日記
朝 米を4袋(2俵)を取りに来る方が見えたので用意。
昼前 オヤジが田起こしした田で石拾い。新しく請け負った田。大きな石があると、耕起のときにトラクタの爪が悪くなりやすいのもあるが、田植えの時に田植え機の爪が曲がってダメになる。
昼 サオリーナでプール。良い天気だが昼時だからか人は少ない。昼前までは、津高の練習があったらしいが、入ったときにはもういなかった。2000メートル(500fr up,500bk pull, 50pull50kick×5、50pull×5 1min, 250down bt+br+fr)
昼過ぎ、5/3のHACK FINNのnoodles onemanチケットをローソンで買おうと思って、サイトをみたら延期。なぜか縁がないバンドというのはあって。時期が合えば会えるのだろうけれど、そういうことかも知れない。
図書館で4冊予約した本を取りに。その中にクオリア再構築(島田雅彦、茂木健一郎)。島田氏の本は初めてだが、まえがきの口上がすでに古い。「20世紀の終わりごろから、仕事のほとんどは1台のPC上で行うようになってきた」とか「電脳経済は世界恐慌の原因に、電脳政治は世論の単純化、批評の衰退をもたらし、衆愚政治や集団ヒステリーを強化した」とか。いつの時代だよと思い、奥付見たら2009年6月30日第1刷発行と。もうこのころの本には意味がない。
考えてみたら、2010年がら2011年くらい、東北大震災くらいの時期が分水嶺になっていて。
2008年、世界初のスマートフォン「iPhone3G」が発売され、スマホが普通になった原因のLINEは2011年6月23日にサービスを開始している。WIFIは、2013年1.3万箇所だったのが2014年3月に90万箇所と一気に増えたらしい。
世間の様相は2010年くらいでスマホに変わり、2020年にコロナでマスクになった。
おそらく2030年には今と全く世相が変わっているだろうけれど、2025年くらいには何かもうすでに起こってるかもしれない。
情報と美と出会い
以前から、歴史的に有名な絵を見ている(あるいは見させられる)ときに、当時の風俗が描かれていることと、純粋に美しいと思えることとは違うのではという疑念が心の中に明文化されずにあったのだけれど、今日やっぱり、「【ドラマ25】鉄オタ道子、2万キロ」を見ていて、あーそういうことかとどこかで腑に落ちた。
情報の価値とか、希少性とか、費やした時間とか、いろいろなものが美として加算されていく。それはもちろんありな話なのだろうけれど、人が何かを美術とか芸術として評価するとき、あるいは情緒に溺れすぎているとか、デザインにはまり過ぎているとか、伝統に依存し過ぎていて新しいものが見えないだとか。そう言うことはあるのだけれど、そういう評価とは別で、情報をありがたがっている節が自分の中にある。
モナリザだから見たいとかピカソだから価値があるとか。
そういう一般的に得られる情報というのと道子が写した写真というのはどこか相似なものがあるように思えた。
孤独のグルメにも共通してあったのだけれど、それは柳宗悦とかウィリアム・モリスのアーツアンドクラフツなんかとは違うし、モダンでも、ポストモダンでも、大衆文化でもないし、なんというかカルチャーですらない何かで。1980とか1990年代以降に文化と呼ばれるものはあったのだろうかと思うとちょっとどうなんだろうと。
出会いというものと情報というものの線引きがますますできなくなってきた。あるいは出会いの価値と情報の価値の線引きというか。そんな時代になってきた。個人的なものと、一般的なもの。生活はそのどちらにも重なっている。
情報というのは美を壊してしまうのだ。印象派以降は実はそういうことだったのかもしれない、視覚混合だとか認知心理だとか。もうすでにそのときから美は壊れていたのだろうか。科学が宗教を壊したように、情報は美の概念を壊してしまったのかもと。あるいは汚染もしくはコンタミ。そんなことをふと思った。
モノそれ自身と対峙するときに、美が現れる、あるいは、感動が生まれる。
それは不意打ちにでしか訪れない。
それは、ちょうどこの第十話でも最後のほうに訪れるのだが、一人でだけだと感じれないこともある。
出会いのみが情報を超越する。
つながる脳科学
脳が情報をコード化するときはニューロンの発火率・発火頻度を用いているのですが…
と簡単にかいてあるのだけれど、発火率とか発火頻度というのは適切な時計がないとコード化できないし、逆にアンコードできないということになる。すなわち、脳にクロック数があってそれによって、データがコード化される。
また、発火タイミングによる情報の圧縮についても、ふつうに書かれていて。
これって圧縮された場所細胞のデータを展開して読み取るときに、別のプログラムがあってそれが空間認識のためのプログラムで、別系で処理されると読める。
たぶん逆順のリプレイの際にそれが記憶として残るだけでなく、空間マッピングとして過去の情報に付加される。のだろうか。
もはやこれだけでも、いまのコンピューターとは全く違う記憶方式であり(時間を使っている点)、その記録についてもフィードバッグによる強化で不要なあるいはゆらぎのようなものも切り捨てているような気がする。なんか、脳科学ってやばい。
数理モデルでニューロン回路を設計するのか、ニワトリが先か
コンピュータの入力は、ハードディスクからだったり、キーボードだったりするのだが、タイムシェアリングでそれらを入力値として制御するそれぞれのプログラムにコントロールが渡って、メモリ上に展開されたプログラムにしたがって、レジスタなりPSWなりに展開されたデータをCPUが処理していくわけであるが、その処理速度はCPUのクロック周波数による。マルチコアだったり、マルチスレッドなりで見かけ上のタスクの処理は複数倍になるだろうけれど、そのあたりはとりあえず置いておく。
人間の脳の周波数は、生き物としてのそれにより定まるだろうからそうそう変わるわけはなかろうと考えると、複数のプログラムの連携の仕方で、直観的なものが出てくる人が天才で、連携の悪い人が凡人となるのだろうか。
というか、そういう話ではなく、コンピュータのプログラムは結局2進法に従ったプログラムコードであって、そしてハードディスクにしろ、キーボードにしろ入力されるデータも2進法のオンオフデータでしかないのだが、それらがビット毎にあるいはプログラム毎にそれぞれ流れに従って処理されていくわけであるが、しょせんタイムシェアリングで、別々の処理を行っているプログラムがウォーターフォール的に流れているだけ。脳の場合は、脳のいろんな場所で同時に発火が起こり、それらの発火パターンや発火タイミングの周期のずれやスピードの違いによって意識にそれらが上がる前にすでに勝手に体の処理が決定されている。なんていう話であれば、まったくこれまでのアーキテクチャと異なるコンピュータが作れる可能性があるのではないか。だとするといまのAIなんて、AIですらない子供だましレベルのものであって、シンギュラリティもへったくれも、…。
なんてことを考えてしまった。それ以外にもいろいろなことを考えたが、この本、前半は示唆に富むのだが、後半はある種カントの実践理性批判以降のごとしで失速。
自分の適正を知るということ
小学生の算数の文章題。
文章をそのままの形でおいておくのではなく、図に落とし込む。
「えいこさんとあきおくんがそれぞれの家から郵便局へ向かいました」と書かれていたら、直線を書いてそれぞれの端に家を書き、真ん中にポストの絵を描く。
問題が起こった場合、それを図にする。表にする。数値を書き入れる。
図は、それぞれの問題に応じて、線だったり、構成図だったり、遷移図だったり。あるいは立体におこしてみたり。表は線表だったり、テーブルだったり、グラフだったり。
あるいは、そうして出来た表と図を組み合わせてみたり。
その方法を小学校で教えるわけで、図とか表の使い方だけではなく、どうやってそこに落とし込むか、あるいは、どの部品を使うか。
しかし、一番の問題は、「よーし、面白い、ちょっとやらせろ!」という意識を持たせることで。でもそれは、一朝一夕にはできない。それを育てる良い方法は、部品や公式を教えることではなくて、一緒に問題を解いていくことだったり、問題を解いて説明したあと自分にやらせるとか、やらせたあと説明させるとか。
自己中な人間は、生徒にやらせることができない。
待つことができない人間は、教育者には向かない。
生徒が問題を解く過程で、彼らや彼女たち自身が、自分自身で発見をする。エウレカ!!というやつ。あるいは、人に説明をする過程であらたに何かを発見する、あるいは、解いていてわからなかったけど、自分の口で説明してて、はじめて腑に落ちることもある。そこにもエウレカっていう興奮がある。実はその瞬間を見るときがこっちも一番うれしい。
その発見の喜びがそれぞれの心に定着していけば、おそらく、大人になったとき、ちょっと俺にやらせろ!ってなる。難しそうな問題に対して、前のめりになれないものを仕事にすると、自分も不幸だし、周りも不幸になる。教育者がどうこうというより、管理者というのもそういうものだろう。


