湖畔にあるミニスーパーで買い物した後、いつもは波打ち際を散策するのですが、趣向を変えて西方向(山の方)に向かいました。
以前は、ゆっくり歩いて一時間ほどの散策でよく来たのですが、田畑がすっかり防獣電気柵で囲まれてからは、滅多に来ることが無くなりました。
東方向・・・琵琶湖。近江富士(二上山)。
この棚田の中に『里山ブーム』の仕掛人となった写真家・今森さんのアトリエがあります。
南方向・・・比叡山
北方向・・・比良山
雑誌やTVなどで
「里山風景」によく登場した馬蹄形の水田
湖畔にあるミニスーパーで買い物した後、いつもは波打ち際を散策するのですが、趣向を変えて西方向(山の方)に向かいました。
以前は、ゆっくり歩いて一時間ほどの散策でよく来たのですが、田畑がすっかり防獣電気柵で囲まれてからは、滅多に来ることが無くなりました。
東方向・・・琵琶湖。近江富士(二上山)。
この棚田の中に『里山ブーム』の仕掛人となった写真家・今森さんのアトリエがあります。
南方向・・・比叡山
北方向・・・比良山
雑誌やTVなどで
「里山風景」によく登場した馬蹄形の水田
大岩があったので、頭上高く両手で持ち上げてみました。
Wn~・・・・・・・
余りの重さに両足が地面にめり込んでしまった~。
試しに・・・片手で・・・。
高いところが好きなので、
絶壁を望む「鬼の架橋」に上がってみました。
危ない~!
本当に「アホ!」ですね~ ![]()
良い「爺」は真似をしないでね (^-^)
近江神宮の参拝を終えたのですが、殊の外、体調が良かったので、昼食後に近江神宮の裏山・宇佐山城跡を訪ねました。
【宇佐山城】
元亀元年(1570) 、織田信長の命により森可成(もりよしなり、森蘭丸の父)が築いた城。
京都と琵琶湖(坂本)を結ぶ比叡山の山中越を監視する位置にあり、湖西路から京への入り口を抑える要所でした。 当時の琵琶湖南岸における物流の拠点は現在の大津ではなく坂本でした。
挙兵した大坂本願寺や三好三人衆などの攻撃に向かった織田信長の隙をついて浅井・朝倉連合軍が湖西路を南下し京都に入りました。
急きょ取って返した信長に対し、浅井・朝倉勢は京を出て比叡の山々に籠もりました。
織田勢も山麓に布陣しますが、反信長の火の手が近江各所であがっており、容易に動くことができませんでした。
結局、両者は山の上下でにらみあったまま膠着状態はこの年の暮れまで続きますが、将軍足利義昭のあっせんで和睦が成立し、お互いに陣を引き払って本国に戻りました。
この一連の戦いを「志賀の陣」といい、信長にとってはもっとも危機的な状況の一つでした。
両者が和睦した後は、明智光秀が宇佐山城に入りました(後に、坂本城を築造し移転)。
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登城路は少し急な山道をひたすら登る忍耐の道です。
10年ほど前、発掘調査に従事した宇佐山古墳群(近年の豪雨・台風による倒木などで荒れています。 詳細は近江神宮の南端にある駐車場の柵に説明版があります。)の横をとおり「御足形」、「金殿井」を過ぎたところで宇佐八幡宮の参道と別れ、杉林の間の登城路に入ります。
暫く九折の坂道を登り少々疲れが出始めた頃に、登城路の左手に大竪堀を見ます。 登城路を更に少し登ると左側の頭上に石垣が現れます。 Ⅰ郭(主郭)の石垣です。あと一息で尾根(Ⅰ郭とⅢ郭の鞍部)です。
尾根に上がり右側のⅢ郭(A)に入ります。 視界を遮っていた北北東側の木々が伐採されましたので、坂本の町、琵琶湖大橋、長命寺山・沖島、伊吹山などを望めます。 北東側の下に石垣遺構が僅かに残っています。
伐採されていない北側、木々の間から直下に出丸(浅井・朝倉軍により落とされた郭)、Ⅲ郭との間は絶壁&痩せ尾根です。 その先方向に壺笠山(浅井・朝倉の陣城跡)。
鞍部まで戻ってⅠ郭(B、主郭)に入ります。 左手、頂上の削平地との間に横堀(武者隠し?)が残っています。 その先に進むと、先刻、登城路から観えた主郭の石垣下に出ます。
石垣横の斜面をよじ登るとNHKなどの中継施設がある主郭面です。 ここから西側に信長が造らせたという新道(山中越)が直下に観えます。 最南端の建物下に石列遺構(櫓跡?)が保存されています。
Ⅰ郭の南端に虎口遺構?が残っています。
南に一段降りるとⅡ郭。 南東端の斜面に石垣の隅石?が確認できます。
更に、一段降りて、東西に狭い削平地があり、その東側下斜面に宇佐山で最も残りの良い石垣を観ることが出来ます。 未だ高石垣を構築する技術がない時代にあってⅡ郭(C)までの間に2段構成の石垣を構築したのでしようか・・・?
石垣を観察した後、そのまま北にⅠ郭の石垣を左手に観ながら進むと登城路に出ます。
来た道を戻り八幡宮を参拝したあと、無事に近江神宮のPに到達しました。
前回、山城に登ったのが10ヶ月前の八木城(内藤ジョアンゆかりの城。京都府南丹市)。体調が良いというものの少し不安でした。
その不安が的中して、山頂まで残すこと50mほどのところで貧血症状が出て立ち眩み・・・(治療により赤血球が減少しています)・・・でしたが、無事下山。
城跡でゆっくりしたこともあり、これまでの倍近くの2時間半ほどの探訪となりました。
山頂付近を除いて無風、小汗をかく登城で絶好の『登城日和』でした。
二週間後、再び、県教委の方々と登城しました。
若い方々のスピードについていくこともできず・・・。
何とか登城できたものの、山頂の遺構を探訪中に2度ほど立ち眩み・・・当分の間、山城探訪は控えたほうがよさそうです。
全天青空&風のない余りに良い天気に誘われて琵琶湖畔を訪ねました。
・・・と言っても、わが家からはクルマで10数分のところです。
流石に湖畔は比良おろしの冷たい風がありました。
例年なら白一色の比良山も暖冬なのでロープウェイ山上駅付近に僅かに冠雪が観えるだけです。
「琵琶湖大橋」
・・・琵琶湖のくびれ部に架かっています。この橋より北側を北湖、南側を南湖と呼んでいます。
2本の橋が架かっていて、
北側(湖西の堅田→湖東の守山)は1400m、
南側(守山←堅田)は1350m。
それぞれ平成6年、昭和39年に完成。
一番高いところは湖面から26.3mありミシガンなどの観光船が橋下を通り抜けます。
ちょうど橋の中ほどに休憩スペースがあり、ここに立つと
伊吹山~嶺南(滋賀と福井の県境)の山々、鈴鹿の山々、三上山(近江富士)、
そして浮御堂など、湖北・湖南の景色を一望できます。
役目を終えた「うみのこ」(旧船。一昨年、新造船にバトンタッチ)
・・・全長64.91m、全幅12.0m。1355トン。
一泊二日のフローティングスクール。
滋賀県内の小学5年生は、この船に乗り琵琶湖や郷土について体験学習などを行います。
道の駅「びわこ大橋米プラザ」
・・・屋外に彫刻がいくつか展示されています。 そのうちの2点をご紹介します。
佐藤忠良「若い女・シャツ」
『若者たち』で有名になった女優の佐藤オリエさんの父親です。
対岸の「佐川美術館」に『帽子』シリーズなどたくさんの作品が展示されています。
もう一つは、わたしのお気に入り
淀井敏夫「夏の海」
でした~ (^-^)
※ 容量オーバーで写真をUPできませんでした(閉鎖になったyohooブログを移行したことが原因かも・・・サイズの大きな写真をUPしていました。)
全く同じ記事をUPした以下のブログにお越しいただければ幸いです。
https://smcb.jp/diaries/8156289
k
投薬休止4日目(1月6日)。
手足の痺れがかなり軽くなったこの日、近江神宮へ行ってきました。
薬により病原菌などへの抵抗力が弱くなっているので雑踏は避けたいところです・・・。
正月の三ヶ日を過ぎていましたのでさほどの混雑はなく、のんびりとした散策を楽しみました。
【近江神宮】
第38代天智天皇を祀る神社で近江大津京跡に鎮座しています。
昭和15年(皇紀2600年)に建てられた社殿は「近江造り(昭和造り)」といわれ、近代神社建築の代表として登録文化財になっています。
参道の石段下から見上げた楼門
境内に日時計や火時計などが設けられ、時計館宝物館があります。
また、漏刻(水時計)も復元されています。これは、天智天皇が671年4月25日(太陽暦6月10日=「時の記念日」)に漏刻を作り、大津宮に置いて鐘鼓を打って時報を開始したことに因むモノです。
火時計
漏刻
(※日本書紀には、斉明天皇のとき660年にも中大兄皇子が漏刻を作られた旨の記載があります。こちらは、飛鳥の「水落遺跡」でご覧になられた方も多いと思います。
ただし、発掘調査で漏刻そのものが出土したわけではなく、漏刻の跡ではないかと推定されている遺跡です。)
漏刻は、中国の文献などをもとに江戸時代の日本の文献(桜井養仙「漏刻説」享保17年)に描かれたモノがあり、それらによって近江神宮や水落遺跡の漏刻を推定し、制作されました。
外拝殿からの参拝もそこそこにして「近江勧学館」に向かいました。近時、「かるたの聖地」としてアニメなどで話題になっているところです。
2Fに「競技かるた」会場の浦安・豊栄の間があります。
近々(1月11日)に「名人位・クィーン位」決定戦が行われる会場です。畳に緋毛氈が敷かれた華やかな会場・・・。
「競技かるた」の会場(浦安・豊栄の間)
「三都物語」の最後は、久し振りの神戸です。
近頃は、年に一度、訪ねることがあるかどうか・・・。
むか~し昔、瀬戸内に橋々が出来るまでは、ここから船に乗って四国に行ったものです。
今回は、「お決まりのコース」で、新神戸の竹中大工道具館に立寄った後、南京町、メリケンパークや海岸通り周辺を徘徊してきました。
さてさて、寒風の吹くなか、足腰の弱くなった「老人」は無事、漫ろ歩くことができたのでしようか~~~?
スタートは、JR三宮駅。
怪しい空模様です。
偶々、EVで一緒になった親子連れ(?)。
地図を見ているのですが、困惑顔~だったので、ご案内
・・・香港人でした。
地下鉄に乗って、新神戸駅下車
生田川公園を抜けて、「竹中大工道具館」
この日は、常設展示だけでしたが、
寺院建築や数寄屋造り(茶室)の構造、
様々な組み物や数々の大工道具など
何度観ても楽しむことができます。
日曜日だったので体験教室「ちょこっと大工」は盛況のようす。
予約なしで、スプーンやえんぴつ立てなどを作ることができます。
館を出る頃には、雨が本降りに・・・、
フラワーロードの観えるところで、
早目のランチ、中華(香港広東料理)です。
再び、地下鉄に乗って「県庁前」下車
雨は止んでいます。
こんな珍しい(?)モノも・・・
送迎もしてくれるのかな~?
兵庫県庁舎の間を抜け、山手通りを渡って「相楽園」
正門前で記念写真を撮っていました。
樹齢300年の太い蘇鉄
大きな石灯籠の隣には、
永禄2年(1567)に荒木村重が花隈城の鬼門除けに植えたと伝わる大きな樟
日本庭園の「船屋形」は、
姫路藩主が川遊びで使った『川御座船』の屋形部分を移築したものだそうです。
春慶塗と黒漆塗の木部、金箔の飾り金具を打った長押や垂木。
現存する船屋形は、国内唯一とか・・・。
「旧・ハッサム邸」
明治35年頃に異人館街(北野町)建てられたのを移築。
震災時に屋根から落下した煙突が、邸前に置かれています。
レンガ造りの「旧・小寺家厩舎」は修復中~でした。
小雨です。
県庁の南にある「兵庫県公館」。
苦悩するアダム・・・イブはどこ~?
正面扉は閉まっていましたが、
北扉から「県政資料室」に入れるとのことなので
回って行くと、北側、
山手通りとの間にある「栄光教会」
正面扉が開いていましたので、
お邪魔しました。
‘95年の震災後、‘04に再建されたそうです。
事務室に「礼拝堂」の見学をお願いしたら、
ライト・アップして、パイプオルガンの(自動)演奏~。
本降りの雨。
「県政資料室」に立寄るのをスッカリ忘れて
(※現在、認知症の進行中~)
急ぎ、元町高架下の商店街「モトコー」に入ります。
JRの耐震工事を理由に借地契約の更新はされず、
退去した店々のシャッターが並ぶだけの空間になっています。
かつて戦後の闇市を彷彿させてくれた賑わいは全くありません。
止む気配のない雨。
元町から三ノ宮、センター街を歩いて
茶店でひと休みした後、
帰宅するつもりだったのですが・・・。
店を出ると
雨は止んで、青空~。
京町筋を港に向い、博物館前を通り
公共埠頭の東端にある石碑「海軍操練所の跡」
万延元年(1860)咸臨丸の艦長として渡米した勝海舟は、
文久3年(1863)に開設された操練所に
坂本龍馬や陸奥宗光など全国から200名の俊英を集めたのですね。
ところが、
翌、元治元年(1864)の『禁門の変』に操練生の一部が
反幕府軍に参加したため、
軍艦奉行並・海舟は、激徒養成の嫌疑を被って解職され、
操練所も慶応元年(1865)に閉鎖されたそうです。
海上保安本部のウラ、
巡視艇などが停泊している岸壁沿いを
西に進んで「メリケンパーク」
「震災メモリアルパーク」
震災の翌日、
崩壊した岸壁に
上陸したことを思い出します・・・。
海上から観た神戸は、
アチコチから煙が昇り
損壊したビルや倉庫が多く
まるで戦争映画のワンシーンのようでした。
雨は止んだものの冷風が吹いています。
当初、立寄る予定だった「海洋博物館」などは割愛、
海岸通(国道2号)沿いの
「海岸ビル」、「商船三井ビル」などを観て、
海岸ビル・・・15年戦争(太平洋戦争)のときの
米機・グラマンの機銃弾痕が残っています。
震災後、解体再建し、外壁を残して高層ビルになっています。
三井ビル・・・手動式のEVを観たかったのですが、
工事中で館内に入れず・・・。
前町通の「15番館」(博物館の西隣り)で、
またまた小休止。
震災で崩壊したのですが
再建して、飲食店に・・・
(博物館の半券があれば、割引)
明治13年頃に建てられ、米国領事館して使われたこともあるそうです。
館の前に、こんなモノが・・・。
旧・居留地の地下に埋設されていたレンガ造りの下水暗渠です。
貴重な土木遺産ですね・・・
仲町通を西に向かって、大丸の南を過ぎると
何やら賑やかです。
メリケンロードの向い、
南京町の東入口にある「長安門」前に・・・
旧暦正月「春節祭」のプレイベント「南龍游行」です。
龍龍は、全長47mもあるのですね~
予定の半分ほどしか回れなかったものの
予想していなかった遭遇に気を良くして
JR元町駅から帰路につきました。
この日、18105歩。
海岸通り近くで、
神戸港の出船、入船を見ながら2年ほど勤め
『お昼』は、海岸通のビル内や南京町界隈で食したこともあり、
・・・懐かしい場所の散策でした。
コーヒーブレイクもなく南に歩きます。
谷町筋から、
星光学院の北側の道を西に入って
「勝鬘院(愛染堂・四天王寺施薬院)」
薬医門を入ると金堂の裏に「多宝塔」
大阪市内最古の木造建築・・・美しいですね
境内には、「愛染かつらの木」や「腰痛封じの石」なども
陽だまりに、梅が咲き始めています。
「勝鬘院」の西は、「天王寺七坂」の一つ「愛染坂」の急坂
坂の北側に「大江神社」
天王寺七宮の一、四天王寺の鎮守
谷町筋に戻って、「金剛組」の前を過ぎ
四天王寺前交差点を西に向います。
「一心寺」の写経堂三清庵の庭を観た後、
「天神坂」を下って、
「安居神社」の裏道(北側の石段)から境内に
「さなだ松」にもたれて
休息していたところを討ち取られたそうです。
49歳だったとか
「休む幸村象」 ※背景は、「二代目 さなだ松」
境内の崖下に「安井の清水(癇鎮めの井)」
国道25号に出ると、すぐ近くに「通天閣」
国道の南に「一心寺」、阿倍野ハルカスが観えています。
モダンな山門(仁王門)。
各地から大阪に移ってきて、菩提寺のない大勢の人のため
宗派を問わず先祖供養ができる・・・
開かれた「お寺」ですね。
この日もたくさんの参詣者でした。
ところで、「骨仏」って、どのようにして作るのでしようね~。
境内、北門近くに「霜ふり松」
幸村に追い詰められ、この辺りに潜んでいた家康は、
にわか出てきた霧に包まれ救われたとか・・・。
「本多出雲守墓」、
「鳥羽伏見の役 戦死者(東軍)墓」や
「戊辰戦争 会津藩士の墓」などもあるようです。
ここにも「真田の抜け穴」があるとのことなのですが
・・・見つけられなかった~
「一心寺」を出て、南の「茶臼山」(古墳?)
冬の陣では家康の、夏の陣では幸村が布陣。
後円部は公園整備時によるものでしようか?
キレイな正円です。
南側の「川底池」は周濠の名残り?
遊歩道は整備中で通行不可だったので
北からグルット回って「堀越神社」
境内に「熊野第一王子之宮」の祠
京の都から淀川を船で下った上陸地・天満の港にあった第一王子(「窪津王子」)が
四天王寺の西門近くの「熊野神社」に遷され、
後に「堀越神社」に合祀されたそうです。
熊野=3本足の「八咫烏」
・・・気になりますね~
太陽の象徴
地中海沿岸、中国、朝鮮そして日本に残る神話
東に進んで、最終目的地の「庚申堂」
日本で最初に庚申尊が出現したところだそうです。
幸村は、ここに伏兵(影武者・穴山小助)を置いて、
攪乱戦法を取ったのですね・・・
「三猿堂」が有りました。
覗くと~、
居ました3匹の猿(見ざる・聞かざる・言わざる)
境内にあった石像・・・どなた?
何に乗ってるのでしよう・・・?
高麗門を出ると真北に「四天王寺」の五重塔
反対方向に進んでJR天王寺駅
そして、・・・ハルカス~
本日は、ここまで・・・21180歩。
改めて、「大坂の寺町」域の広いことを実感した一日でした。
高層ビル近くでは、
ビル風が強くて
何度も吹き飛ばされそうになりました。
少し寒そうだったけれど、
空いっぱいの青空~
「大河ドラマも終わって少しは静かになったかな?」と思って
・・・JR玉造駅から天王寺駅まで漫ろ歩きしました。
駅西の路地に入ると「幸村ロード」
所どころに真田十勇士のマンガ絵看板
店先の「エリアマップ」を見ていると
中から、お姉さんが出てきて、その地図をくれました。
日の出商店街、玉造筋を抜けて
長堀通の脇道(大坂城と真田丸を分かつ堀跡?)に入り、
宰相山西公園沿いの道を南に進むと「三光神社」の鳥居
石段を上り参道を進むと「幸村の像」
朝日が眩しそうでした。
隣りに「真田の抜け穴」
中を覗くと
かつては10ヶ所以上もあったそうですが
本当は、何の『穴』だったのでしようか?
表参道の石段を下り
(石段下にある「新家の北向地蔵」の由緒書に真田山について記載があります)
山麓を東から北に迂回して、
再び西に向かうと
「善福寺(どんどろ大師)」の門前に「お弓とおつるの母子像」
『傾城阿波の鳴門』の母子出逢いの場は、ココだった !!
とと様の名は?
阿波十郎兵衛~
エエ~ して、かか様の名は?
アイ、 お弓と申します~
泣けてきますね~
境内の奥に、大きな勝軍地蔵尊が祀られています。
南の坂(「心眼坂」)の途中に「心眼寺」
大きな千手観音像が見えますが・・・これは、お隣の寺
門前に、「真田幸村出丸城跡」と刻まれた石碑
寺紋は六文銭
幸村・大助父子の冥福を祈るために滋野氏(海野氏とも?)の発願により白牟和尚が創建したという寺
※滋野氏・・・信州・真田の郷に入る手前の南に「海野宿」があります。
その辺りを領していた滋野氏の嫡流という海野氏
真田氏は、この海野氏の傍流と謂われています、が・・・。
平成26年に建てられたという真新しい墓石
境内に、「京都見廻組」の幕臣3人も埋葬されています。
鳥羽・伏見の戦いで亡くなったそうですが、
この3人は、
坂本龍馬や中岡慎太郎らが殺害された
京「近江屋」襲撃メンバーだったとのこと。
まんの悪い時に祈願すると、不運を直して幸運に変えてくれるという「まん直し地蔵」にお願いするのを忘れた~。
明星学園に沿って、
「心眼坂」を少し登ると「真田丸顕彰碑」
校舎の壁に、幸村の大きな絵
学園の南沿いを西に向かうと「円珠庵(鎌八幡)」
※ 境内、撮影禁止
幸村は、「冬の陣」の際、戦勝祈願して神木に鎌を打ち込んだところ、大勝利~
神木に、必勝祈願の鎌がたくさん打込まれています
ここは、契沖の庵だったところ。
西に進んだ後、上町筋を南進。
かつて、寺、寺、寺・・・大きな寺が続く寺町でしたが、
店やマンションなどが建ち、随分と景色が変わっています。
「誓願寺」に井原西鶴の墓
GSの南側に山門がありますが、
間違って、北側の裏門から入ってしまい・・・行き止まりです。
ちなみに、「西鶴終焉の地」の石碑は、谷町三丁目交差点の南側です。
西に進むと
「東平北公園」に薄田泣菫の文学碑
当地と関係があったのでしようか・・・?
近くに、石標。
年代物で読み難いのですが、
「八けんや」などの字を確認できます。
谷町筋に出て「近松門左衛門の墓」
谷町七丁目交差点の南、GSの北隣りの狭い路地奥
お寺が移転して、墓石だけが取り残されてしまったのですね ~
谷町筋を南に進んで、
浅野家の菩提所「吉祥寺」
赤穂藩主は、参勤交代の折などに度々、訪ねたそうです。
境内に「大石内蔵助切腹の像」
四十七義士の墓
門前の説明板に『・・芸州の本家によって墓が建立された・・・。浅野本家に討入りの報告に向かった寺坂吉右衛門が、途中、立寄り、義士たちの遺髪・遺爪などを供養のため託した。』とあり、
墓石前の説明板に『・・討入りの翌年、切腹のあと足軽・寺坂吉右衛門が遺髪・遺爪・鎖かたびらに銀十両を添えて建碑を依願した・・・』とありますが、
さて~? (※ どちらも要約)
「義士討入りの石像」
「蜂須賀正勝顕彰碑」がありましたが、さて~?
スイセンが咲いていました。
ロウバイは、あと少し~
谷町筋を
更に、南に進みます。