かねもうけ
仮想経済の実態経済への影響。
もともと、株式や国債、仮想通貨などは実体を伴わないもの。
お金だって実際は国の信用によって成り立っているのだが、信用とは人の数でなりたつところがある。
仮想通貨の場合は、それをマイニングし、運用する技術だが、技術が破綻すればもろい。
これらは、すべて仮想であるが、仮想は実体に対して椅子取りゲームの場を提供する。
あるいは、てこの原理を使って、実体経済を回すための虚構のゲーム場である。
人間の脳も仮想は得意だ。
仮想することによって、頭の中でシミュレーションを行い、それを実際のものに落とし込む。
一人ひとりにその仮想装置は備わっている。
海外との貿易によって、財をなす。
海外の製品やサービスが、その国の人の欲するところであって自国に同様のものがない。
逆に日本の製品やサービスが、その国の人の欲するところであってその国に同様のものがない。
そういう場合、ふっかけたモノ勝ちである。
これらのすべてに共通する重要なものは情報だ。
したがって、広告というのは金になる。
情報は信用の上位概念なのか。あるいは下部なのか。
いずれにせよ、信用と情報は同時に存在しないと成り立たない。
いわさきちひろ展
デッサンで、線を自在に、しかも早く描ける人しか水彩画は向かないのだろう。
夫の松本善明氏がちひろの絵を描く様子を語った言葉がキャプションにあったが、一心に早く自在に描く、しかも一番絵になる形を選んでいると。
エゴン・シーレもそうなのだけれど、デッサンの鉛筆の線がくねくねしているのに迷いがなく、一筆で一息に描いているように見える。ごまかしがない。
こういう人には油絵はあわないのだろうなと、一応三重出身の中谷泰を油絵の師匠
として、彼の作品も併せて展示されているが、あまり共通点がないように感じた。共産党は戦争のない世界を作ると信じていたからのつながりだったのかもしれないが、いろいろなものを吸収していく過程でであった一人でしかなかったのかもしれないとふと思った。ちひろが描いた雪山と山荘の油絵があったが、あまりに雪が厚ぼったく、自身の水彩の絵とは相いれなさそうに思えた。そういえば、昭和の雪山の雪は厚ぼったかった。
ダリアの絵が油絵としてはかろうじて今の絵に通じているように思える。花瓶がパッチワークのような絵具の使い方で、このあたりはその後の水彩の絵の片りんのように思える。
結局、このひとはどんな人なんだろうという方向へ興味が向いてしまうのはみな同じなようで、
人と美術というのは切り離して考えられない。
#Midjourney との差分はたぶんそこへ向かうのだろうけど、これからの時代いわさきちひろの絵も水彩画の劣化の関係でピエゾグラフで残っていかざるをえないらしく。美術もその存在の足掛かりが問われる時代になってきているのかもしれない。
理解というのは大きな誤解であり愛情でもある。
「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」というのは村上春樹氏の言葉と以前に書いた。
私といふ人間を一番理解してゐるのは、母親だと私は信じてゐる。母親が一番私を愛してゐるからだ。愛してゐるから私の性格を分析してみる事が無用なのだ。私の行動が辿れない事を少しも悲しまない。悲しまないから決してあやまたない。私といふ子供は「あゝいふ奴だ」と思つてゐるのである。世にこれ程見事な理解といふものは考へられない。
というのは小林秀雄の言葉だ。見事な誤解であるが、「理解というものは常に誤解の総体に過ぎない」という春樹氏の言葉とつながっている。理解と呼ばれるものの本質は愛情なのだと言われれば、今ではああそうかもしれないと思う。
ノルウェイの森 を読んでいる。
「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」
すでにこの作品からそれは始まっていたことに気付く。
はじめて読んだのは社会人1年目のことだったのだが、正直まったく意味がわからなかった。
いま、英語で読むとよくわかるという経験をしている。
情景描写がなぜか日本語よりよく体の中に入ってくる。
日本語で読んだのに覚えていない箇所が多くある。
むしろそのことに驚く。
日本語だとわかった気になるのだろうか。
ちょうど、京都の山の中にあるアミホステルに入ったところ。
いま、気付いたがアミというのはフランス語だ。
科学がつきとめた「運のいい人」
なぜか図書館で2回借りてしまった。
予約システムがあるんだから、自分が以前借りた本も検索できるなり、表示だすなりして欲しいのだが。。
まあ自分が悪いので、忘れないように備忘録。
ほとんど目次だけでよいかもしれない、この本。
第1章 運のいい人は世界の中心に自分をすえる
運のいい人はいまの自分を生かす
運のいい人は自分を大切に扱う
運のいい人は自分なりの「しあわせのものさし」を持つ
運のいい人は常識よりも自分を上に置く
運のいい人はいい加減に生きる
運のいい人は自分の好みを大切にする
運のいい人は「おもしろそうかどうか」で決める
運のいい人は「○○ちゃん、大好き!」と自分に言う
第2章 運のいい人は「自分は運がいい」と決め込む
運のいい人は「自分は運がいい」と決め込む
運のいい人はプラスの自己イメージを持つ
運のいい人は「運がいい」「ツイている!」と声に出して言う
運のいい人は積極的に運のいい人とかかわる
運のいい人は早寝早起きをする
運のいい人はよい妄想をする
運のいい人は目いっぱいの愛情をもって人を育てる
運のいい人は自分のストレスレベルを上げる
運のいい人はあえてリスクのある道を選ぶ
第3章 運のいい人は他人と「共に生きること」をめざす
運のいい人は他者を思いやる
運のいい人はひとり勝ちしようとしない
運のいい人は品のある行動をとる
運のいい人はライバルの成長も祈る
運のいい人は利他行動をとる
運のいい人は他人のよさを素直にほめる
運のいい人は短所に寛容になって長所をほめる
運のいい人は不安と上手につきあう
運のいい人はだれかを助けたときこそ「ありがとう」を言う
第4章 運のいい人は目標や夢を「自分なりのしあわせのものさし」で決める
運のいい人は具体的な目的をもつ
運のいい人は目的や目標を自分なりの「しあわせのものさし」で測る
運のいい人はゲームをおりない
運のいい人は脳が飽きっぽいことを知っている
運のいい人はマイナスの出来事も引き受けてみる
運のいい人は頭のどこかで夢を意識しておく
第5章 運のいい人は祈る
運のいい人はポジティブな祈りをする
運のいい人はより多くの人のために祈る
運のいい人は敵のしあわせを祈る
運のいい人は病んでいる人のために祈る
ただ5章はちょっと付け足しのような気がする。
最近よく思うのはゲームを降りないとかやりきることが重要だということ。
あと自分を大切にするとか。「おもしろそうかどうか」で決めるとか。
自分に足りないのはなにかが目次を書き出してみるとよくわかる。
意外に大事なのは、運のいい人と一緒にいることより運のわるい人から離れること。
これがすごく納得。まさに大事。
ペーパーバック#1
ペーパーバックの本は学生時代に勢いで何かを買って読まずに終わった。
何を買ったのかも忘れてしまったが、読むのに挫折したことだけは覚えている。
講談社の英語文庫で羊をめぐる冒険を買ったのもいつだったか忘れた。こないだ探したがどこかにいってしまっていた。
それも結局、まともに読まなかった。
テレビもなかったインドのアパートで今だったら読めるに違いないと、本屋に入り何かの本をやはり買ったがそこで買った本で実際に使ったのは街の地図の本だけだ。
買ったのは2004年だったか。あのとき、すでに恐るべき勢いでバンガロールの街が変わっていたので、もう今では使えない。
今なら、グーグルマップのほうが現実的だ。
同じ場所の2004年の写真。
良い場所に住ませてもらっていたものだ。
この写真の子ももう20歳を超えているだろう。
時が経つのははやい。