他者の視点を獲得すること
大学は理学部生物学科だった。
今はもう違う名前になっているだろう。今でもまだ頭に残っているのは、そのときの一人の教授の話で、遺伝子工学の話だった。当時はまだ、遺伝子工学は最先端の学問で、その専門の先生だった。そのころはプラスミドを媒介にしてDNAをっていう技術だったが、いまではM-RNAとかふつうに薬品会社で使っているわけだけれど。
ある研究者の話だ。雄雌の種別がある菌とそうでない菌、確か大腸菌だったとおもうが、ある教授が2人の学生にそれぞれを研究対象として割り振った。片方の学生は、以降画期的な発見を続け様に出し、片方の学生は研究者として大した成果も上げられず一生を終えた。
わかりきった話だが、違いがある、あるいはある一定の同一事項を持ちながら、ある部分では違う。
この違いが研究においては重要なのだという話だ。
人間の側頭葉をいじると、遊離体験ができるとか。
スピリチュアル系のテレビ番組で、脳科学者が側頭葉のある場所に霊的なものを誤って見てしまう回路があるという。
自閉症とサイコパスというのが現在の心理学のトレンドで、過去にはノイローゼ、統合失調症というに変遷しており、それは社会の状況と相似の関係になっている。構造主義から脱構造主義へという哲学変遷だけでなく、科学的な興味のありどころ、すなわち、資本がその動き先を見つけるところというのは、トレンドがあってより流動性の高い場所へ人の興味は移り勝ちで、それは大学のありようとも被っている。
自閉症とサイコパス。ミラーニューロンというのは他者の感覚を自分の感覚とする神経細胞だが、それらを過剰に感じてしまって回路として閉じてしまう、あるいは客観的に利用するというシミュレーションに関する能力。20世紀は前頭葉の時代であったが、21世紀は側頭葉の時代になるかもしれない。
人は腕や足を失っても、無意識にその場所を掻いてしまう。
脳の機能としては、盲腸のように残っているが、それにつながる感覚器官が失われている。
もしかして幽体離脱とかも、あるいは霊を感じるとかも、進化の上でつまり言語を使い、社会生活をする上で邪魔だったから、それに対応する感覚器官が消えて、脳にだけ残っているとか。
感覚器官として閉じてしまったところに、未来の種はあるのかもしれない。
他者の視点を獲得すること。
AIがどうのと言っているのもわかるが、人の能力のありようももう少し考え直して未来を託す必要もあるんじゃねえかと思わないでもない。機械は所詮一部の人の機能の拡張だけで、シンギュラリティというのは、例えば、CASIOの1000円の電卓にすでに人間が計算能力で負けているのを悔しがるのと同じレベルのくだらない世紀末幻想かもしれない。とういかなんで人間って世紀末とかがいつまでたっても好きなのかね。苦笑
フードロス
1級は、1回目はボロボロ。
2回目で1次突破するも、面接で「あうー、あうー」で。
選んだ問題は、「日本の警察は、組織犯罪にこれまで十分に対応しているか?」
えっと暴力団ってなんていうんだっけ、暴対法って?半グレっとかって?
考えている間に時間終了。日本人の面接官に情けをかけてもらいながらもなにも言えずに退場。
クソだな。
3回目でもまあ1次はこの体たらく。リスニングが酷い。しかも、午後に仕事があって遅れるかもしれないとのことで面接ヤメ。
CAMBLYとかさ、やらないとダメよね。会話忘れちゃってるし、とかの言い訳もくそだな。動けよ。クソが。
ていうか、いまだにNHKとかのニュースは聞けるけど、映画だとダメな。
なのでナナちゃんのフレンズ英会話をとりあえずエクセルに全部まとめた。
ネイティブの会話は結構キビシイ。
てか、面接のネイティブのヤローがスッゴイ早口で、しかもワザと早口で喋っている感があって、まあそれはある種頑張って早口でしゃべってんなあ感はあったわけだけれど。。
とか、そういうのの前にいろいろな質問に対する回答を自分で読んで考えたりしてたわけだけど。端的にフードロスの問題にしても、穀物の生産量的には世界の飢餓を救えるレベルにはあるのだけれど、流通・保管の問題とかあるいは肉を生産したり、栄養レベルで考えるとだとか、あまりにも知らなさすぎで論戦の基盤にすら立てないような場所に日本人の知識はあるし、海外の常識を知らなさすぎで、自分がインドにいて日本に帰ってきたとき以上に常識にいろいろ世界とギャップがあるように思える。
ていうか、まあ知識の話もあるんだけれど、一番は、スピードで。
無駄に思考し過ぎ、2番は安全を考えすぎで、この2つは結局同じ穴のムジナだけど、結局はそこなんだろうと思う。
自分からしてそうなんだけど、結局、もっと陽気に行こうぜってことじゃない?
メタバースの限界
人の五感。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚。
といわれるけど、皮膚感覚では熱いとか冷たいとか。聴覚だと平衡感覚とか。2021年のノーベル生理学・医学賞は,温度受容体および触覚受容体を発見した功績に与えられたというし、感覚受容体というのは、まだ未発見のものもあるだろう。
テレビやラジオやCDとかは、人の感覚器官に向けて作ってあるので、結局現場には及ばない。未発見の受容体が感じる何かが現場にはある可能性がある。メタバースの限界はそこだろう。
ヴィトゲンシュタインだったか、人間は世界のモデルを自分の中に作って、それを完全なものにしていくという趣旨のことを言っていたような。
大きな木が山の中で倒れた。そこに人はいなかった。果たして音はしたのか。なんていうことを高校のとき古文の教師が言っていた。哲学的な命題が量子力学の最先端で交わるのだが、果たして科学は人間を超えられるのか、あるいは人間に囚われてしまっているのか。
折りたたまれた次元を感知できる能力とか。とりとめなく。
秋の夜長。
ニセモノが本物に
鎌倉殿のニセモノの髑髏が本物の証となる件,
どうやら三谷幸喜氏のニセモノが演じているうちにやがて本物になってしまうという生涯テーマの一つらしい。
演劇の世界では、人がこんなふうに変わっていくのはよくあることなのだろう。思い込みが価値を作っていく。
それは、本人だけのことではなく、多分に観客に当てはまることで、ある閾値を超えると信用というのは爆発的に伸びる。
テスラの株価とか仮想通貨とかもその例にもれずなのだが、ニセモノが本物になったときに換金してしまうことができるのが、モノのもつ特徴で、人はずっとそのままなので化けの皮がはがれたらそこで終わり。逃げどきがないので、ずっと逃げ続けるしかないからこその浅田彰の逃走論というライフハックとなるんだろう。
とはいえ、逃げる資金として、信用の換金をどこかでする必要があるわけで、換金したあと、それがただの葉っぱだとわかれば、やはり叩かれる。いまどきの逃走論では、業績が落ちないままで他者に託せてしまえば、その人の信用も落ちないから、生きながらえられるという策も書き添えておく必要があろう。
かねもうけ その2
好奇心というのは、無知と無謀の別名かもしれない。
無知だからこその好奇心。
好奇心からの無謀。
自分の好きなことというのは、好奇心が働く。
だからこそ、一線を超えられる。
好きなことをやりなさいとの最近のトレンド。
そして失敗したら逃走する。
逃げるは恥だが役に立つ。
逃走論。
キャチ・ミー・イフ・ユー・キャン。
軽やかに。
好奇心と逃走論。
ホリエモンもヒロユキもガーシーも前澤友作も逃走した。
イーロンマスクと三木谷浩史も逃走しながら財をなす。