空間性
2014年にブレイクしそうなバンド・アーティストを先取り!!
ていうのを、ようつべ全部流して見てたのだけど。
なんだか既視感があって。
ラジオから流れるトップテン番組の音楽が毎年同じように感じて、メジャーの音楽を聞かなくなったときと、自分の中で状況がカブる。
今のメジャーって、テレビとか映画と同じで、前はこれが当ったから同じような路線でっていうリスクヘッジの仕方で、上の人間にお伺いを立てて出してるみたいで。だから、あたらしいものは出てこない。その方法論をインディーズ・シーンから拾いあげたバンドにも押し付けるから、けっきょくインディーズからメジャーに入った途端、面白くなくなっていく。新しいものは、今だと海外在住の日本人が発信したり、ノーマークでいきなり登場するようなものしかない。
そして、石田ショーキチが語る「激動のシーン20年」という状況もあり。この記事、すごく自分の中の暗部とリンクしてしまっている。
特にダンスミュージックやエレクトロニカの分野では、若者の力はすごく伸びていると思います。
一方で、いわゆるギターバンドの歩留まり感は「半端ねえな」と思います(笑)歩留まり感、というより退化感、劣化感と言った方がいいかもしない。特にヴォーカル/ギターがいるバンドはひどいと思う。(石田ショーキチ氏談)
ああ、なんかそんな感じは確かにどこかにあるのかもしれないと。
すでにあるテクスチャーを混ぜたり、びみょーにずらしたり。
その混ぜ方とか、ずらし方も既に飽和してきている感じというか。
素材自体に新しいものがなくなっているのかもしれない。
ユニクロが素材に特化して、衣料市場のあり様を変えてしまったように、たぶんまだエレクトロニカには、何か伸びしろが残ってるんだろうと。ふと、
「ヴォーカリストYukiと電子音楽家Jemapurによる噂の新プロジェクトYoung Juvenile Youthついに始動。」を読んでそう思った。まあこういうアプローチはすでにあったのだけど。
Aoki Takamasa / see that girl
こういう音楽って、今のアートフェスなんかとすごく親和性が高い。
とくにインスタレーションが主流になってきた現代美術の空間性とか。
最近は、インスタレーションの中に物語性をとり入れて、物語と空間をコラージュするっていう方向が出始めていて。それがボーカルとエレクトロニカを使うという方法と似ているかもしれない。詩と音というか。上の記事で、浅野忠信氏が追っかけっこってうまいこと言ってるけど。
ただ、静寂さを求める美術館ではそれがなかなかできない。そういう点で、今ライブハウスは、そういうアート的な空間として求められている部分もある。VJとか。
基本的にエレクトロニカは空間を表現する素材として、インスタレーションと親和性が高い。そして身体性とも。
要は機械から始まったのに、人間の感覚とか生身の部分へ還元される方向に変わったというか。
たぶん、仮想というものに飽きちゃったんだと。あるいはデジタルの限界というか。
現代美術とかアートフェスを見てて、そこに「ある空間」を音で成立させようとする試みっていうのは、たとえば、やくしまるえつこも、豊田市美術館の展示で織り込んでやってたけど、音楽がもつ空間的側面をエンファサイズするアプローチとしてすごく有効で。
でも、まだ誰も完全なテキストとして理論的に成立させていない。だから、いま現代美術が実験的にやってるわけだけど。
空間性と身体性は、テクノからエロクトロニカへ変貌する際のキーになったんだと自分の中ではそう思っている。で、なぜかその間にノイズ音楽っていうのをはさんでいるような気がする。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」で浅野忠信が、草原で演奏して、それを宮崎あおいが目隠しして聞くシーンがある。
あまりに実験的!これを観たときは見ながら爆音の中で寝落ちしたんだが苦笑
テキストがない。線が通ってないというか。物語がないというか。だから逆に飽きる。でも、ノイズ音楽によって、音楽のテキストが崩れて、テクノがそれに気付いて、自分達の武器は身体性と空間性だったのだと。で、テキストはやっぱり必要だという認識のもとにエレクトロニカに変貌して、ドバッと裾野が広がったというか。
ノイズ音楽は、既成の音楽をdéconstructionすることで、閉塞した音楽状況を打破しようと。その解体の際に、”新しい(あるいはボストモダン的な)美学に基いた観念が具体的に形として提示される(あるいは再構築される)こと”を期待してというものだったんだろうけど。結局、その解体によって、新しい価値を見出したのは、解体されたほうの既成の音楽であって。そして新しい美学なんていうのはなかったと。それは人間の身体性そのものだったというか。まあ、それも勝手な想像だ。それはさておき。
耳の能力というのは、犬や猫なんかの動物とくらべて人間は劣っているんだけど、ただ機能として劣るだけでなく、高機能なものが次元を変えてしまうことがあるように、彼らは人間とはまったく違った空間の意識を持っているのかもしれないと思うことがある。
逆に言えば、その眠っている能力に気付かせるような新たなテクスチャーができれば、今の音楽に新たな絃が生まれて、さらに新しいものが作れる余地が生まれるような気もする。まあ、眠ってる能力なんてないだろうけど苦笑 ※1
空高くでなってる風の音とか、すぐ足もとで鳴いている虫の声とか、自分がいったい空間を音でどういうふうに認識しているのか。昔のラジオドラマの音響演出なんかを見直したり。エリ・エリ~も、最初のシーンは、浅野忠信と中原昌也がいろんな音を集めようとするシーンから始まる。
クラシカルな音楽理論も大切だろうけど、まったく違った、聴覚心理学とか脳科学的な見地から、音を見直すっていう方向もあっていいんじゃないかなと、今風に。空間性だけでなくて、時間性も見なおしたり。音をチャンク化する際の法則とか。それを新たに理論づけていくような作業をしていく。かつてYMOがアナログ音楽をデジタル化して理論化していったように。あるいはビートルズで、テープを逆回しにしたりしてあらたな音を模索したみたいに。まあ、そういう遊びから始まるほうがおもしろいよねと。
ライブっていうのは、演者が聴衆に身体性を「直に」与えるというか、気付かせる場所なんだけど、とくに演者との距離が近いライブハウスは、直截的で、すごくエキサイティングなわけで。ロックなんてまさにそういうしろものであって。そして自分はそれを享受しているわけだけど。その身体性のテキストを根本的な方法論から見直す時期に来ているのかもしれない。
まあでも、自分的には、ロックはロックであってほしいのだけど。どっちかというと、70年代の匂いがする古典的なロックだったり。あるいは、そのリバイバル的なもの。グランジ、パンクもそう。それでおいらは充分だし。パンクは、今でもまだいろいろ変わる素材はいっぱいあるし。ただ、いまのロキノン系はもういいわと。
まったく新しいセオリーで音楽を作る若い衆がでてくれば、音楽シーンもまた変わるような気がする。そして、日本人ってけっこうそういうのは得意なような気もするのだ。
とはいえ、なんだか、聞いてしまうとくせになるなにかがあるバンドはひっきりなしに出てきてるんだけど、ロキノン。ただもう追いかけるのに疲れたよ。しばらく休もう。(←意訳)
<参考>
ソニック・ユース
ジム・オルーク
boris
リミッツ・オブ・コントロール The Limits of Control (2009)
灰野敬二
青木孝允
中原昌也×ジム・オルーク対談:「リディア・ランチもリチャード・カーンもグラインドハウスによく通っていた」
音楽で広がった世界
<後記>
※1 皮膚による音の感知
人の皮膚には振動を感じる感覚器官がある。
マイスネル小体・ファーテル--パチニ小体・メルケル触板。
マイスネル小体は、毛のない皮膚、手掌や足の裏などのコラーゲンで構成される皮膚上にみられ、特に指先の末端部分に密集している。マイスネル小体は、表皮下付近に位置し、表皮の組織に結合されている。そのため、皮膚を歪めるような横向きの刺激に敏感であるといえる。振動刺激の周波数範囲16~31.5Hzに反応すると考えられている。
ファーテル--パチニ小体は、手掌、足の裏に多く分布し、皮膚だけでなく関節部分、靭帯などの組織上にもみられる。通常、パチニ小体は、真皮に位置し、タマネギ状の薄い層により構成される。比較的大きな受容器であり(最大2mm)、大きなものであれば肉眼でみることも可能。特に圧の刺激に敏感。周波数100Hz以上の振動刺激に反応すると考えられている。
メルケル触板は、表皮の真下、あるいは毛根部分の末端付近にみられる。それらは、おもに軽い接触に反応し、振動刺激としては、周波数6.3Hz以下に反応すると考えられている。
記事元:http://yaplog.jp/sibahara/archive/388
ていうのを、ようつべ全部流して見てたのだけど。
なんだか既視感があって。
ラジオから流れるトップテン番組の音楽が毎年同じように感じて、メジャーの音楽を聞かなくなったときと、自分の中で状況がカブる。
今のメジャーって、テレビとか映画と同じで、前はこれが当ったから同じような路線でっていうリスクヘッジの仕方で、上の人間にお伺いを立てて出してるみたいで。だから、あたらしいものは出てこない。その方法論をインディーズ・シーンから拾いあげたバンドにも押し付けるから、けっきょくインディーズからメジャーに入った途端、面白くなくなっていく。新しいものは、今だと海外在住の日本人が発信したり、ノーマークでいきなり登場するようなものしかない。
そして、石田ショーキチが語る「激動のシーン20年」という状況もあり。この記事、すごく自分の中の暗部とリンクしてしまっている。
特にダンスミュージックやエレクトロニカの分野では、若者の力はすごく伸びていると思います。
一方で、いわゆるギターバンドの歩留まり感は「半端ねえな」と思います(笑)歩留まり感、というより退化感、劣化感と言った方がいいかもしない。特にヴォーカル/ギターがいるバンドはひどいと思う。(石田ショーキチ氏談)
ああ、なんかそんな感じは確かにどこかにあるのかもしれないと。
すでにあるテクスチャーを混ぜたり、びみょーにずらしたり。
その混ぜ方とか、ずらし方も既に飽和してきている感じというか。
素材自体に新しいものがなくなっているのかもしれない。
ユニクロが素材に特化して、衣料市場のあり様を変えてしまったように、たぶんまだエレクトロニカには、何か伸びしろが残ってるんだろうと。ふと、
「ヴォーカリストYukiと電子音楽家Jemapurによる噂の新プロジェクトYoung Juvenile Youthついに始動。」を読んでそう思った。まあこういうアプローチはすでにあったのだけど。
Aoki Takamasa / see that girlこういう音楽って、今のアートフェスなんかとすごく親和性が高い。
とくにインスタレーションが主流になってきた現代美術の空間性とか。
最近は、インスタレーションの中に物語性をとり入れて、物語と空間をコラージュするっていう方向が出始めていて。それがボーカルとエレクトロニカを使うという方法と似ているかもしれない。詩と音というか。上の記事で、浅野忠信氏が追っかけっこってうまいこと言ってるけど。
ただ、静寂さを求める美術館ではそれがなかなかできない。そういう点で、今ライブハウスは、そういうアート的な空間として求められている部分もある。VJとか。
基本的にエレクトロニカは空間を表現する素材として、インスタレーションと親和性が高い。そして身体性とも。
要は機械から始まったのに、人間の感覚とか生身の部分へ還元される方向に変わったというか。
たぶん、仮想というものに飽きちゃったんだと。あるいはデジタルの限界というか。
現代美術とかアートフェスを見てて、そこに「ある空間」を音で成立させようとする試みっていうのは、たとえば、やくしまるえつこも、豊田市美術館の展示で織り込んでやってたけど、音楽がもつ空間的側面をエンファサイズするアプローチとしてすごく有効で。
でも、まだ誰も完全なテキストとして理論的に成立させていない。だから、いま現代美術が実験的にやってるわけだけど。
空間性と身体性は、テクノからエロクトロニカへ変貌する際のキーになったんだと自分の中ではそう思っている。で、なぜかその間にノイズ音楽っていうのをはさんでいるような気がする。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」で浅野忠信が、草原で演奏して、それを宮崎あおいが目隠しして聞くシーンがある。
あまりに実験的!これを観たときは見ながら爆音の中で寝落ちしたんだが苦笑
テキストがない。線が通ってないというか。物語がないというか。だから逆に飽きる。でも、ノイズ音楽によって、音楽のテキストが崩れて、テクノがそれに気付いて、自分達の武器は身体性と空間性だったのだと。で、テキストはやっぱり必要だという認識のもとにエレクトロニカに変貌して、ドバッと裾野が広がったというか。
ノイズ音楽は、既成の音楽をdéconstructionすることで、閉塞した音楽状況を打破しようと。その解体の際に、”新しい(あるいはボストモダン的な)美学に基いた観念が具体的に形として提示される(あるいは再構築される)こと”を期待してというものだったんだろうけど。結局、その解体によって、新しい価値を見出したのは、解体されたほうの既成の音楽であって。そして新しい美学なんていうのはなかったと。それは人間の身体性そのものだったというか。まあ、それも勝手な想像だ。それはさておき。
耳の能力というのは、犬や猫なんかの動物とくらべて人間は劣っているんだけど、ただ機能として劣るだけでなく、高機能なものが次元を変えてしまうことがあるように、彼らは人間とはまったく違った空間の意識を持っているのかもしれないと思うことがある。
逆に言えば、その眠っている能力に気付かせるような新たなテクスチャーができれば、今の音楽に新たな絃が生まれて、さらに新しいものが作れる余地が生まれるような気もする。まあ、眠ってる能力なんてないだろうけど苦笑 ※1
空高くでなってる風の音とか、すぐ足もとで鳴いている虫の声とか、自分がいったい空間を音でどういうふうに認識しているのか。昔のラジオドラマの音響演出なんかを見直したり。エリ・エリ~も、最初のシーンは、浅野忠信と中原昌也がいろんな音を集めようとするシーンから始まる。
クラシカルな音楽理論も大切だろうけど、まったく違った、聴覚心理学とか脳科学的な見地から、音を見直すっていう方向もあっていいんじゃないかなと、今風に。空間性だけでなくて、時間性も見なおしたり。音をチャンク化する際の法則とか。それを新たに理論づけていくような作業をしていく。かつてYMOがアナログ音楽をデジタル化して理論化していったように。あるいはビートルズで、テープを逆回しにしたりしてあらたな音を模索したみたいに。まあ、そういう遊びから始まるほうがおもしろいよねと。
ライブっていうのは、演者が聴衆に身体性を「直に」与えるというか、気付かせる場所なんだけど、とくに演者との距離が近いライブハウスは、直截的で、すごくエキサイティングなわけで。ロックなんてまさにそういうしろものであって。そして自分はそれを享受しているわけだけど。その身体性のテキストを根本的な方法論から見直す時期に来ているのかもしれない。
まあでも、自分的には、ロックはロックであってほしいのだけど。どっちかというと、70年代の匂いがする古典的なロックだったり。あるいは、そのリバイバル的なもの。グランジ、パンクもそう。それでおいらは充分だし。パンクは、今でもまだいろいろ変わる素材はいっぱいあるし。ただ、いまのロキノン系はもういいわと。
まったく新しいセオリーで音楽を作る若い衆がでてくれば、音楽シーンもまた変わるような気がする。そして、日本人ってけっこうそういうのは得意なような気もするのだ。
とはいえ、なんだか、聞いてしまうとくせになるなにかがあるバンドはひっきりなしに出てきてるんだけど、ロキノン。ただもう追いかけるのに疲れたよ。しばらく休もう。(←意訳)
<参考>
ソニック・ユース
ジム・オルーク
boris
リミッツ・オブ・コントロール The Limits of Control (2009)
灰野敬二
青木孝允
中原昌也×ジム・オルーク対談:「リディア・ランチもリチャード・カーンもグラインドハウスによく通っていた」
音楽で広がった世界
<後記>
※1 皮膚による音の感知
人の皮膚には振動を感じる感覚器官がある。
マイスネル小体・ファーテル--パチニ小体・メルケル触板。
マイスネル小体は、毛のない皮膚、手掌や足の裏などのコラーゲンで構成される皮膚上にみられ、特に指先の末端部分に密集している。マイスネル小体は、表皮下付近に位置し、表皮の組織に結合されている。そのため、皮膚を歪めるような横向きの刺激に敏感であるといえる。振動刺激の周波数範囲16~31.5Hzに反応すると考えられている。
ファーテル--パチニ小体は、手掌、足の裏に多く分布し、皮膚だけでなく関節部分、靭帯などの組織上にもみられる。通常、パチニ小体は、真皮に位置し、タマネギ状の薄い層により構成される。比較的大きな受容器であり(最大2mm)、大きなものであれば肉眼でみることも可能。特に圧の刺激に敏感。周波数100Hz以上の振動刺激に反応すると考えられている。
メルケル触板は、表皮の真下、あるいは毛根部分の末端付近にみられる。それらは、おもに軽い接触に反応し、振動刺激としては、周波数6.3Hz以下に反応すると考えられている。
記事元:http://yaplog.jp/sibahara/archive/388