒ははっきりしないものの、棟札から天福年間(1233~34)には既に社伝を構えていた。現在の本殿は、寛文12(1672)年造営とのこと。
杉皮葺、流造の美しい本殿。
毎年、8月24日には境内で花笠踊(京都市無形民俗文化財)が行われるそうです。
神社の背後、山頂付近に2郭1城形式の「久多城」跡が残っているそうですが、石垣・土塁・堀切などはないとのことなので、登城せず。 真夏の攻城は厳禁です。
府道110を久多川に沿って東進し、鯖街道「川合の別れ」から針畑川を上流に向けて北進して思子淵神社(「小川のシコブチさん」)に到着。
神社の創立は不詳ながら、残っている記録などから中世には存在していたそうだ。
段上の覆い屋内の中央に本殿・思子淵神社、向かって左側に蔵王権現社、右側に熊野社。
蔵王権現社に納められた板札から応安4(1371)年の建立であること、本殿も同様の建築様式であることから同時期に建てられたと考えられている。一間社流見世棚造、梁間一間、正面に縁、こけら葺きで箱棟。 覆い屋に守られて、建築当初の部材が大変良く残されている、とのこと。
神社の裏山から流れる湧水が二股に分かれて覆い屋の左右を流れていました。 涼やか~。
更に針畑川に沿って北上し3ヶ目の思子淵神社(「平良(へら)のシコブチさん」)。
こちらは、覆い屋ですっかり覆われて外から社殿を窺うことは出来ませんでした。
ちょっと気になった社殿裏の巨石。
この針畑川沿いの道を更に北上すると、雲海で知られた小入谷に至ります。
が、予定していた北山友禅菊、シコブチ3社のすべてを訪れることが出来ましたので、今回はここまでにして帰宅しました。
上流の降雨の有無を確認後、河原へ・・・。
なお、帰路の途中に、シコブチ神社があったというシコブチ平。 大橋建設時に撤去された(?)とも聞いていましたが、針畑大橋・金山淵付近を橋上などから探したものの視認するに至りませんでした。 この付近、紅葉の季節に期待できそうな景色でした。
※ シコブチ神
山の木材を下流(琵琶湖)に運ぶ筏流しの守り神。
シコブチ神の表記については思子淵、思子渕、志子渕、思古渕など様々な漢字があてられています。 一説では「シコ」とは「恐ろしい、強い」、「ブチ」は川の屈曲部や淵のこと。つまり、川の流れが安定しない、危ない場所を意味しているそうです。
なので、そうした場所の河畔にシコブチ神を祀って航行の安全を祈願したそうです。
カッパとシコブチさんについての民話がありますが、またの機会に~・・・。
京阪・石坂線 大津市役所前駅下車・・・踏切を渡った先に、かつて毎日新聞主催の琵琶湖マラソンのS&Gであった皇子山陸上競技場が見えます。
今回は踏切を渡らず反対側、県道を渡って大津市役所庁舎の北端部にある駐車場に行きます。 遠回りになりますが、市庁舎に入らず県道を北進して、陵墓案内の石標を左折しても大丈夫です。
市役所庁舎と駐車場がL形に二方を接している弘文天皇陵。
御陵に沿って駐車場の南西隅にある階段を上がると、これから訪ねる三所の参道。
すぐ左手に御陵の入口。 Γ状に曲がった道。
参詣後、新羅善神堂に向かいます。
参道まで戻って、左に十数m進むと道は突当りとなり、右側に鳥居。 鳥居の前から振り返ると右側に御陵。
鳥居を潜って振り返ると その先に御陵。
参道の途中、土塁を切った処に「新羅三郎の墓」の案内表示がありますが、こちらには新羅善神堂の参詣後に戻ってきます。
新羅善神堂への参道を直進すると石段、
崩落の進む石垣が気になるところ・・・。
石垣に囲まれた石段を上がると
塀で囲まれた中に、1347(貞和3)年に足利尊氏が寄進したと伝わる国宝・新羅善神堂。
園城寺を再興し発展させた円珍が、留学先の唐から船で日本に帰る途中、枕元に老人が現れ、「自分は新羅明神である、寺の守護神として祀りなさい」と告げられた旨の伝説が残る、その新羅明神像(国宝)を納められているそうですが・・・非公開です。
屋根のカーブが美しい檜皮葺き三間社流造の建物は、飾り気のない上品な美しさを感じます。
三井寺は、文禄四年(1595)の豊臣秀吉による寺領没収でそれまでの建物がほとんど破壊あるいは他所へ移築された中で、往時のまま残っている数少ない貴重な建築物だそうです。
透かしから覗いた庭に雑草が生えていました。 以前は、境内を精美されておられる姿を時々見受けたのですが・・・無住となったのでしようか~?
参道の途中にあった道案内標示「新羅三郎の墓」まで戻って、墓所に続く踏み石を辿ります。
途中、今、歩いている道よりも歩きやすそうな道がありますが、ただひたすら踏み石の上を歩きます。
前方右の石段は「弓道場」に続く道。なので、誤って行かないように~。
やがて、道は3本に分かれますが進むべきは、一番歩き難そうな真ん中の道。
左の道を進むと東海自然歩道に出て、大津歴史博物館・三井寺あるいはフェノロサ墓・法明院に行くことが出来ます。
右の切通しは、墓所の下を通って法明院に向かう道に出ます。が、墓所下の先は藪漕ぎの道になります。 切通しを過ぎた処で墓所側を見ると上部に石段があり途中から崩落して崖状になっているので、かつての参道は、こちらだったかも~。
真ん中の道を進むと、崖を背にした盛土、墓碑、鳥居が見えます。 新羅三郎の墓所です。 新羅善神堂から200メートルほど。
以前、墓所周辺は藪が凄く、足元が泥濘んでいたこともありましたが、近時は藪もなく踏み石が置かれているので初めての方でも迷うことなく参詣できるようになりました。
この日の散策、30分ほど、約3000歩でした。
ほとんど木陰歩きでしたが、風がまったくなくて・・・大汗。
帰宅後、体重を計ってみると、ちょうど1㎏減でした。
※ 弘文天皇(第39代天皇)・・・天智天皇の第一皇子・大友皇子。1187(明治3年)に漢風諡号「弘文天皇」を贈られ、歴代天皇に列せられたが、在位期間は8ヶ月足らずと短く、実際に大王に即位したかどうか定かではない。 壬申の乱において叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に敗北し自害。
※ フェノロサ・・・大森貝塚を発掘したことで知られるモースの紹介で1878(明治11)年に来日し、東京大学で哲学、政治学、理財学(経済学)などを講じた。 フェノロサの講義を受けた者には岡倉天心、嘉納治五郎、坪内逍遥、清沢満之らがいる。 フェノロサは、日本美術に深い関心を寄せ、その研究・収集を通じて諸外国に日本美術の紹介に努めた。
※ 新羅三郎・・・甲斐源氏(のちの武田氏など)初代当主。 河内源氏・源頼義の三男・義光は、新羅善神堂で元服したことから「新羅三郎」と呼ばれた。1127(大治3)年、三井寺で死去したと伝えられている。
なお、長兄の義家は石清水八幡宮で元服したことから「八幡太郎」と、次兄の義綱は賀茂神社で元服したことから「賀茂次郎」と呼ばれた。