セザンヌの塗り残し
ルドンの展覧会に岐阜美術館へ行ったとき、音声ガイドも借りた。
極端に出不精なルドンが、めずらしく海岸で描いた絵があって。
そのときのルドンのコメントに、「すべからく、絵描きは外に出て絵を描くべきだ。これが自然だ!」的なコメントを残したと解説が入っていて。
正直、それまでの絵の流れも年代順に見ていて、なんだか違和感があった自分はそのコメントで納得がいったというか。「ああ、この人はこういう人なんだ。わかる気がする」と。別にエゴが悪いと言っているわけではないけれど。
こないだ、NHKの日曜美術館で、『孤高の画家 夢を紡いで ギュスターヴ・モロー』をやってて。そのオープニングで、『出現』の絵を詳細に映し出していた。
ポストカードで最初にこの絵を見て、実物はみたことないのだけど。
ディテールに凝った人なのかと思ってたのだけど、舐めるように寄った映像を見て、逆にそこにある線に戦慄した。そして、主題以外の部分の背景の粗さ。
絵描きで、「ああ。この人は天才だ…。」と自分が思うのは、絵の正確性ではなく、省略の仕方のほう。あるいは、あきらめ具合というか、ふんぎりの良さというか。これ以上描いても逆に筆の最初の勢いが削がれると思ったときに、そこですっぱりあきらめきれるか否かというか。もちろん、その描く線の有り様が一番問題なのだけど。あるいは最終的に残す線というか。
ディテールを書き込んでいる雰囲気がありながら、実はディテールはすごくいいかげんで。でもそんな感想は押し切ってしまって、「これはすごい!ありえない!」と。そう思ってしまうのはその人が書こうとしている主題についての熱というか、その部分についてはキレがあったり、そこだけは書き込んでたり。その差分の落差に、一見では気付かせないほどの集中力を感じて。まさに圧倒されるわけで。
同じような意味で、油絵より水彩のほうにその人の天才性は現れると自分は思っているのだけど。エゴン・シーレとか。一本の線なのよね。その勢い。あるいは迷いのなさ。感情のノリ具合。一本の線に賭けたなにものかというか。
油絵だと、どこを描いて、どこはおざなりっていう有り様。たとえば、セザンヌの塗り残し。ベーコンなんてまさにそういう絵で。ベーコンの絵だと、足とかひどいデッサンなんだけど。そうじゃない部分が凄すぎる。
レンブラントもそういうところがあり。あの人の絵を名古屋市美術館で見たときに、その熱のある部分とおざなりな部分の落差。印刷物でしか知らなかった自分は、「ヲイヲイ、…まじかよ」と驚いたのだけど。長谷川等伯の松林図屏風もそう。あれは、その最たるものだと思う。筆の勢いと、しげしげと細部を見たときのいい加減さ。というか思い切りの良さ。やっぱこの人、天才だと思うわけで。
逆にすべてにおいて尽されていて、ディテールまで凝った絵はすごいとは思うけど、なかなか天才だとは感じれない。逆に上手さとか巧みさから逃れられない何かがあると思ってしまう。生まれながら背負わされた能力に個性が殺されるというか。ある種の悲しき宿命。もっとも、それは、鑑賞者がその人のどこを評価するかっていう好みでしかないけれど。それはまあ置いておいて。
で、自分が許せないのは、そのやり残しの部分が故意によるのか、あるいはただの怠慢なのかというその有り様であって。それもただ自分の主観でしかないのだけど。
ルドンの絵を見たときに、それをただの怠慢だと自分は感じた。それが自分が最初に実物を見て感じた違和感の正体で。はからずも、その音声ガイドを聞いて、その井の中の蛙的なエゴに納得したというか。
自分はB型だからかどうかしらないけど、エゴの強い奴は自己弁護的に好きなのだが、怠慢なエゴには異様に敏感で。自分が訪れていないチェルノブイリの現場を元にして詩を書いたり、9.11の何をどう聞いたのか知らないけど、経験してもいない他国の戦争にただ思い入れだけでっていう何かとか。経験することはできなくても、詩に書いたり作品にするんなら少なくとも現場に行けよ!と。そういう奴に限って自分の住んでるところから出ようとしないひとりよがりの夢想家だったりする。その怠慢に無性に腹が立つわけで。
まあ、それもこれも、同属嫌悪なのかも知れない苦笑。
でもまあ、そこまで無責任な人間にはオレはなれないわ。
多分、ルドンが嫌いなのはそこなんだと思う。
ただ絵というのはそういう人格を超えた部分があって。意識と無意識があれば、無意識の部分に官能するというか。意識ではなく無意識で嫌悪を判断する。自分はそう。
実は結構ルドンは好きなのだ。なんなんだろう?どこかにある跳躍。その跳躍に対する手放しの賛辞。現実を一歩超えたところにある何か。空想が持つリアルさ。ある種のイデア、プラトン的に言えば。象徴主義というのはもともとそういう空想や夢想を現しているんだけども。
逆にだからこそ、現実との接点を大事にしないとっていうか。だからこそのディテールであったり、現物を見に行くという意志だったり。
結局、志の問題だと。無意識うんぬんと言いながらも、そこをやっぱり一番に感じてしまう。歴史において残り続ける傑作というのはイデアではなく、その人の意志なんだとどこかで信じている。
どこかしらから感じる怠慢。デッサンの不正確さとか、人としてありえない骨格のバランスとか、この人ちゃんとモノを見てるの?という。
そういう状態での豪語だったり苦笑
そのあたりが同じ象徴主義の画家でも、ギュスターブ・モローとオディロン・ルドンの違い。
見え透いたエゴとか、うそとか、自己弁護とか。言動が上っ面過ぎて、恥ずいなあと。
べつにかっこつけなくていいじゃんとも思うし、でもそこが逆にかっこいいというのも実はある。というか、ひそかに心の中で手を叩いてたり。もっとやれ!と。裏の裏というか、自分を肯定することの肯定というか。矢沢とか長渕とか。そして一方で、そういう奴らには、「くたばりやがれ!」と口ごもるわけだけど苦笑。
無知とか無謀とかアホウだとかの美しさというのは、どこか無敗のボクサーに似ている。それは、可能性とか希望だとかに対する期待と根っこは同じで。遠い昔に、未知の土地を目指して旅に出たご先祖さまから引き継いだ何かなんだろう。そこも、同じようにあるいはときにそれ以上に魅力的なものだったりする。中上健次の小説に出てくる奴らのカッコよさとか。やばいのよね。その自我の気持ち悪さと愛おしさと憧れと、それと同等の嫌悪感。
自分を苛立たせる何かにしか、逆に感動できない部分がどうしてもある。
というか、そういうものにこそ、そのときの自分にとっての一番必要な何かがあるような気がして。どうしても、そこは外せなかったりする。マストなのだ。
極端に出不精なルドンが、めずらしく海岸で描いた絵があって。
そのときのルドンのコメントに、「すべからく、絵描きは外に出て絵を描くべきだ。これが自然だ!」的なコメントを残したと解説が入っていて。
正直、それまでの絵の流れも年代順に見ていて、なんだか違和感があった自分はそのコメントで納得がいったというか。「ああ、この人はこういう人なんだ。わかる気がする」と。別にエゴが悪いと言っているわけではないけれど。
こないだ、NHKの日曜美術館で、『孤高の画家 夢を紡いで ギュスターヴ・モロー』をやってて。そのオープニングで、『出現』の絵を詳細に映し出していた。
ポストカードで最初にこの絵を見て、実物はみたことないのだけど。
ディテールに凝った人なのかと思ってたのだけど、舐めるように寄った映像を見て、逆にそこにある線に戦慄した。そして、主題以外の部分の背景の粗さ。
絵描きで、「ああ。この人は天才だ…。」と自分が思うのは、絵の正確性ではなく、省略の仕方のほう。あるいは、あきらめ具合というか、ふんぎりの良さというか。これ以上描いても逆に筆の最初の勢いが削がれると思ったときに、そこですっぱりあきらめきれるか否かというか。もちろん、その描く線の有り様が一番問題なのだけど。あるいは最終的に残す線というか。
ディテールを書き込んでいる雰囲気がありながら、実はディテールはすごくいいかげんで。でもそんな感想は押し切ってしまって、「これはすごい!ありえない!」と。そう思ってしまうのはその人が書こうとしている主題についての熱というか、その部分についてはキレがあったり、そこだけは書き込んでたり。その差分の落差に、一見では気付かせないほどの集中力を感じて。まさに圧倒されるわけで。
同じような意味で、油絵より水彩のほうにその人の天才性は現れると自分は思っているのだけど。エゴン・シーレとか。一本の線なのよね。その勢い。あるいは迷いのなさ。感情のノリ具合。一本の線に賭けたなにものかというか。
油絵だと、どこを描いて、どこはおざなりっていう有り様。たとえば、セザンヌの塗り残し。ベーコンなんてまさにそういう絵で。ベーコンの絵だと、足とかひどいデッサンなんだけど。そうじゃない部分が凄すぎる。
レンブラントもそういうところがあり。あの人の絵を名古屋市美術館で見たときに、その熱のある部分とおざなりな部分の落差。印刷物でしか知らなかった自分は、「ヲイヲイ、…まじかよ」と驚いたのだけど。長谷川等伯の松林図屏風もそう。あれは、その最たるものだと思う。筆の勢いと、しげしげと細部を見たときのいい加減さ。というか思い切りの良さ。やっぱこの人、天才だと思うわけで。
逆にすべてにおいて尽されていて、ディテールまで凝った絵はすごいとは思うけど、なかなか天才だとは感じれない。逆に上手さとか巧みさから逃れられない何かがあると思ってしまう。生まれながら背負わされた能力に個性が殺されるというか。ある種の悲しき宿命。もっとも、それは、鑑賞者がその人のどこを評価するかっていう好みでしかないけれど。それはまあ置いておいて。
で、自分が許せないのは、そのやり残しの部分が故意によるのか、あるいはただの怠慢なのかというその有り様であって。それもただ自分の主観でしかないのだけど。
ルドンの絵を見たときに、それをただの怠慢だと自分は感じた。それが自分が最初に実物を見て感じた違和感の正体で。はからずも、その音声ガイドを聞いて、その井の中の蛙的なエゴに納得したというか。
自分はB型だからかどうかしらないけど、エゴの強い奴は自己弁護的に好きなのだが、怠慢なエゴには異様に敏感で。自分が訪れていないチェルノブイリの現場を元にして詩を書いたり、9.11の何をどう聞いたのか知らないけど、経験してもいない他国の戦争にただ思い入れだけでっていう何かとか。経験することはできなくても、詩に書いたり作品にするんなら少なくとも現場に行けよ!と。そういう奴に限って自分の住んでるところから出ようとしないひとりよがりの夢想家だったりする。その怠慢に無性に腹が立つわけで。
まあ、それもこれも、同属嫌悪なのかも知れない苦笑。
でもまあ、そこまで無責任な人間にはオレはなれないわ。
多分、ルドンが嫌いなのはそこなんだと思う。
ただ絵というのはそういう人格を超えた部分があって。意識と無意識があれば、無意識の部分に官能するというか。意識ではなく無意識で嫌悪を判断する。自分はそう。
実は結構ルドンは好きなのだ。なんなんだろう?どこかにある跳躍。その跳躍に対する手放しの賛辞。現実を一歩超えたところにある何か。空想が持つリアルさ。ある種のイデア、プラトン的に言えば。象徴主義というのはもともとそういう空想や夢想を現しているんだけども。
逆にだからこそ、現実との接点を大事にしないとっていうか。だからこそのディテールであったり、現物を見に行くという意志だったり。
結局、志の問題だと。無意識うんぬんと言いながらも、そこをやっぱり一番に感じてしまう。歴史において残り続ける傑作というのはイデアではなく、その人の意志なんだとどこかで信じている。
どこかしらから感じる怠慢。デッサンの不正確さとか、人としてありえない骨格のバランスとか、この人ちゃんとモノを見てるの?という。
そういう状態での豪語だったり苦笑
そのあたりが同じ象徴主義の画家でも、ギュスターブ・モローとオディロン・ルドンの違い。
見え透いたエゴとか、うそとか、自己弁護とか。言動が上っ面過ぎて、恥ずいなあと。
べつにかっこつけなくていいじゃんとも思うし、でもそこが逆にかっこいいというのも実はある。というか、ひそかに心の中で手を叩いてたり。もっとやれ!と。裏の裏というか、自分を肯定することの肯定というか。矢沢とか長渕とか。そして一方で、そういう奴らには、「くたばりやがれ!」と口ごもるわけだけど苦笑。
無知とか無謀とかアホウだとかの美しさというのは、どこか無敗のボクサーに似ている。それは、可能性とか希望だとかに対する期待と根っこは同じで。遠い昔に、未知の土地を目指して旅に出たご先祖さまから引き継いだ何かなんだろう。そこも、同じようにあるいはときにそれ以上に魅力的なものだったりする。中上健次の小説に出てくる奴らのカッコよさとか。やばいのよね。その自我の気持ち悪さと愛おしさと憧れと、それと同等の嫌悪感。
自分を苛立たせる何かにしか、逆に感動できない部分がどうしてもある。
というか、そういうものにこそ、そのときの自分にとっての一番必要な何かがあるような気がして。どうしても、そこは外せなかったりする。マストなのだ。
今池遊覧音楽祭
なんと1000円ポッキリ!!
どうなっているのかよくわからないけど。

結局、ドリンクチケ以外にいろんな店で4杯飲んだので腹たっぷんたっぷん。
まあそれで許してもらおう。
行ったのは、得三→りそな銀行前広場→3star→HUCK FINN→3star→得三→ボトムライン。

パンク→ブルース→洋楽80年代コピー→メロコア→ファンクインストゥルメンタル?→ロックバンドのアコースティックバージョン→?→ストリートパンクロック。うーん、さっぱりわからない。
とにかく、クロスオーバーしてて、
客層も老若男女乱れに乱れて。
ありがたいことに、自分より上の世代の人もいっぱいいて。
お祭りなので。なんせ1000円+ドリンク代500円払えば参加できるからねえ。
りそな銀行前なんて交差点なので、タダだし。



しかし、得三って、あんなしゃれオツなところだとは。。知らなかった。
老舗だからとおもって暖簾っぽい居酒屋系だと思ってた汗
音響考えた壁で。天井も高いし。ここはやばいわ。
で、33Insanity's Vertebraはここで。
アップセッ!のクリパに備えてCD買った。

ほんと揺れる炎みたいな歌い方する。
あやうげなところがヤバい。
モデルさんだし、美人というか、スタイルがやっぱりね。
肩から腕のラインとか。
アコースティックバージョンは初めて聴いたのだけど。
自分はバンドよりこっちのほうが好きだわ。
言葉と声が沁み込んでくるから。
詩がアレ?っと。そうかこんな詩だったのかと。
詩を確認するためにCDを買った。
ギターのGOSHIくんに聞いたのだけど、
もう、クリスマスのセッションの仕込みもしてるとか。
トナカイのツノとかね。
フトシ氏を迎え撃つ準備は万端らしい笑
愉しみである。
しかし、オオトリのthe原爆オナニーズは楽しかった。圧巻。
どうなっているのかよくわからないけど。

結局、ドリンクチケ以外にいろんな店で4杯飲んだので腹たっぷんたっぷん。
まあそれで許してもらおう。
行ったのは、得三→りそな銀行前広場→3star→HUCK FINN→3star→得三→ボトムライン。

パンク→ブルース→洋楽80年代コピー→メロコア→ファンクインストゥルメンタル?→ロックバンドのアコースティックバージョン→?→ストリートパンクロック。うーん、さっぱりわからない。
とにかく、クロスオーバーしてて、
客層も老若男女乱れに乱れて。
ありがたいことに、自分より上の世代の人もいっぱいいて。
お祭りなので。なんせ1000円+ドリンク代500円払えば参加できるからねえ。
りそな銀行前なんて交差点なので、タダだし。



しかし、得三って、あんなしゃれオツなところだとは。。知らなかった。
老舗だからとおもって暖簾っぽい居酒屋系だと思ってた汗
音響考えた壁で。天井も高いし。ここはやばいわ。
で、33Insanity's Vertebraはここで。
アップセッ!のクリパに備えてCD買った。

ほんと揺れる炎みたいな歌い方する。
あやうげなところがヤバい。
モデルさんだし、美人というか、スタイルがやっぱりね。
肩から腕のラインとか。
アコースティックバージョンは初めて聴いたのだけど。
自分はバンドよりこっちのほうが好きだわ。
言葉と声が沁み込んでくるから。
詩がアレ?っと。そうかこんな詩だったのかと。
詩を確認するためにCDを買った。
ギターのGOSHIくんに聞いたのだけど、
もう、クリスマスのセッションの仕込みもしてるとか。
トナカイのツノとかね。
フトシ氏を迎え撃つ準備は万端らしい笑
愉しみである。
しかし、オオトリのthe原爆オナニーズは楽しかった。圧巻。
ヴォルフガング・ティルマンス
っていう写真家を教えてもらった。
通ってるジムのバイトのコ。
ライトニング・ボルトとか教えて貰ったバンドもやってるコなのだが、美術にも興味があるらしく、豊田のベーコンも観に行ったのだとか。
ヴォルフガング・ティルマンス展 Freischwimmer - 東京オペラシティ
1968年8月15日生まれか。同じ世代だな。
写真も好きなんですよねって言ってたのだけど。
たしかにこれはいいなあ。
どっかで実物みたいなあ。
名前を聞いたら、すぐ忘れてしまうのでとりあえず備忘として。
通ってるジムのバイトのコ。
ライトニング・ボルトとか教えて貰ったバンドもやってるコなのだが、美術にも興味があるらしく、豊田のベーコンも観に行ったのだとか。
ヴォルフガング・ティルマンス展 Freischwimmer - 東京オペラシティ
1968年8月15日生まれか。同じ世代だな。
写真も好きなんですよねって言ってたのだけど。
たしかにこれはいいなあ。
どっかで実物みたいなあ。
名前を聞いたら、すぐ忘れてしまうのでとりあえず備忘として。
だいたいにおいて
うかつに否定的な見解をブログに書くと
そいつらが自分の中で大きくなって復讐にやってくる。
まるでバイザラウンドのシルエットの歌詞だ。
自分自身でそいつに無理やり向き合うために使っている手段の一つ。
ジムで走っているときにループしにやってきやがった苦笑
KANA-BOON
なんしか、ループで頭がいっぱいになるのは
きゃりーぱみゅぱみゅに同じ。
そしてタケモトピアノのCMに反応する子供と一緒である苦笑
それが気持ちいいのである。
けっこう、つらい単純作業のとき助けられるインスタント苦痛除去法。
そして、この曲なんだかな~と思ったのは、もちろんこれがあったから。
ギターを立たせて、ボーカルが一本調子に歌う手法といい。
テンポあげただけじゃん。狙ったPVといい。
だいたいからしてサビパターンも一緒やんか。
だけど、なんだかいいのよね笑
そいつらが自分の中で大きくなって復讐にやってくる。
まるでバイザラウンドのシルエットの歌詞だ。
自分自身でそいつに無理やり向き合うために使っている手段の一つ。
ジムで走っているときにループしにやってきやがった苦笑
KANA-BOON
なんしか、ループで頭がいっぱいになるのは
きゃりーぱみゅぱみゅに同じ。
そしてタケモトピアノのCMに反応する子供と一緒である苦笑
それが気持ちいいのである。
けっこう、つらい単純作業のとき助けられるインスタント苦痛除去法。
そして、この曲なんだかな~と思ったのは、もちろんこれがあったから。
ギターを立たせて、ボーカルが一本調子に歌う手法といい。
テンポあげただけじゃん。狙ったPVといい。
だいたいからしてサビパターンも一緒やんか。
だけど、なんだかいいのよね笑
空間性
2014年にブレイクしそうなバンド・アーティストを先取り!!
ていうのを、ようつべ全部流して見てたのだけど。
なんだか既視感があって。
ラジオから流れるトップテン番組の音楽が毎年同じように感じて、メジャーの音楽を聞かなくなったときと、自分の中で状況がカブる。
今のメジャーって、テレビとか映画と同じで、前はこれが当ったから同じような路線でっていうリスクヘッジの仕方で、上の人間にお伺いを立てて出してるみたいで。だから、あたらしいものは出てこない。その方法論をインディーズ・シーンから拾いあげたバンドにも押し付けるから、けっきょくインディーズからメジャーに入った途端、面白くなくなっていく。新しいものは、今だと海外在住の日本人が発信したり、ノーマークでいきなり登場するようなものしかない。
そして、石田ショーキチが語る「激動のシーン20年」という状況もあり。この記事、すごく自分の中の暗部とリンクしてしまっている。
特にダンスミュージックやエレクトロニカの分野では、若者の力はすごく伸びていると思います。
一方で、いわゆるギターバンドの歩留まり感は「半端ねえな」と思います(笑)歩留まり感、というより退化感、劣化感と言った方がいいかもしない。特にヴォーカル/ギターがいるバンドはひどいと思う。(石田ショーキチ氏談)
ああ、なんかそんな感じは確かにどこかにあるのかもしれないと。
すでにあるテクスチャーを混ぜたり、びみょーにずらしたり。
その混ぜ方とか、ずらし方も既に飽和してきている感じというか。
素材自体に新しいものがなくなっているのかもしれない。
ユニクロが素材に特化して、衣料市場のあり様を変えてしまったように、たぶんまだエレクトロニカには、何か伸びしろが残ってるんだろうと。ふと、
「ヴォーカリストYukiと電子音楽家Jemapurによる噂の新プロジェクトYoung Juvenile Youthついに始動。」を読んでそう思った。まあこういうアプローチはすでにあったのだけど。
Aoki Takamasa / see that girl
こういう音楽って、今のアートフェスなんかとすごく親和性が高い。
とくにインスタレーションが主流になってきた現代美術の空間性とか。
最近は、インスタレーションの中に物語性をとり入れて、物語と空間をコラージュするっていう方向が出始めていて。それがボーカルとエレクトロニカを使うという方法と似ているかもしれない。詩と音というか。上の記事で、浅野忠信氏が追っかけっこってうまいこと言ってるけど。
ただ、静寂さを求める美術館ではそれがなかなかできない。そういう点で、今ライブハウスは、そういうアート的な空間として求められている部分もある。VJとか。
基本的にエレクトロニカは空間を表現する素材として、インスタレーションと親和性が高い。そして身体性とも。
要は機械から始まったのに、人間の感覚とか生身の部分へ還元される方向に変わったというか。
たぶん、仮想というものに飽きちゃったんだと。あるいはデジタルの限界というか。
現代美術とかアートフェスを見てて、そこに「ある空間」を音で成立させようとする試みっていうのは、たとえば、やくしまるえつこも、豊田市美術館の展示で織り込んでやってたけど、音楽がもつ空間的側面をエンファサイズするアプローチとしてすごく有効で。
でも、まだ誰も完全なテキストとして理論的に成立させていない。だから、いま現代美術が実験的にやってるわけだけど。
空間性と身体性は、テクノからエロクトロニカへ変貌する際のキーになったんだと自分の中ではそう思っている。で、なぜかその間にノイズ音楽っていうのをはさんでいるような気がする。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」で浅野忠信が、草原で演奏して、それを宮崎あおいが目隠しして聞くシーンがある。
あまりに実験的!これを観たときは見ながら爆音の中で寝落ちしたんだが苦笑
テキストがない。線が通ってないというか。物語がないというか。だから逆に飽きる。でも、ノイズ音楽によって、音楽のテキストが崩れて、テクノがそれに気付いて、自分達の武器は身体性と空間性だったのだと。で、テキストはやっぱり必要だという認識のもとにエレクトロニカに変貌して、ドバッと裾野が広がったというか。
ノイズ音楽は、既成の音楽をdéconstructionすることで、閉塞した音楽状況を打破しようと。その解体の際に、”新しい(あるいはボストモダン的な)美学に基いた観念が具体的に形として提示される(あるいは再構築される)こと”を期待してというものだったんだろうけど。結局、その解体によって、新しい価値を見出したのは、解体されたほうの既成の音楽であって。そして新しい美学なんていうのはなかったと。それは人間の身体性そのものだったというか。まあ、それも勝手な想像だ。それはさておき。
耳の能力というのは、犬や猫なんかの動物とくらべて人間は劣っているんだけど、ただ機能として劣るだけでなく、高機能なものが次元を変えてしまうことがあるように、彼らは人間とはまったく違った空間の意識を持っているのかもしれないと思うことがある。
逆に言えば、その眠っている能力に気付かせるような新たなテクスチャーができれば、今の音楽に新たな絃が生まれて、さらに新しいものが作れる余地が生まれるような気もする。まあ、眠ってる能力なんてないだろうけど苦笑 ※1
空高くでなってる風の音とか、すぐ足もとで鳴いている虫の声とか、自分がいったい空間を音でどういうふうに認識しているのか。昔のラジオドラマの音響演出なんかを見直したり。エリ・エリ~も、最初のシーンは、浅野忠信と中原昌也がいろんな音を集めようとするシーンから始まる。
クラシカルな音楽理論も大切だろうけど、まったく違った、聴覚心理学とか脳科学的な見地から、音を見直すっていう方向もあっていいんじゃないかなと、今風に。空間性だけでなくて、時間性も見なおしたり。音をチャンク化する際の法則とか。それを新たに理論づけていくような作業をしていく。かつてYMOがアナログ音楽をデジタル化して理論化していったように。あるいはビートルズで、テープを逆回しにしたりしてあらたな音を模索したみたいに。まあ、そういう遊びから始まるほうがおもしろいよねと。
ライブっていうのは、演者が聴衆に身体性を「直に」与えるというか、気付かせる場所なんだけど、とくに演者との距離が近いライブハウスは、直截的で、すごくエキサイティングなわけで。ロックなんてまさにそういうしろものであって。そして自分はそれを享受しているわけだけど。その身体性のテキストを根本的な方法論から見直す時期に来ているのかもしれない。
まあでも、自分的には、ロックはロックであってほしいのだけど。どっちかというと、70年代の匂いがする古典的なロックだったり。あるいは、そのリバイバル的なもの。グランジ、パンクもそう。それでおいらは充分だし。パンクは、今でもまだいろいろ変わる素材はいっぱいあるし。ただ、いまのロキノン系はもういいわと。
まったく新しいセオリーで音楽を作る若い衆がでてくれば、音楽シーンもまた変わるような気がする。そして、日本人ってけっこうそういうのは得意なような気もするのだ。
とはいえ、なんだか、聞いてしまうとくせになるなにかがあるバンドはひっきりなしに出てきてるんだけど、ロキノン。ただもう追いかけるのに疲れたよ。しばらく休もう。(←意訳)
<参考>
ソニック・ユース
ジム・オルーク
boris
リミッツ・オブ・コントロール The Limits of Control (2009)
灰野敬二
青木孝允
中原昌也×ジム・オルーク対談:「リディア・ランチもリチャード・カーンもグラインドハウスによく通っていた」
音楽で広がった世界
<後記>
※1 皮膚による音の感知
人の皮膚には振動を感じる感覚器官がある。
マイスネル小体・ファーテル--パチニ小体・メルケル触板。
マイスネル小体は、毛のない皮膚、手掌や足の裏などのコラーゲンで構成される皮膚上にみられ、特に指先の末端部分に密集している。マイスネル小体は、表皮下付近に位置し、表皮の組織に結合されている。そのため、皮膚を歪めるような横向きの刺激に敏感であるといえる。振動刺激の周波数範囲16~31.5Hzに反応すると考えられている。
ファーテル--パチニ小体は、手掌、足の裏に多く分布し、皮膚だけでなく関節部分、靭帯などの組織上にもみられる。通常、パチニ小体は、真皮に位置し、タマネギ状の薄い層により構成される。比較的大きな受容器であり(最大2mm)、大きなものであれば肉眼でみることも可能。特に圧の刺激に敏感。周波数100Hz以上の振動刺激に反応すると考えられている。
メルケル触板は、表皮の真下、あるいは毛根部分の末端付近にみられる。それらは、おもに軽い接触に反応し、振動刺激としては、周波数6.3Hz以下に反応すると考えられている。
記事元:http://yaplog.jp/sibahara/archive/388
ていうのを、ようつべ全部流して見てたのだけど。
なんだか既視感があって。
ラジオから流れるトップテン番組の音楽が毎年同じように感じて、メジャーの音楽を聞かなくなったときと、自分の中で状況がカブる。
今のメジャーって、テレビとか映画と同じで、前はこれが当ったから同じような路線でっていうリスクヘッジの仕方で、上の人間にお伺いを立てて出してるみたいで。だから、あたらしいものは出てこない。その方法論をインディーズ・シーンから拾いあげたバンドにも押し付けるから、けっきょくインディーズからメジャーに入った途端、面白くなくなっていく。新しいものは、今だと海外在住の日本人が発信したり、ノーマークでいきなり登場するようなものしかない。
そして、石田ショーキチが語る「激動のシーン20年」という状況もあり。この記事、すごく自分の中の暗部とリンクしてしまっている。
特にダンスミュージックやエレクトロニカの分野では、若者の力はすごく伸びていると思います。
一方で、いわゆるギターバンドの歩留まり感は「半端ねえな」と思います(笑)歩留まり感、というより退化感、劣化感と言った方がいいかもしない。特にヴォーカル/ギターがいるバンドはひどいと思う。(石田ショーキチ氏談)
ああ、なんかそんな感じは確かにどこかにあるのかもしれないと。
すでにあるテクスチャーを混ぜたり、びみょーにずらしたり。
その混ぜ方とか、ずらし方も既に飽和してきている感じというか。
素材自体に新しいものがなくなっているのかもしれない。
ユニクロが素材に特化して、衣料市場のあり様を変えてしまったように、たぶんまだエレクトロニカには、何か伸びしろが残ってるんだろうと。ふと、
「ヴォーカリストYukiと電子音楽家Jemapurによる噂の新プロジェクトYoung Juvenile Youthついに始動。」を読んでそう思った。まあこういうアプローチはすでにあったのだけど。
Aoki Takamasa / see that girlこういう音楽って、今のアートフェスなんかとすごく親和性が高い。
とくにインスタレーションが主流になってきた現代美術の空間性とか。
最近は、インスタレーションの中に物語性をとり入れて、物語と空間をコラージュするっていう方向が出始めていて。それがボーカルとエレクトロニカを使うという方法と似ているかもしれない。詩と音というか。上の記事で、浅野忠信氏が追っかけっこってうまいこと言ってるけど。
ただ、静寂さを求める美術館ではそれがなかなかできない。そういう点で、今ライブハウスは、そういうアート的な空間として求められている部分もある。VJとか。
基本的にエレクトロニカは空間を表現する素材として、インスタレーションと親和性が高い。そして身体性とも。
要は機械から始まったのに、人間の感覚とか生身の部分へ還元される方向に変わったというか。
たぶん、仮想というものに飽きちゃったんだと。あるいはデジタルの限界というか。
現代美術とかアートフェスを見てて、そこに「ある空間」を音で成立させようとする試みっていうのは、たとえば、やくしまるえつこも、豊田市美術館の展示で織り込んでやってたけど、音楽がもつ空間的側面をエンファサイズするアプローチとしてすごく有効で。
でも、まだ誰も完全なテキストとして理論的に成立させていない。だから、いま現代美術が実験的にやってるわけだけど。
空間性と身体性は、テクノからエロクトロニカへ変貌する際のキーになったんだと自分の中ではそう思っている。で、なぜかその間にノイズ音楽っていうのをはさんでいるような気がする。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」で浅野忠信が、草原で演奏して、それを宮崎あおいが目隠しして聞くシーンがある。
あまりに実験的!これを観たときは見ながら爆音の中で寝落ちしたんだが苦笑
テキストがない。線が通ってないというか。物語がないというか。だから逆に飽きる。でも、ノイズ音楽によって、音楽のテキストが崩れて、テクノがそれに気付いて、自分達の武器は身体性と空間性だったのだと。で、テキストはやっぱり必要だという認識のもとにエレクトロニカに変貌して、ドバッと裾野が広がったというか。
ノイズ音楽は、既成の音楽をdéconstructionすることで、閉塞した音楽状況を打破しようと。その解体の際に、”新しい(あるいはボストモダン的な)美学に基いた観念が具体的に形として提示される(あるいは再構築される)こと”を期待してというものだったんだろうけど。結局、その解体によって、新しい価値を見出したのは、解体されたほうの既成の音楽であって。そして新しい美学なんていうのはなかったと。それは人間の身体性そのものだったというか。まあ、それも勝手な想像だ。それはさておき。
耳の能力というのは、犬や猫なんかの動物とくらべて人間は劣っているんだけど、ただ機能として劣るだけでなく、高機能なものが次元を変えてしまうことがあるように、彼らは人間とはまったく違った空間の意識を持っているのかもしれないと思うことがある。
逆に言えば、その眠っている能力に気付かせるような新たなテクスチャーができれば、今の音楽に新たな絃が生まれて、さらに新しいものが作れる余地が生まれるような気もする。まあ、眠ってる能力なんてないだろうけど苦笑 ※1
空高くでなってる風の音とか、すぐ足もとで鳴いている虫の声とか、自分がいったい空間を音でどういうふうに認識しているのか。昔のラジオドラマの音響演出なんかを見直したり。エリ・エリ~も、最初のシーンは、浅野忠信と中原昌也がいろんな音を集めようとするシーンから始まる。
クラシカルな音楽理論も大切だろうけど、まったく違った、聴覚心理学とか脳科学的な見地から、音を見直すっていう方向もあっていいんじゃないかなと、今風に。空間性だけでなくて、時間性も見なおしたり。音をチャンク化する際の法則とか。それを新たに理論づけていくような作業をしていく。かつてYMOがアナログ音楽をデジタル化して理論化していったように。あるいはビートルズで、テープを逆回しにしたりしてあらたな音を模索したみたいに。まあ、そういう遊びから始まるほうがおもしろいよねと。
ライブっていうのは、演者が聴衆に身体性を「直に」与えるというか、気付かせる場所なんだけど、とくに演者との距離が近いライブハウスは、直截的で、すごくエキサイティングなわけで。ロックなんてまさにそういうしろものであって。そして自分はそれを享受しているわけだけど。その身体性のテキストを根本的な方法論から見直す時期に来ているのかもしれない。
まあでも、自分的には、ロックはロックであってほしいのだけど。どっちかというと、70年代の匂いがする古典的なロックだったり。あるいは、そのリバイバル的なもの。グランジ、パンクもそう。それでおいらは充分だし。パンクは、今でもまだいろいろ変わる素材はいっぱいあるし。ただ、いまのロキノン系はもういいわと。
まったく新しいセオリーで音楽を作る若い衆がでてくれば、音楽シーンもまた変わるような気がする。そして、日本人ってけっこうそういうのは得意なような気もするのだ。
とはいえ、なんだか、聞いてしまうとくせになるなにかがあるバンドはひっきりなしに出てきてるんだけど、ロキノン。ただもう追いかけるのに疲れたよ。しばらく休もう。(←意訳)
<参考>
ソニック・ユース
ジム・オルーク
boris
リミッツ・オブ・コントロール The Limits of Control (2009)
灰野敬二
青木孝允
中原昌也×ジム・オルーク対談:「リディア・ランチもリチャード・カーンもグラインドハウスによく通っていた」
音楽で広がった世界
<後記>
※1 皮膚による音の感知
人の皮膚には振動を感じる感覚器官がある。
マイスネル小体・ファーテル--パチニ小体・メルケル触板。
マイスネル小体は、毛のない皮膚、手掌や足の裏などのコラーゲンで構成される皮膚上にみられ、特に指先の末端部分に密集している。マイスネル小体は、表皮下付近に位置し、表皮の組織に結合されている。そのため、皮膚を歪めるような横向きの刺激に敏感であるといえる。振動刺激の周波数範囲16~31.5Hzに反応すると考えられている。
ファーテル--パチニ小体は、手掌、足の裏に多く分布し、皮膚だけでなく関節部分、靭帯などの組織上にもみられる。通常、パチニ小体は、真皮に位置し、タマネギ状の薄い層により構成される。比較的大きな受容器であり(最大2mm)、大きなものであれば肉眼でみることも可能。特に圧の刺激に敏感。周波数100Hz以上の振動刺激に反応すると考えられている。
メルケル触板は、表皮の真下、あるいは毛根部分の末端付近にみられる。それらは、おもに軽い接触に反応し、振動刺激としては、周波数6.3Hz以下に反応すると考えられている。
記事元:http://yaplog.jp/sibahara/archive/388