象の夢を見たことはない -90ページ目

Trevor Young

If you want to build "something", it takes time.

http://vimeo.com/67356023

現在は、絵描きにとってはすごい時代で、デジタルメディアだとか、明らかに以前とは異なるプロセスをアーティストたちは使うことができる。絵描きというのは、その中である種貧乏な人々であって。でも、まだそういう仕事に従事している人たちがいる。私もそうで。
絵というのは古いメディアで。だから、なにかをする上においては、スロウダウンする必要がある。意識的にそれを作らなければいけない。
そして、もしあなたが何かを作ろうとするなら、それは時間が掛かるものなんだよ。


モノづくりの本質は変わっていないと思う。

現代って、如何に多くのアンテナを張って如何に早くそこからコピーするかっていうのが、その人の価値になってたりするわけだけど。一生のうちに、人が本当の意味で作れるものって、3つも作れたら、予想を超える上出来なんじゃないかと思う。

$ニャンちゅうなブログ-Trevor Young

孤独に耐える力が必要だ。

表象 representation

日本語のデザインというのは、「図案や模様を計画、レイアウトすること」。

ならば、それによって提示された図案や模様というのに芸術性はないのか?
と言われると、うーんと唸る。
自分的には、村上龍氏が語っていた言葉を引用したい。

読み物でない小説、文学っていうのは、書き手よりも書き手が伝えようとしているものが、こう大きいというか深いっていうか、コントロールできないもんなんですよね。コントロールできるなら一言で言えばいいわけだから、スローガンみたいにして。言えないってことは、自分では掴んではいるけれどなかなか短い言葉にはできないものなんですよ。
中上健次は「獰猛な異物」とよく言ってたけど、自分でもどうしていいかわからないような、あるなにかに対する思いだったり…


芸術と云われるものも、これと同じで「描き手や作り手よりも、彼らが伝えようとしているものが、大きくて、コントロールできないもの」を含んでいるかどうかっていうところに線引きがあるんだと思う。だから、図案や模様でも、もしそこに作者のそういう「掴まえ切れない何か」が感じられるものであれば、芸術であると自分の中では思っている。

今日、八田敦氏のサイトでこういう図案を見た。

$ニャンちゅうなブログ-hate honey blue berry motel

これは、hateファンなら「あ、ブルーベリー・モーテルだ」と。



この図案は、このMVと歌の世界観をあまりに純粋な形で提示していたので
『なんじゃこりゃ』(ジーパン刑事ふう)とショックをうけ。。

そう、実際のオリジナルが逆にある筈と。探したら、Trevor YoungのNight Lightsという作品群の中にあった。

Artist Trevor Young
http://www.trevoryoung.net/

なんだよ、まったくのコピーじゃねえかと思ったのだけど。
それでもなお、コピーでしかないかといわれるとそうでない何かが残る。
確かに、スローガン的なものではあるけれど。
HATE HONEYの中にある『獰猛な異物』が出口を探していて。
この絵にぶつかったというか。出会いがしらの衝撃。

最近の高木フトシ氏の詩はスローガンに堕してしまって。
言葉に寄りかかりすぎで。
ただ、唄とか声は、いまだに本物なので困るのである。
ほんと、頼んます。
別にぶっころせ!とかが聴きたいわけでなく。
なんとかこう血の滴る魂の叫びみたいな声にあった詩を。

そういうものって、対面じゃなくても伝わる。
目を見なくても伝わるもののほうがより真実だと。
人についてだけは、そんなふうに自分は思う。

デザインとdesign

しつこくデザインについて

「デザインは問題解決、アートは問題提起」。
この言葉に反発したのは、如何にもデザインがアートの提起した問題を解決してるふうだったので、それは違うだろ?っていう怒りからだったのだけど。

どうも、標語というのがうそ臭い。
それは生活の潤滑油にはなるのだけどね。
この言葉も片方だけだったら成り立つのだけど。
それぞれの言葉の文脈は全く別のものであって。
というか、扱う「問題」が根本的に違う。
安直に対になる言葉を並べたくなるっていうクセが人にはあるらしく。。

デザインというのは、日本語の問題でいろんな意味や定義を含んでしまっている。
本来の英語のdesignは、「設計」や「建設」という言葉を当てるほうが適切で、日本語のデザインとは違う。日本語のデザインというのは、「図案や模様を計画、レイアウトすること」という意味で使われることが一般的に多い。

「デザインは問題解決」という言葉は、本来英語の方の意味で使われたもので。
というか英語で言われた言葉を日本語に訳したものらしく。
英語でいうdesignは、システムデザインとかエネルギーデザインとか、何らかの問題を解決するために思案することに力点が置かれていて。

そういうことを書いてある記事があって。

デザインとは問題解決のことである
http://www.defermat.com/journal/2011/000945.php

なんだそういうことかと。
ホント、翻訳語の耐用年数が過ぎた言葉って始末に困る。
でもこれは、アートとデザインというのを対にして言ったヤツが悪いのだが。
誤解を狙って言ってる感があり。そこが気に食わん。

あるいは日本語の曖昧さというか。
まあ、勘違いする自分も悪いのだけど。

考えてみたら、英和辞書はひくけど、国語辞典をひくことって無くなった。
言葉に対する慣れっていうのも怖いものだなと、自分に翻って思う。

最近、あるシンガーの、日本語が持つ言葉の曖昧さに寄っかかって、言葉に酔っているあり様に無性に腹が立ってて。その人としてのいい加減さというか。漫画か!と。ファンタジーとか物語とかおとぎの世界でそういう言葉を使っている分にはそれでいいんだけど。あるいは自分の中で自分を鼓舞したりなぐさめたり。そういのは必要だと同意するけど。それは信仰と同じで。必要だし尊重はする。けど、それを他者との関係にまでというか、現実世界にまで拡張させようとしている幼稚さにほとほとうんざり。同じ人間だろ?とか目を見て話せば分かりあえる!とか。まあ、気持ちはわかるけどさ、キミ年幾つだよ?と。同じ価値観を他人に押し付ける、そのあり様で平和とか言われてもねえ。「個」の意識のなさ加減というか。他者への「甘え」というか。それと同じ匂い、彼と同じインチキくささをこの言葉に感じたので、腹が立ったんだよね。宗教のインチキくささというか。自分は信仰は持つが宗教は持たない。そういえば『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』ってそういう映画だったのか?あ!そういうことだったのか!今わかったわ。
ああ、書いててまた全然話がそれてしまった。
怒りというのは冷静さを失わせる。もうちょっと落ち着かないとダメだわ苦笑。

デザインあ

デザインは問題解決

アートは問題提起


っていう言葉を聞いてから、どこかに
「いや、それってどうなんだろう?」という強烈な違和感と、
確かにそうかもしれないという確信に似た想いがあって。
それについて、心のどこかでずっと考えてたのだけど。

こないだの『デザインあ』の木工デザイナーさんの言葉とか。
本阿弥光悦とか。
心というのは不思議なもので、関係するものを無意識のうちに拾い始める。
解を求めようとする暗黙の力というのは恐ろしく強いらしい。

江戸時代以降の美術、たとえば、琳派だったり、北斎だったり広重だったり写楽だったりの浮世絵であるとか。あるいは若冲であったり。陶器でいえば乾山だってそう。特定の社会階級の人たちのもとを離れ、庶民のものになるに従って、美術の主題がデザインというものに変わったような気がする。イギリスのアーツアンドクラフツだって同じ。逆にいえば、そういう転換点を迎えるのは日本のほうがヨーロッパよりよっぽど早いのかもしれない。だからこそ、印象派のジャパネスクであるとか。目で見て愉しい、使って楽しい。多分それは工業化に伴う社会的な必然だったのだろうと思う。

琳派も若冲も乾山もすごく好きなのだけど。

用の美というものと見た目の美というものとは異なる。

人の目というのは不思議なもので、例えば筋肉隆々で見た目強そうな人間が総合格闘家としてトップになれないように、あるいはトップアスリートの身体が必ずしも美しくはないように。逆にトップモデルがアスリートとして強いわけではないように。デフォルメされたものを美しいと感じてしまう。

日曜美術館で本阿弥光悦の茶碗について、解説の方が語っていたように、必ずしも見た目が美しいものが実用に適したものではなく。あの茶碗という代物は、本来人がお茶を飲む形に適したものではない。すごく傾けないとお茶を飲めないし、どんぶりで水とかお茶を飲んだことがある人は判るが、口が大きい茶碗で飲もうとすると、口の脇から飲み物がこぼれてみっともない。

逆に、ああいう形のもののあり様としては「ぐい呑」が用途的に適しているのだけど、見た目はやはりせこせこした「ぐい呑」より、大振りの茶碗のほうがはるかにかっこいい。茶碗のほうが「痺れる」。人の感覚を麻痺させてしまう美というのがそこに在る。

個人的なというか、このブログは隅から隅まですべて個人的な意見だけど、iPhoneというのは、デザインではなく、ある種の美だったんだと思う。それを今のアップル社は分かっていない。デザインで片そうとするから会社自体に魅力がなくなった。

多分、中間をとるということはできない。
そういうのは、帯に短しなんとやらで、使い物にならない。

もしかしたら、デザインというもののほうが、より「人の形」をしているのかも知れないんだけれど、なぜか、自分はそれを超えたものに惹かれてしまう。例え、それが用を為さずとも。

それは、必ずしも「人と異なる」というものを求めようとするところから来るものではなく。何らかの心の必然なんだと思う。あれは一体なんなんだろう?そのズレというのはあまりに決定的で、あるときには致命的であったりするのだけど。なんで、わざわざ、そのように人はなっているのか、そんなものを求めてしまうのか?まだよくわからない。

ただ、たぶん生き物というのは問題解決だけが生きるための解ではないと。
少なくとも生きる目的ではない。
それだけは今確信している。

デザインは生きる上での必然
アートは生きるための必然

なんだと。

そんなふうに言い換えて、初めて生きることというのは2つの側面が在ることに気づいた。
生きていることそのものが問題提起であって、生きることが問題解決である。そしてその解決は常にずれる。一致することはない。デザインがアートの解でないように。それはあたかも逃げ水を追うようなもので。けれど追うことを辞めると生きることからも遠ざかってしまう。だから自分をデザインし続けるしかないのだと。それが仕事だったり、生活だったりということなんだろう。いにしえの人はそんなことを考える必要もなかったのかも知れない。それらが一致してた。本阿弥光悦なんて後半生はそんな人生だったんじゃなかろうかとあの焼き物を見てそんなふうに思った。

日進月歩

人に異ならむ。

いやそれは…。って書いておきながら本阿弥光悦なのである。
NHKの日曜美術館で、本阿弥光悦を特集していた。

$ニャンちゅうなブログ-舟橋蒔絵硯箱

舟橋蒔絵硯箱 本阿弥光悦作。

なぜここまで蓋を盛り上げる必要があったのかっていう。それこそが、桃山時代だったりするわけだけど。そんな「人に異ならむ」っていうことも、勢いとしてその時代の趨勢になってしまうこともある。それが秀吉のあり様だったのかも知れない。時代が彼を生んだのかも知れないが。だけど、そこが信長とも家康とも違うところだと思う。

会社のトップの性格が、その会社の性格を決定づけることがある。
良くも悪くも会社の文化にまで彼の人格の影響を及ぼす。
あるいはそこに所属する社員の精神的なあり様まで。

大阪城の石垣のあの巨石群、利休を見出したり。
あの豪壮さと派手さ、見栄っぱりさ加減。
一つの国の一つの時代の文化を象徴する。
時代の価値観を決定する。
そういう影響力を持っていた。

で、本阿弥光悦である。

なんらかの必然なんだと思う。
その必然を決定づけるのが、何かというのは自分にはわからないけど。
ただ、自分にとっての必然。
それがたまたまそういう形をとった。
この舟橋蒔絵硯箱のように。

本阿弥光悦は40歳を超えてからの作品が有名で。
自分にとっての必然に気づくこと。
その年齢になるまでそれを知ることに費やされたんじゃなかろうかと。

もっともそれまでの職人衆や武家、公家との繋がり。
加えて自己研鑚があったからできたんだろうけど。
自分のそれまでのすべての歴史を総合して作品を作る。
実際にそれを意志の力で実現できるかどうか。

そして最終的にはそれを土台にして遊ぶことへ。
遊び心が仕事になければ、やっぱり男は大成しないんだろう。
大体、かっこいい仕事だったり生き方をする人ってそういう人だ。

<後記>
本阿弥光悦 永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日)
光悦が作品を創り出したのは、江戸期に入ってから。
ただし、王朝文化の流れを汲む彼の作風は多分に彼の若かりし時代の名残を留めるように思う。即ち、それが彼にとっての必然だったと。子供のときの豊かな感性というのは今自分を振り返ると強力なバックボーンとなっている。必然というのは、その場所にあるんだと思う。
秀吉にとっての信長のように。