象の夢を見たことはない -95ページ目

豊田市美術館 反重力

豊田市に来たからには、美術館も行くでしょ?ってことで。
てか、一人で来てるわけだけど。

$ニャンちゅうなブログ-反重力

反重力展
チケット。

$ニャンちゅうなブログ-チケ

パラレル、パラレル、ワールド。やくしまるえつこの展示もあったり。
自分的には、内藤礼が、横浜トリエンナーレで見たときから気になってて。
この最初の写真のやつ。実物は3cmくらいなのだ。

$ニャンちゅうなブログ-内藤礼

バルサで作られている。このショボさがいい。
で、その横に「持ち帰り自由」のロシみたいなペラペラの紙が一束。
真中に赤く何かが書いてある。
持ち帰ってみた。

$ニャンちゅうなブログ-ロシ

わからない。寄ってみる。

$ニャンちゅうなブログ-ロシ 1

まだ、わからない。さらに寄る。

$ニャンちゅうなブログ-ロシ 2

なんか、字がかいてあるみたいだ。
さらに寄る。

$ニャンちゅうなブログ-おいで

「おいで」って書いてある。これってオノ・ヨーコのYESだ。
でも、その場ではわからない。虫眼鏡も置いてない。
家に持ち帰ることでわかる。
そういう一歩を見る者に求める。
ポジティブなアプローチをすることによって、答えがわかる。
のだけど、「おいで」という文字が反転しているわけで。
うーむ。これって、どういうことだろう?

で、こんな一角にも。
その空間を睥睨するようにちんまりと立っている。

$ニャンちゅうなブログ-ちんまり

これはどうもお母さんっぽいのだ。
部屋にある人形は3体で、おとうさんと子供みたいだ。
その場所に行かないとこの文章で何を言ってるのかわからないだろうけど。

内藤礼。ミニマルな表現。最小限の事物で、日本のあたたかさを感じる。
母がテーマなのだ。現代アートで、好きな作家さんをあげるなら、自分はまずこの人をあげる。
『ゴーイング・マイホーム』という是枝裕和監督のTVドラマをやってたけど、あのやわらかさとミニマルさが似ている気がする。宮崎あおいの透明感というか。
あのコ、おかあさんの感じがあって。『EUREKA』(ユリイカ)とかそういうときからすでにまとっている空気感。あれは一体なんなんだろう。いまだによくわからない。

では、反重力なパラレルワールド。
やくしまるえつこの展示の内容はこれっぽっちも反重力でもパラレルワールドでもなかったけど苦笑

というか、全体見てちょっとそのまとめ方はひどいと思った。ディレクター誰w?まあ確かになんとでも言える感はあるのだが、トリエンナーレとかビエンナーレのテーマと同じで、現代美術。言ったもん勝ちなアレ。



<後記>
「反重力」は、私たちの身体や生活を規定した枠から逃れるものとして語られ、空中都市や宇宙飛行は、はるか昔から人間のユートピアに対する憧憬を誘ってきました。本書ではそうした「反重力」をテーマに掲げ、総16名のアーティストの作品を紹介します。これまでの人間の生活の基盤から離れ、新たに描き出されるユートピアを考えます。
とのこと。そうか、そういうことか。なるほど、だからやくしまるえつこのアレはそういうことなのね。なるほど。枠から逃れるものと来たか。うまく言葉でまとめたなあ。やられた。なるほどぉ。

豊田市民芸館 バーナード・リーチ

散歩した。豊田市まで。電車で。

$ニャンちゅうなブログ-豊田市民芸館

バーナード・リーチ。

$ニャンちゅうなブログ-バーナード

ふむふむ。好きだわ、こういう絵。
チケット。

$ニャンちゅうなブログ-チケット

イギリス人が、水墨画を描くとこうなるっていうか。アジアにやってきて、その土地と出会う。その新鮮な目の楽しさを共有する。そういう作品群なのだ。
なので見てて、「ニマぁ~」とニヤけてしまう。愉しい。
そうか、そう見るかぁ~っていう。そして、確かにそうだわなあっていう。
見てるこっちが昔の日本を再発見するわけで。

デッサンが「描ける」人っていうのは、どの線を消して、どの線を残すかというのを本能的にわかっていて。それって、そぎ落とすというより、まず初っ端に描く線だったりするんだろうか?そこが絵が描ける人と描けない人の違いというか。消せる大胆さというか、描かない大胆さというか。なにより描く人の感情が、シンプルな線にのっかっている。

なんか、自分でも描けそうなところが逆にヤバいのである。
陶芸やりたいなあ。今年は、実家で田植えを手伝ってたのだが、作っている田んぼのそばにけっこう大きな陶芸工房があって、作業の合間に気がつくと眺めてたんだよね。土いじりたい。

敷地内には、こんな洋館もあったり、お茶室っぽい茶屋もあったり。

$ニャンちゅうなブログ-洋館

横を大きな川が流れてたり。なかなか趣のある場所だった。
豊田市やるなあ。

雑感

今朝、日曜美術館で『“手”は無限なり 第60回日本伝統工芸展』を観てた。

美術の世界も進化というのがあって。誰かが発明して画期的だった手法を、次の世代では当たり前のように使ってたり。それが、古典とかマンネリっていわれてしまう何かになってしまったり。それは芸術の中の「技術」という部分なのだけど。
もちろん、例えばラスター彩のように一旦技術が長い間途絶えて、誰かが復活させたものもあれば、誰も二度と復元できない技法というのもあったり。

伝統芸能というのは、二つの側面があって。
長い年月をかけて腕を磨かなければ、そこに到達できないという技術面での成熟というものと。
そしてデザイン性というもの。

デザインというのは、技術を超えてしまうことがあって。
その二つの価値観の拮抗というのが、逆に美術とか芸術のミソなんだと思う。
デザインというのは、いきなり、一年生がその道50年っていう人を凌駕してしまう。
天才というか、跳躍というか。

どっちかというと、伝統芸能というのは、前者のほうを重視するのだけど、新人の作品の価値も重く見てたりしてて。案外そういう点がおもしろい。

で、新人で賞を貰ってもてはやされると、その時点で終わってしまって、過去の自分を超えるのに、それこそ何十年もかかったり、その作品に呪われて一生を終えてしまったり。
逆に、生前に不遇だった人のほうが、そういうのにとらわれずに進化していって、死んだあとにそれも含めて、すべてが評価されるとか。

葉加瀬太郎と宮藤官九郎の『SWITCHインタビュー 達人達』観てて思ったのだけど。葉加瀬太郎ってずっと『情熱大陸』に呪われるんだろうなと。なんか、そういう『呪い』っていうのって普遍的な人間のあり様というか、テーマな気がしていて。
個人の欲望に根ざした、後世に自分を残したいという名誉欲的なものが、その人を一生呪縛するっていうギリシャ神話的な、古典的な悲劇なんだと思うんだけど。

そういう呪われる人の匂い。業の匂いがする人というか。
結構、その部分っていうのが、他者からすれば、その人の好き嫌いが分かれるとこだったり。古典的なテーマでありながらそういうのを主題にした古典を自分は見たり読んだりしたりした記憶がない。

伝統芸能で言うと、技術的な習熟ということに囚われてしまった技術囚人の人が、どうも日本画とか伝統芸能とかの世界に多いような偏見が自分の中にあって。伝統芸能だけじゃなく、今の音楽業界にもそういうのってあるなあと。過去のミリオンに囚われているメジャー業界とか。その味を味わってしまった人が過去の呪縛から逃れられないというか。

そう言えば、今日、「2004年頃、時代が変わった」石田ショーキチが語る、音楽ビジネスの苦境とその打開策ってのを読んでて。
最近こういう記事が多いんだけど、なんだかなあと期待しながら読んでいつも裏切られる感苦笑。スパイラルライフは好きだったのだが。やっぱ、ミソは車谷くんだったんだなと。

こういうのって、すごく日本的な気もする。そういうあまりに日本的な呪縛の匂いがきつくて、自分はこれまで、伝統工芸というお題目での展覧会って好きじゃなかったのだけど、最近年を取ってきて、「ん?伝統工芸って、そういうレベルだけで語られるわけでもないな」とぼんやりと感じ始めていて。

ただ、その結末としてどういう大団円があり得るのかが、まだ霧の中なのだけど、確かに何かありそうな気がしている。そしてそれは、その人の中にある。他者の中に自分の評価を求める人って結局そういうレベルでしか、後世でも評価されないんだろうと思う。無心というか。自分的には、あざといのも結構好きなのだけど苦笑

んで、その葉加瀬太郎氏がが宮藤官九郎氏との対談で言ってたのだけど。
『音楽』って無駄なものを取っていくと確実に賞味期限が長くなると。
すげえわ。やっぱりと。なんかさ、そういうのを含めて、わかっててやってしまうとかいうのもあるんだなあと。それでいて到達できない場所とか。なんかそういうところがあらためて人生っていいなあと思う。

中秋

$ニャンちゅうなブログ-月

うまく撮れんなあ。夜景モードにすると昼間みたいに明るくなるし。

にしても3脚欲しい。

一眼レフのカメラ?なにそれ?おいしいん?(←負け)



うさぎということで。

世界を支配するアレ

フィクサーという映画を観ていた。

スティーブン・ソダーバーグ製作総指揮、脚本トニー・ギルロイ。ソダーバーグはいわずもがな。トニー・ギルロイはボーンシリーズの脚本家。「ボーン」シリーズ大好きなのだ。そして、監督もこのトニー・ギルロイ。正直、玄人好みの映画で。日本では興行成績含め、あまり知られてない。

いろいろ、考え込むシーンがある映画なのだが。
たとえば、携帯電話に「裏用番号」で、電話がかかってくるシーンがある。
つまり、その電話は「複数の携帯番号」を持っている「一台の携帯」なわけで。

イマドキ、仕事用とプライベート用、いくつもの携帯をもっている人は日本でもザラなわけで。その人にとって煩わしいのは、いくつものそれらの機器に対する「インターフェイス」を「自分の中に持つ必要がある」っていうこと。それが一台の携帯で済む。単に持ち運びというだけでない。それすら一つのインタフェイスだ。もちろんすごく大きい因子である。経済的であるという側面含め。経済的というのもインタフェースの一つだ。「自分」という視点は、「お客様視点」というのと同じで、それをどうメタ的に統合できるかというのが、いまどきの商売の基本になる。

たとえば、左利きの人の寿命は右利きの人に対して短い。これは、世の中の多くの機械や道具が右利きようにデザインされていることで、「とっさのとき」にゼロコンマ数秒という判断の遅れが出るから事故死の割合が多いせいだと。

根本的に「無意識」を制するものが、「製品」を制する。
っていうのが、例えば電機業界でもそうで。

理ではなく直観であり、直感なんだよね。今の日本には、そういう「とんがった」企業が少なくなった。経済的には「コングロマリット」的な寡占企業の方が安定しているという自民党的思考が強いんだけど、それは「団塊世代」の「赤信号みんなで渡れば怖くない」っていうA型的な性向でしかなく。

A型の人間嫌いなんだよね、オレ。あるいはそれは、自分の中にあるA型気質が嫌いというか。付き合いが浅い人にはよくA型に間違えられるのだが。。安定を求めてるんだと見抜かれてるんだろう。他人はいつも鋭い。それもまあともかく。

アップルの凋落は、スティーブジョブスの死によってではなく、今のCEOがその「ちょっかん」を持たない凡人だからだと。株式市場を見みながらそんなことを思った。そういう「ちょっかん」が一番顕著に現れるのが投資業界だと思う。一匹狼的なヤツにどうしても憧れてしまう。