象の夢を見たことはない -10ページ目

ニセモノが本物に

鎌倉殿のニセモノの髑髏が本物の証となる件,

どうやら三谷幸喜氏のニセモノが演じているうちにやがて本物になってしまうという生涯テーマの一つらしい。

演劇の世界では、人がこんなふうに変わっていくのはよくあることなのだろう。思い込みが価値を作っていく。

それは、本人だけのことではなく、多分に観客に当てはまることで、ある閾値を超えると信用というのは爆発的に伸びる。

テスラの株価とか仮想通貨とかもその例にもれずなのだが、ニセモノが本物になったときに換金してしまうことができるのが、モノのもつ特徴で、人はずっとそのままなので化けの皮がはがれたらそこで終わり。逃げどきがないので、ずっと逃げ続けるしかないからこその浅田彰の逃走論というライフハックとなるんだろう。

とはいえ、逃げる資金として、信用の換金をどこかでする必要があるわけで、換金したあと、それがただの葉っぱだとわかれば、やはり叩かれる。いまどきの逃走論では、業績が落ちないままで他者に託せてしまえば、その人の信用も落ちないから、生きながらえられるという策も書き添えておく必要があろう。

かねもうけ その2

好奇心というのは、無知と無謀の別名かもしれない。

 

無知だからこその好奇心。

好奇心からの無謀。

 

自分の好きなことというのは、好奇心が働く。

だからこそ、一線を超えられる。

好きなことをやりなさいとの最近のトレンド。

 

そして失敗したら逃走する。

逃げるは恥だが役に立つ。

逃走論。

キャチ・ミー・イフ・ユー・キャン。

軽やかに。

 

好奇心と逃走論。

ホリエモンもヒロユキもガーシーも前澤友作も逃走した。

イーロンマスクと三木谷浩史も逃走しながら財をなす。

かねもうけ

仮想経済の実態経済への影響。

 

もともと、株式や国債、仮想通貨などは実体を伴わないもの。

お金だって実際は国の信用によって成り立っているのだが、信用とは人の数でなりたつところがある。

仮想通貨の場合は、それをマイニングし、運用する技術だが、技術が破綻すればもろい。

 

これらは、すべて仮想であるが、仮想は実体に対して椅子取りゲームの場を提供する。

あるいは、てこの原理を使って、実体経済を回すための虚構のゲーム場である。

 

人間の脳も仮想は得意だ。

仮想することによって、頭の中でシミュレーションを行い、それを実際のものに落とし込む。

一人ひとりにその仮想装置は備わっている。

 

海外との貿易によって、財をなす。

海外の製品やサービスが、その国の人の欲するところであって自国に同様のものがない。

逆に日本の製品やサービスが、その国の人の欲するところであってその国に同様のものがない。

そういう場合、ふっかけたモノ勝ちである。

 

これらのすべてに共通する重要なものは情報だ。

したがって、広告というのは金になる。

情報は信用の上位概念なのか。あるいは下部なのか。

いずれにせよ、信用と情報は同時に存在しないと成り立たない。

いわさきちひろ展

デッサンで、線を自在に、しかも早く描ける人しか水彩画は向かないのだろう。

夫の松本善明氏がちひろの絵を描く様子を語った言葉がキャプションにあったが、一心に早く自在に描く、しかも一番絵になる形を選んでいると。

エゴン・シーレもそうなのだけれど、デッサンの鉛筆の線がくねくねしているのに迷いがなく、一筆で一息に描いているように見える。ごまかしがない。

こういう人には油絵はあわないのだろうなと、一応三重出身の中谷泰を油絵の師匠

として、彼の作品も併せて展示されているが、あまり共通点がないように感じた。共産党は戦争のない世界を作ると信じていたからのつながりだったのかもしれないが、いろいろなものを吸収していく過程でであった一人でしかなかったのかもしれないとふと思った。ちひろが描いた雪山と山荘の油絵があったが、あまりに雪が厚ぼったく、自身の水彩の絵とは相いれなさそうに思えた。そういえば、昭和の雪山の雪は厚ぼったかった。

ダリアの絵が油絵としてはかろうじて今の絵に通じているように思える。花瓶がパッチワークのような絵具の使い方で、このあたりはその後の水彩の絵の片りんのように思える。

 

結局、このひとはどんな人なんだろうという方向へ興味が向いてしまうのはみな同じなようで、

 

人と美術というのは切り離して考えられない。

#Midjourney との差分はたぶんそこへ向かうのだろうけど、これからの時代いわさきちひろの絵も水彩画の劣化の関係でピエゾグラフで残っていかざるをえないらしく。美術もその存在の足掛かりが問われる時代になってきているのかもしれない。

 

理解というのは大きな誤解であり愛情でもある。

「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」というのは村上春樹氏の言葉と以前に書いた。

 

私といふ人間を一番理解してゐるのは、母親だと私は信じてゐる。母親が一番私を愛してゐるからだ。愛してゐるから私の性格を分析してみる事が無用なのだ。私の行動が辿れない事を少しも悲しまない。悲しまないから決してあやまたない。私といふ子供は「あゝいふ奴だ」と思つてゐるのである。世にこれ程見事な理解といふものは考へられない。

 

というのは小林秀雄の言葉だ。見事な誤解であるが、「理解というものは常に誤解の総体に過ぎない」という春樹氏の言葉とつながっている。理解と呼ばれるものの本質は愛情なのだと言われれば、今ではああそうかもしれないと思う。

 

ノルウェイの森 を読んでいる。

 

「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない」

すでにこの作品からそれは始まっていたことに気付く。

はじめて読んだのは社会人1年目のことだったのだが、正直まったく意味がわからなかった。

いま、英語で読むとよくわかるという経験をしている。

情景描写がなぜか日本語よりよく体の中に入ってくる。

日本語で読んだのに覚えていない箇所が多くある。

むしろそのことに驚く。

日本語だとわかった気になるのだろうか。

 

ちょうど、京都の山の中にあるアミホステルに入ったところ。

いま、気付いたがアミというのはフランス語だ。