「咲いたよ~」って情報を得てから一週間。
「遅くなったかな?」と思いつつ訪ねた群落保存地。
雪の上、アチコチに仏炎包はあるのだけれど、
花は~?・・・・。
唯一、撮ることができた「花」
気を取り直して、琵琶湖畔へ・・・。
今年も
琵琶湖に春がやってきました。
湖畔には、満開の菜の花
西方向、琵琶湖の対岸に冠雪の比良山
北東方向に
左は、沖島
右は、長命寺山(西国霊場三十三ヶ所)
中央の奥は、伊吹山(滋賀県最高峰)
進行性の末期がん「ステージⅣ」
術後、二度目の春がやってきました。
5年生存率=20%弱、
あと何回、春を迎えることが出来るのでしようか・・・。
今年の実績、探訪先と回数(26回・延べ28日)は以下のとおり・・・
(※ 因みに、二度の手術をした去年は34回・延べ41日。)
滋賀県 16回
うち、湖南 6回(宇佐山城跡・坂本城跡など)
湖東 4回(木村古墳群・観音寺城跡など)
湖北 3回(調子ヶ滝・玄蕃尾城跡など)
湖西 3回(田中城跡・田中古墳など)
京都府 1回(長岡京市埋蔵文化財調査センターなど)
奈良県 4回(ウワナベ古墳現説・奈良文化財研究所など)
大阪府 1回(崇禅寺)
兵庫県 3回(金山城跡・室津漁港など)
福井県 1回(若狭大島)
特に、印象に残った処(お薦め)は、
兵庫県「鬼の架橋」(※この岩橋に上がり渡ることが出来ます)
滋賀県「有漏神社」(※渇水の時、琵琶湖岸を歩いて訪ねることができます。)
福井県「赤礁(あかぐり)崎」(※外海からの波を被らないように、要注意!)
今年は例年と大きく異なり、近畿圏外の探訪先は一ヶ所だけ。
多くは地元の滋賀県内に留まってしまった。
この要因は、術後の通院、投薬に伴う副作用などにより行動を制約されたこともあるが、それ以上に新型コロナのため宿泊を伴う探訪が困難であったことによる。
さて、来年は~
コロナが沈静化すれば、宿泊を伴う遠隔地の探訪もできるのだが・・・
そうでなければ、日帰りが可能な近距離の地で、人に出逢うことが殆んどなさそうな山城や岬などになりそうである。
湖西路の最北部、「マキノ高原 セラピーロード」で森林浴を楽しみました。
メタセ並木を通り抜けて、温泉「さらさの湯」のあるマキノ高原へ。
スキーゲレンデ(無雪期はテントサイト)を通って上部にある管理棟の裏、「セラピーロード」の起終点に到着。
ここから、ほぼ斧研川(よきとぎがわ)に沿って、川の水音を聞きながら整備された緩やかな遊歩道を約30分登ると「調子ヶ滝」。
遊歩道には木橋や白樺の木などもあって単調な景色に変化あり・・・。
道半ばから上部は、砂防工事の際の道路跡を活用した処もあり広々、気持ち良く歩く。
連続する砂防ダムで小休止。
複雑に絡み合ったカエデ (^_^.)
2組の「3本杉」、計6本の杉の大木。
国土地理院の地図に滝下の回遊路が記載してあるが、登って来た道以外は木橋は腐り、道は崩れて通行困難な様子・・・廃道。
下山後、「さらさの湯」を覘くと、団体客(小学生)がたくさんいたので、入浴せずに帰宅。
この日の走行106km、歩行6500歩。
暖かな初秋。
小汗をかき、リハビリ中の運動としてはマズマズでした。
気分転換しようと思って地図を眺めていたら、面白そうな島を見つけた。
「赤礁」。 何て読む・・・「セキショウ」??
で、若狭湾の中央部、和田と繋がる陸繋島「大島半島」の東端にある赤礁岬を訪ねた。
※ ちなみに、北端付近に関西電力の原発・大飯発電所。
この日もゲートにはたくさんの警備員がおり、物々しい雰囲気だった。
原発施設がチラッと見える「袖ヶ浜海水浴場」を過ぎると直ぐにオートキャンプ場が現れた。
キャンプ場の植栽に沿って突き当りまで行くと「あかぐり苑地」のゲート、その前に駐車場。
※「あかぐり苑地」清掃協力金、100円/人。
駐車料 500円。少し手前に見学者用の無料の駐車場があるのだが閉鎖中。
「何もない苑地なんだけど・・・」と申し訳なさそうな親爺さんに駐車料を渡してゲートイン。
先端まで行く道は、海側と山側の2経路があり先端で合流するループ状の遊歩道。
ご当地の歴史などを紹介する説明板が並ぶ海側の道を通り、先端の展望台へ、
若狭湾の絶景。
対岸に、内外海半島&久須夜ヶ岳(エンゼルラインのある処)。
眼下に、連絡橋で結ばれた小さな「大島」、その周りに岩礁(「赤礁」など)。
この日、日本海から吹く北西風が強く、次々と列状になった波が轟音とともに半島に打ち寄せていた。
ブッシュの中の遊歩道を進むと小さな赤礁埼灯台。
高さ10.8m、光達距離5海里(約9km)。雪中での視認性を向上させるため赤白横帯の塗色。
※ 苑地内の散策路や広場、トイレなど良く手入れされていた。
ただし、連絡橋を渡った先の「大島」は、あまり観光客は来ないためなのか殆んど手入れされておらず、遊歩道、とくに崖下に降りる道は荒れており、また波打ち際のコンクリート道は損壊しているところがあった。
波飛沫のためさほど下まで行けなかったが、崖を降り、暫くの間、隣の岩礁との間に寄せる波を楽しむ。
遊歩道まで戻り、下に降りる道を見つけた。
下りたところは、内海(若狭湾)側の静かな砂浜。波は殆んどなく穏やかな海。
赤色チャート(「赤礁」の名の由来?)の崖下を回って外海の方に向かう。
押し寄せる波、高く舞い上がる飛沫・・・壮観~。
ゲートを出てキャンプ場を通り、松ヶ瀬台場跡(2号台場跡)へ。
小浜藩はロシア船の来航に備え、海防上重要な地点として大島半島の松ヶ瀬、鋸崎に台場を築造。キャンプ場建設に先んじて発掘調査の後、復元されたもの(国指定史跡)。
台場は、日本海に向かって半円形に土塁(直径約80メートル、高さ2.2~2.4メートル、幅約14メートル)で囲み、土塁の内側中央部に回転式の大砲を1基、その両側には固定式の大砲を左右2基ずつ(合計5基)配置されていたとのこと。
2基の大砲レプリカが展示されていた。
また、土塁両端部には火薬庫として使用された焼紅弾室跡が復元されていた。
「青戸の大橋」を通行時に、若狭富士(青葉山)の絶景を車窓から観つつ
上中町のそば畑(・・・東を見ても西を見ても、ソバ、そば、蕎麦~)で暫し休憩した後、帰宅。
この日、6400歩、走行185km。
【後日談】
① 見学した「松ヶ瀬台場」は2号台場跡で、その南50m程の処(山側)に1号台場跡がある。
海に向かって横(和一文字形)に全長約50mの断続する6基の土塁、その土塁の切れ目に5ケ所の砲眼が並ぶ1号台場があるそうだが気が付かなかった。
キャンプ場の外、台場近くの道路脇に説明板があるようなのだが・・・これにも気付かなかった。
② 県道241号線(赤礁(あかぐり)崎公園線)の大島トンネル北口から約200m北西の浦底(うらぞこ)地内の露頭にモホ面(モホロビチッチ不連続面,地殻とマントルの境界)が露出しているそうだ。
※ 今から約2億8千万年前の古生代の厚い海洋地殻の下,海底から約20 kmの深さにあったモホ面が,その後の造山運動による隆起と侵食により現在の地表に(マントルの黒っぽいかんらん岩と地殻の白っぽい斑れい岩の互層として)露出したもの。
道路沿いで容易に観察できるモホ面の露頭としては日本国内で唯一のものとのこと。
擁壁北西端(向かって右側)の土盛りから登ることができるらしいので、次に近くを探訪する際は忘れず確認したい。
NHK大河ドラマで「矢島御所」が紹介されたという話を聞いたが、近時、一段と記憶が怪しくなったこともあり、「矢島」を思い出せなかったので現地に行ってみた。
琵琶湖大橋の東岸にある守山市。
面積56㎢弱ほどの市域に30ヶ所余りの中世城館が確認されているそうだ・・・。
市域の中央部からやや西北側に矢島集落があり、北から南に向けて集落を断ち切るように浜街道(県道26号)が貫通。
集落内の道は狭く、その多くが曲がりくねっており、また行き止まり箇所も有るので余所者にとってクルマでの移動は大変だ。
そんな集落のほぼ中央にある矢島町自治会館(コミセン)に駐車。
自治会館あたりは「御所」と呼ばれ、約50m×60mのいびつな方形の周りを囲む水路に堀の痕跡を確認出来た。(※水路により囲まれた区画は、他に数ヶ所あり)
ここは、室町幕府最後の将軍足利義昭(義秋)が興福寺の軟禁から脱出して甲賀(和田氏)経由で当地に逃れ、永禄8年(1565)から翌年に若狭(武田氏)を頼って移動するまで居住した処。義秋は当地で還俗したとのこと。
後に大溝藩(現在の湖西、高島市にあった藩)の陣屋が建てられ、明治初年に村に払い下げられ会所として使われたそうだ。
自治会館の西側に隣接して、大徳寺の一休宗純禅師の開山になる少林寺。
山門を入ると、すぐ左手に竹箒で庭掃除する一休さんの石像。
境内は臨済宗の寺らしく手入れされた庭・・・敷石と苔、片隅に小さな池とその背景の築山(土塁跡か?)。
一休宗純禅師お手植えの銀木犀。
少林寺西側、武道天神社との間の路を石垣や水路に沿って北に進むと矢島城跡。
ここにも土塁が残っているそうだが私有地のため近寄れず、またブッシュのため確認できなかった。
そのまま北に進み集落の外れに出ると東に近江富士(三上山)、西に比叡と比良の山々。
この日の探訪、約1時間、6520歩。
【参考文献など】
守山城物語
玉津学区歴史散策マップ
滋賀県中世城郭分布調査報告書
仰木の棚田を散策した後、少し時間があったので北進して伊香立南庄の村はずれにある神社に行きました。
『仰木の棚田』で紹介しました写真「北の方向・・・比良山」に写っている県道を進みます。
途中、脇道に入り、春の桜や秋の紅葉が素敵な「瀧寺(天台宗 荘山歓喜院。滝の行場)」との分岐から北進すると農道の脇に小さな祠があります(伊香立村「南庄の里」竜ガ谷)。
伏竜祠・・・棚田の中に、小さな鳥居&祠。
左奥に融神社の杜、
中央奥に南庄古墳群のある丘陵、
遠景は比良山。
今から200年ほど前の江戸時代末期(1804年)、開墾中に「竜骨(象の化石)」が出土した場所です。
発見されたときは、それが象の化石であるとは分からず、明治時代になってドイツから招聘したナウマンの研究により「象の化石」であることが明らかになったそうです。
※ 滋賀県内からゾウ(長鼻類)化石が30ヶ以上出土しており、
その約半数は堅田累層(堅田・雄琴周辺)から出土した。
「竜骨」は、領主の膳所藩・本田家から明治になって皇室に献上され、その後、帝国博物館⇒教育博物館(後の国立科学博物館)に移管されたそうです[標本番号 PV-02211]。
なお、発見者の農民・市郎兵衛さんは褒美として米10俵と苗字(「竜」)を貰い、さらに発掘地に「伏竜祠」の安置を命じられるとともに開墾した祠以外の土地を勝手に永作しても良い(租税は免除)との命が下りたとのことです。
さらに後、市郎兵衛さんは、代官に取り立てられ給米五石を賜わり、帯刀を許され、今の雄琴(苗鹿)、千野、南庄、龍華など六ヶ村の支配を命じられたそうです。半士半農的な存在になったのですね。
閑話休題。
「伏竜祠」の北方向に赤色の欄干が観えます。
「融神社」です。
御祭神は、「河原の左大臣」こと源融です。
源氏物語の光源氏のモデルとも謂われている人です。
配祀神は、
大原全子(融の母)と大山咋神(山の神)
南庄は融公の荘園でした。
社地は融公が閑居したところと伝わる旧跡です。
融公の父は、49名の皇子皇女がいたと言われている嵯峨天皇。
なので、融公は桓武天皇の孫ですね。
(因みに、子だくさんだった11代将軍・徳川家斉は53人)