象の夢を見たことはない -92ページ目

Let it be

ゴッドダム!ゴッドダム大久保。

まったく。

自由というしろもんがあれば、それはこういうことだと。

そんなこともわかっていなかったよ。

れといとびぃーー ビートルズ

スキップする彼らは一体どこにいるんだろう?

随分、昔のことになるが、津にある市営プールに妹と二人で行ったことがある。
屋内に25M温水プールと、屋外には夏に開放される50Mプールと幼児用の深さ30cm程のプールというか水溜りと言ったほうがいいのか、がある。まだ、夏に満たない季節だったのだろうか、自分たちは温水プールのプールサイドにいた。

公営のプールの場合、1時間に一回休憩がある。休憩の時間に、監視員がプールをチェックし、沈んでいる人はいないかチェックする。一定時間のチェックのあと、ラジオ体操第一がかかり、ラジオ体操をして、終わると笛だったりブザー音だったりの合図があり、各々がプールに入る。

余談だが、このラジオ体操第一というのは、外人には全くわからない儀式に見えるらしい。いきなり、音楽がかかると、それまで見ず知らずの人たちだと思ってた人々が、一斉に同じ体操をし出す。驚かないほうがおかしい。日本人というのは、変な人たちだと思われる一つの光景。

その休みの時間に、プールサイドに座り込んでいたオレと妹の前を、年の頃10歳後半のコがスキップしながら通り過ぎた。彼は満面の笑みを浮かべていた。「あの幸せそうな笑顔は今でも忘れられない」と、妹とたまに話をする。多分、多幸症とかそういうコだったのだろうと思う。

彼は全く何ものからも逃れていた。
まったく自由だった。

そういえば、自由という名の牢獄ってことを言ってた人がいたっけ。
無意味に生きてきた人類は、人類史上初めて意味を求めるようになりました。この世に意味はありませんから、その意味で無意味な世界で意味的に生きることを強いられることは不合理なことです。これが自由の刑です。「人間は自由の刑に処せられている」っていうアレ。

あのスキップしていたコ。
彼は、あまりにも幸せそうだった。
本当は、自由と幸福ということは結びついていたのではないか。

ただ、彼は彼の世界の中にいる。
外の世界とコミットしていない。
だから自由と幸福が直に結びついている。
おとぎ話の世界での話。

今日ゆずの北川悠仁氏と演出家の宮本亜門氏の対談番組を見てて。
北川悠仁氏はコンサートの前の自分の行動をルーチン化しているらしいのだけど。
ゆずのコンサートでも、ライブ前には演者と客・スタッフ・警備員含め全員で「ラジオ体操第一」を行うそうだ。

自由の刑に処せられた人間というのは、型を求める。特に日本人の場合は。
自由というのは本来は恐怖を伴う。
自己責任が発生するから。

自由にして!って言われたときの困惑。
そしてその困惑の根っこには恐怖がある。
型にはまることで、恐怖が抑制されている。

逆に型から離れている人に恐怖を感じる。
すべての人に同じ型を求める。
自己と他人との境目が見えなくなる。

結局、「個」が確立できない。

そういう傾向が多分にある日本人にとって
一体、自由というものが本当にわかるのか。

自由から逃れ、逃れ。
軍国主義ですか?やっぱ。安倍ちゃん的な?
まあ、集団の気持ちよさってのは否めないのだけどさ。



神風特攻は今でも起こりうる。別の形で。
日本人の本質はそんなに変わってないと思う。

こないだの今池遊覧音楽祭で得三で聴いたOF THE SPACISTOR。
もうこんなメイクはしてなかったけど。
ラストの曲として演奏するあたりが抑制されていて。
パンクって自由の意味が分かっている人たちの音楽だった。

最近のロキノン系でもメロコアでもそうなんだけど、なんか客のあの一斉な感じが。。
サークルでスキップする。
彼らと自分がプールサイドで見てたコが重なる。

今、だから逆にライブ会場が怖い。
別の意味で。
彼らはおとぎの世界にいる。

好きだけどね、おとぎ話。
それって個人的に愉しむためのものだったり。
あるいは一人用の避難シェルターであって。
それを拡張させた世界にみんながいる感じが怖い。
仮想世界が拡張してて、まるでエヴァだよと。

昔は、こんな感じだったし、今でもこんな感じなのよね。
本当のパンクのライブって。



まあ、スェーデンのパンクバンドASTA KASKのライブだったので、
外人さんが多いって理由も多分にあるけど。

正直、喧嘩が起こってもおかしくない。
「個」であることには責任を伴うわけだけど。
自由というのは、ただスキップすることじゃなく。
恐怖もその先にある何かも引き受けることで。

自由になることは、幸福になることと同じではない。
ただそれを同じものとすることはできるかも知れない。
すごく難しいことだと思うが。

とにかく、きもちわりいーからスキップしながらサークル作るのはやめれ。
まだ、喧嘩してるヤツらがいるほうがまともだ。

かぶき者たち

MOJに行ってきた。MINISTORY OF JUSTICE。法務省。
ウソである。

名古屋のイベンターTATSUくんのゴリ押し激アツライブ。
Monsters of JAProck。
MOJを一言で言うと、「かぶきものたち」だと個人的には思っている。
もしくは「へうげもの」(ひょうげたもの)。

とにかく、どこかがはみ出している。
そういうバンドばかりなのだ。
一見まともそうに見えても、演りだすと「ヲイヲイ!」っていう人達とか、
最初から、「君たち、ぜったいおかしいやろ?」っていう人達とか。

その絶対おかしいやろ?っていうパターンの人たちでライブが始まった。
パイプカツトマミヰズ。大体からして、下はトランクス姿のリーダーとか。
ありえない。



まあ、トランクスだったのは昨日だけだと思うけど、とにかく誰かは変だ。
自分がこの前初めてみたときは、「クリムゾン・キングの宮殿」をお面にしてそれを被っているヤツだとか。鍵盤はいつも変だ。ギターも変だ。ギターなんて昨日はいきなりしょっぱなから、客席にスライディングして、客の足の間を滑っていた。やりたい放題である。
だが、音はすごい。基本はプログレだったんだ。。と思う。だけど、それすらリスペクトしてるのかバカにしてるのか分からない。ロックをパンクさせようとしているというか、パンクをロックさせようとしているのか、とにかくふざけた風でいながら、やたら正統派のフレーズを弾いてたり、ロキノン系の流行りのフレーズっぽいやつとか。で次の瞬間にはそれも壊してて。ノリでどんどん変えながら、おふざけしながら、つなげていく感じ。
昨日はめったにやらないメンバー紹介ということで、彼女から呼ばれているあだ名でそれをやっていた。紹介していたリーダーがひとり自爆していた。当たり前だ。自分が彼女から呼ばれているそれを自分で言うのが一番恥ずいに決まっている笑。
でもいつも見るだけで勇気を貰う。そんなバンドさんなのである。結構大好き。

二組目は、ADAM at。from 浜松。



メンバーが固定でなく、いろんな人が入れ替わり立ち代わりで。
名前は知ってたのだけど、見たのは初めて。
ピアノセッションバンド。ピアノのタマスケアット氏を中心にセッションが組み立てられてく。
あまりこういうバンドは自分では見に行くことはないので、こういうイベントで新しい世界を知ることが結構楽しい。葉加瀬太郎の情熱大陸に当たるのが、このMONOLITHなんだろうか。そういえば、葉加瀬太郎氏も実は人前へ出るのが本当は苦手だそうで。バンマスってそういう人が多い。そのタマスケアット氏、しょっぱなのパイプカツトマミヰズのスライディングで自分の近くに滑ってこられていまだに動悸が止まりません。と軽くMCでディスってた笑

三組目は、NACANO



元PENPALSの林氏を中心に、ギターにbabamaniaのYujin氏、ドラムスはZEPPET STOREのYANA氏という3人編成のエレクトロロックバンド。だったのだけど、また最近メンバーが増えて、とういかリバウンドして笑。6名の編成で名古屋にはやってきてた。
ちなみにこのMVを初めてみたとき、ウサビッチを思い出したとは言うまい。言ってしまったが。個人的にはNACANOで来たときのYANA氏のTシャツにはひそかにいつも注目している。あのTシャツたちは一体どこに売っているのだろうか。
最後にTRAGEDYを演ってくれたのだけど、もはやあのダンサブルな原型を留めていなくて。よくやる曲は、多分林氏が飽きてしまって、どんどん演奏が変わっていく。というか乱れていくというか。そういうあたり含めて、林氏らしいのかもしれないのだが。ちょっとその辺は一聴衆としては残念。

四組目は、bradshaw



8,9,8,10。
個人的には、今日1だった。
このバンドも名前だけ知ってて初見。PV見て一発で「なんじゃこりゃ」と。「音すげえ」と。
で現場で見て聴いて、それを超えてた。やっぱり現場って大事。グルーブとかノリとか。そういうのってCD聞いたって、PV見たって何十分の1でしかない。現場で肌震わせて音を聞かないとダメ。
とにかく音のキレが半端ない。あのMCのキレなさ加減というか、こうキレない餅のようなノび具合の味わい深さと対照的で。でもそれでいてクセになるのは、音もMCも両方ともっていう感じ?ぜひ、また行きたいし、聴きたい。現場で飲んでしまったのでCDとTシャツを買う金というか、CDかTシャツかを買う金がなかったのが残念。

五組目は、camellia
レコ発だそうで、めでたい。



このバンドも初見。まー、自分はフツーの人なのでとっつきづらい笑
だがアーティスト受けするんだと思う。
エレクトロのアンビエント風な感じじゃなくて、それをバンドでやっているっていうのがやっぱりかぶいているカブキ者。1曲が変化しながら、元の場所へ戻ったり、あるいはBPM80で始まって320で終わるとかそういう音楽構成にマニアックな人は受けるんだろうけど、ただひたすら聞いていてもそれはそれで心地よいんだと思う。
自分はどっちかというと、DUB 4 REASONみたいなダブ系のほうが気持ちいいのであれだった。あるいはジェゴグ的なリズムのループとか。肌から離れた耳だけのギターなりピアノなりのフレーズのループって身体とか肌に響いてこなくて、踊りが好きな自分的にはトリップ感が薄い。それってシューゲイザー的な感じで演者に閉じてるループな気がしてて、まあ人それぞれなんだろうけど。アルカラさんが認めるっていうのは、なんかtakashiishiwata氏のファッション的にもわかる気がした。ただその日の服がそうだったってだけだけど。
『とあるバンドが言っていた「camelliaと一緒にライブしたくない! だって凄まじいライブするんだもん!」わかる! わかるぞ! でも俺たちdustboxは挑んでいきたいんだ! ジャンルを越えた勝負がしたいんだ!』 そういうバンド。しかし、一曲が長い。今日は2曲というか、1曲半×2で彼らの持ち時間30分が終わった。ありえない笑

考えてみればMOJをMOJと分かってて、それを狙って行ったのは初めてかもしれない。
しかも始めからケツまでその場所に居れたのは久々。それだけバラエティに富んでたし、楽しかった。DJもいい感じの曲。
最近は体力なくてほとんど途中棄権か、途中参加してしまうのだけど。
マニアックでほんと面白いイベントだった。

Monsters of JAProck
"Dellapalooza"
10/27(日)名古屋CLUB ZION
開場17:00開演18:00
前売2000円当日2500円(D別500円)
【BAND】
camellia
ADAM at
bradshaw
NACANO
パイプカツトマミヰズ
【DJ】
野垣内悠(Synchronized Rockers)
M!-Ke(Synchronized Rockers)
ちょこたん(SPECIAL ISSUE!!!!)

読書日記

かくかくしかじか。

かくかくしかじか 1 (愛蔵版コミックス)/東村 アキコ

¥780
Amazon.co.jp

某アップセッ!のしゃちょーがTwitterで呟いてたので。
おおー、いいわあ。このわき目も振らず一直線な受験までの道程。
こういう昏さに耐える若さが欲しい苦笑

なんか2巻は評判が悪いというか、amazonの星が少ないヤツの書評に説得力があるぱたーん。
まあこの人はそういう人なんだろうと主泣きのおまけ部分を読んでわかってたけど。
にしても大学入ってから崩れすぎ笑

気になる部分。

気になる部分 (白水uブックス)/白水社

¥966
Amazon.co.jp

安定の岸本佐知子節炸裂。
ああ、ええわ、この人。けっこんしてくれ。
というかお姉さんになってくれ!
もしくは、弟子にして!

しかし、向田邦子さんにしろ岸本佐知子さんにしろ、小学校とか中学校とかのことをなぜこうも生き生きと覚えているんだろう?女の人だから?でも、人によっていろいろパターンがあるんだろうか?
彼女の訳書のニコルソン・ベーカーの『中二階』も一緒に買ったけど、こちらはそれほどでもない。男には興味がないからか、さっちゃんに対するほどの思い入れは無理っす。

表現

筒井康隆のSFジュブナイルに「暗いピンクの未来」という短編がある。『ミラーマンの時間』という文庫本に入っていた。中学生のときに読んだのだけど。

$ニャンちゅうなブログ-ミラーマンの時間
(さしんは人様のところからの借り物)

児童文学が侮れないように、ジュブナイル小説も侮れないものがある。SFの、しかもジュブナイルなんて子供だましの空想小説なのだが、結構少年にとっては根源的な命題を含んでいたり。

この「暗いピンクの未来」には美術に関する命題がある。
絵が好きな美術部員の主人公の「おれ」(白井常夫)は、将来絵描きになることを決意していて、勉強なんてしなくて絵ばかり書いている。そういう俺にとって、いけ好かないのが同じクラスのワダ(仮名:名前忘れた)。うらなり瓢箪で、いつも青白い顔をしているガリ勉である。オレは言っちゃなんだが、明るくてユーモアもあるし、女のコにもモてる。一方ワダは性格が暗くて、根も暗い。顔も十人並以下だ。なぜ、ワダがいけ好かないかというと、そんなやつのクセにオレが好きなクラス一番の美人のなんとかちゃん(←忘れた)にどうも気があるらしいのだ。そして、何かというとオレに敵対心を持っていて。どうもオレを陰でばかにしているらしいのだ。ワダのくせに。

そんなオレが12年後の世界にタイムスリップしてしまう。未来で出会った俺は美術の道をあきらめ(絵描きでは食っていけないからだ)服飾デザイナーになっていた。一方、数学が得意だったワダはコンピューター技師になっていて、同じくコンピューターを使って服飾デザインをしている。あの美的センスのカケラもなかったワダがだ。彼は統計を利用して美を作るのだ。センスではない。それは単なる数式でしかない。しかしながら、近頃メキメキ売れ出していて。オレの「シライブランド」にとっては、最大の脅威になりつつある。

何よりの問題は、ワダブランドの服は、オレが見ても悔しいことに素晴らしいのだ。ただの数式で作られた服がだ。そして、さらに問題なのは、ヤツがオレがやっと手にした現在のガールフレンドであり、恋人未満である同級生のなんとかちゃん(←以下同文)に相変わらず気があって横恋慕していることだ。12年も経ったのに、まったく根が暗くて執念深いとはアイツのことだ。くそいまいましい。

というふうな話なのだが。

一方で、小林秀雄にこういう話がある。
小林秀雄が、ゴッホの展覧会で「カラスのいる麦畑」の前で立ち竦んでしまう。
そして、エッセイまで書いてしまってそれを発表したのだが、小林が見てたのは、実はゴッホの書いた絵ではなく、そのレプリカだった。
小林はああいう文章を書くクセに、基本おっちょこちょいなのでそういう過ちをよくやらかしたらしいのだけど。

$ニャンちゅうなブログ-カラスのいる麦畑

だが、そのエッセイを読んで自分は秀雄(←呼び捨て笑)の言葉に共鳴した。この人の感じたことはまったく正しいと感じた。例え、彼が見たのが複製であったとしても。

「美」というものはいったい何なのか?と。この二つの話を日曜美術館の「生涯 富士を彫る ~版画家・萩原英雄~」を見ながら思い出していた。萩原英雄は版画家なのだが、その作品はまるで水彩画のように見える。自由な線、そして版画とは思えない色。それは確かに美しいパステル絵のような版画だった。

だが、しかし、それを版画で刷る必要はあったのか?結局のところ、効果としては水彩画とかパステル画のように見えるそれを、わざわざ版画でやる必要はあったのだろうか。結局、その版画も、枚数を刷るというためでなく、一枚を仕上げることにこだわっていて。同じものは作れない。だったら、はじめから、水彩画とかパステル画で描けばいい話だ。それって、美術なのか?それはただの職人の技術でしかないんじゃないか?技術に対する賛美。あるいは、手作業、手法の発明に対する賛美。希少性とか。そういうのは果たして純粋に「美」といえるのか。

人が人の行う手作業に思い入れをする。
手作業自身が結果的に作品に及ぼす効果はなんらない。
そうであったとしたら、美というのはいったい何なのか?
オリジナルとは何なのか?
現場主義というのはウソなのか?

それは音楽にも言える。詩にも言える。文学にも言える。

美というものは、個人的な経験でもあり、公の評価でもある。
その両義性を同じ価値観で扱おうとするから混乱する。
そしてやっかいなことには、どうも美の認識に段階というものがあるらしい。
養老孟司の「バカの壁」のように。

実はそういう一直線上に価値観というものは存在するわけではない。
しかも、環境によって価値は変わる。時代と添い寝したりもする。

そういうなかでのエゴ。未来まで残る歌、絵、彫刻。
それって一体どういうものなのかと。

考えたときに、すごく混乱するのだが、結局、それは自分自身に引き取って考えるしかなく。
そうであれば、「そのもの」と自分が直に向き合ったときに掴み取れる「何か」でしかない。ただただ、シンプルなそれ。価値というのは、自分のその経験を積み重ねて得られる何かでしかないような気がする。そうすることでしか「解」は得られない。そして本来、それを他者のそれと比べることに意味なんてないし、逆に、他者のそれを気にすることにも意味なんてないのだと思う。

そういう経験を積み重ねていくと、結局、作者の在り様というのは、作品から透けて見えるようになるし、自分自身の在り様も逆にそこから透けて見える。それがたとえ複製したものであっても、大量に生産できるものであっても。

作品に関していえば、現場に行かない人間の怠慢さと不誠実さは、作品のどこかに必ず現れる。人というのは生きて動いているわけで。1つの作品は、その人の1つの型にしか過ぎない。作品の一つだけをとらえたところで、それはその人の生の一部でしかない。そんなものが未来永劫残るわけではなく、いつの時代も、誰であっても、その人そのものをその人の流れの中で評価する。だから、結局は人なのだと。

「自分の嗜好に従って人を評するのは容易なことだ」と、人は言う。しかし、尺度に従って人を評することも等しく苦もないワザである。常に生き生きとした嗜好を有し、常にハツラツたる尺度を持つということだけが容易ではないのである。(小林秀雄 「様々なる意匠」)