ハルキストの仮面を脱ぐとき
村上春樹の長編と短編には、同じ構成をもつものがたびたび現れる。
倉橋由美子の『偏愛文学館』にジュリアン・グラックの『アルゴールの城にて』についての書評がある。
『アルゴールの城』、能との比較がされているのだが、これらは同じ構造を持っていると。
すなわち、現実の世界に住む主人公は、まずある別の世界へ旅をして、そこに到着しなければならない。
これは能も同じで、たとえば旅の僧が鬼や女神や亡霊が住んでいる別世界に到着する。
そしてその別の世界で主人公が行動(それは喜劇的な行動や愚行であってもいいのだが)することによって、その世界に内蔵されていた何かが動き出し、物語が展開していく。能で言えばこのドラマを発動させる主人公がワキである。狂って舞ったりするシテは、その別の世界の存在で、神や亡霊であってもよい。
そんなふうに分析されているのだが、この構成は村上春樹の小説のあらゆるところに形をかえて出てくる。
主人公であるハルキ氏はすでになにかが損なわれている。
なぜ損なわれたのかがわからない。どこでボタンの掛け違いをしたのか。あるいは誰かが。。
その結果彼のなかのなにものかが不可逆的に損なわれてしまっている。
そこに現れる現実のほころび。その糸にたぐりよせられるように、あるいは自分のなかの欠けたなにかに呼ばれるようにして、あるいは路地をぬけ、あるいは電車にのり、あるいは車である場所へ行く。
出会うのはびっこをひく女のコだったり、ねずみだったり。あるいは、それらの影だったり、ふたごだったり。すべて彼がうしなったものと結びついている。
その場所では、あるいは、そこへいく前には、彼は眠かったり、あたまの芯がぼやけていたりする症状があらわれる。あるいはまったく眠れない。別の世界だから。あるいはすでに眠っているから。
損なわれた世界から戻るときに失敗することもある。そういうときには、そこの世界に閉じ込められる。まるで夢の中にいる自分が置き去りにされたように。
失敗しなくても、置き去りにされるものはある。
失ったものは取り返せない。なにがしかの喪失感を自覚して物語は終わる。
彼はなぜ損なわれたのかがわからない。親密なときは消えてしまった。なにかのバランスが崩れるとき。その理由が知りたい。あるいはその過程がみたいのである。
彼のもうひとつ別のタイプの物語はそういうなにものかが損なわれる過程を書いた話である。
『象の消滅』、『レーダーホーゼン』、『納屋を焼く』…。
それでもなにかは損なわれる。混乱した彼はシャツに工程をつけてその順にアイロンをかける。象工場で工程ごとに象を組み立てる。物事を数値化してみる。度合いをはかる。納屋を調べて記録につける。
100%の彼女と100%のボクが損なわれないように。
いずれにしても、十全だった彼が失ったなにものかを取り戻すことはない。マイナスの物語。あるいはマイナスであることを自覚することによって、平衡を取り戻そうという試み。
彼の小説がどこかティーンエイジャーな香りがするのはその物語のベクトルのためだったりする。
彼はいったい10代でなにを失ったのだろう。
たぶんそのなにものかというのが、ハルキ好きな読者との共通の…
ずいぶん昔から、あるいは村上春樹の本を手に取ったときからすでに、自分はそういう喪失感を持ってはいないことに無意識の中では気づいていた。なので、最初っからハルキストの仮面をかぶったままずっと読み続けていた。今、ようやくそれに気づいた。仮面をかぶってまで知りたかったのは、ハルキ氏そのものだったのかも知れない。あるいは村上春樹という現象。
彼が「あの世」で出会うものは、アニマであれ、アニムスであれ、幽霊であれ、小人であれ、それらはすべて彼のドッペルゲンガーである。われわれが夢の中で出会うものがわれわれ自身の影でしかないように。たとえそれが神や亡霊であっても。
村上春樹は夢をみないという。いろいろなエッセイで彼が書いているように。
もうすでにいろんな意味で読めなくなってしまったようだ。
自分が喪失感を持っていないことに気づいてしまった、持てないことを知ってしまったから。あるいはそのなぞを知ってしまったから。
ただ、そのようにしてしか生きていけないことははじめから自明だった。
いつか読めなくなることも。
知ること、そして知ることによって失うことなど最初からどこがで肯定してしまっている。
そんなこともすでにわかってしまってはもはや読みようなどない。
どうやら完全に彼の小説を読む資格を失ったのかもしれない。
エッセイだけは、でも読み続けたいなあ。
現実の彼はまだそちらにいると思いたい。
倉橋由美子の『偏愛文学館』にジュリアン・グラックの『アルゴールの城にて』についての書評がある。
『アルゴールの城』、能との比較がされているのだが、これらは同じ構造を持っていると。
すなわち、現実の世界に住む主人公は、まずある別の世界へ旅をして、そこに到着しなければならない。
これは能も同じで、たとえば旅の僧が鬼や女神や亡霊が住んでいる別世界に到着する。
そしてその別の世界で主人公が行動(それは喜劇的な行動や愚行であってもいいのだが)することによって、その世界に内蔵されていた何かが動き出し、物語が展開していく。能で言えばこのドラマを発動させる主人公がワキである。狂って舞ったりするシテは、その別の世界の存在で、神や亡霊であってもよい。
そんなふうに分析されているのだが、この構成は村上春樹の小説のあらゆるところに形をかえて出てくる。
主人公であるハルキ氏はすでになにかが損なわれている。
なぜ損なわれたのかがわからない。どこでボタンの掛け違いをしたのか。あるいは誰かが。。
その結果彼のなかのなにものかが不可逆的に損なわれてしまっている。
そこに現れる現実のほころび。その糸にたぐりよせられるように、あるいは自分のなかの欠けたなにかに呼ばれるようにして、あるいは路地をぬけ、あるいは電車にのり、あるいは車である場所へ行く。
出会うのはびっこをひく女のコだったり、ねずみだったり。あるいは、それらの影だったり、ふたごだったり。すべて彼がうしなったものと結びついている。
その場所では、あるいは、そこへいく前には、彼は眠かったり、あたまの芯がぼやけていたりする症状があらわれる。あるいはまったく眠れない。別の世界だから。あるいはすでに眠っているから。
損なわれた世界から戻るときに失敗することもある。そういうときには、そこの世界に閉じ込められる。まるで夢の中にいる自分が置き去りにされたように。
失敗しなくても、置き去りにされるものはある。
失ったものは取り返せない。なにがしかの喪失感を自覚して物語は終わる。
彼はなぜ損なわれたのかがわからない。親密なときは消えてしまった。なにかのバランスが崩れるとき。その理由が知りたい。あるいはその過程がみたいのである。
彼のもうひとつ別のタイプの物語はそういうなにものかが損なわれる過程を書いた話である。
『象の消滅』、『レーダーホーゼン』、『納屋を焼く』…。
それでもなにかは損なわれる。混乱した彼はシャツに工程をつけてその順にアイロンをかける。象工場で工程ごとに象を組み立てる。物事を数値化してみる。度合いをはかる。納屋を調べて記録につける。
100%の彼女と100%のボクが損なわれないように。
いずれにしても、十全だった彼が失ったなにものかを取り戻すことはない。マイナスの物語。あるいはマイナスであることを自覚することによって、平衡を取り戻そうという試み。
彼の小説がどこかティーンエイジャーな香りがするのはその物語のベクトルのためだったりする。
彼はいったい10代でなにを失ったのだろう。
たぶんそのなにものかというのが、ハルキ好きな読者との共通の…
ずいぶん昔から、あるいは村上春樹の本を手に取ったときからすでに、自分はそういう喪失感を持ってはいないことに無意識の中では気づいていた。なので、最初っからハルキストの仮面をかぶったままずっと読み続けていた。今、ようやくそれに気づいた。仮面をかぶってまで知りたかったのは、ハルキ氏そのものだったのかも知れない。あるいは村上春樹という現象。
彼が「あの世」で出会うものは、アニマであれ、アニムスであれ、幽霊であれ、小人であれ、それらはすべて彼のドッペルゲンガーである。われわれが夢の中で出会うものがわれわれ自身の影でしかないように。たとえそれが神や亡霊であっても。
村上春樹は夢をみないという。いろいろなエッセイで彼が書いているように。
もうすでにいろんな意味で読めなくなってしまったようだ。
自分が喪失感を持っていないことに気づいてしまった、持てないことを知ってしまったから。あるいはそのなぞを知ってしまったから。
ただ、そのようにしてしか生きていけないことははじめから自明だった。
いつか読めなくなることも。
知ること、そして知ることによって失うことなど最初からどこがで肯定してしまっている。
そんなこともすでにわかってしまってはもはや読みようなどない。
どうやら完全に彼の小説を読む資格を失ったのかもしれない。
エッセイだけは、でも読み続けたいなあ。
現実の彼はまだそちらにいると思いたい。
午後の最後の芝生
肉体の年齢と精神の年齢というものは、ちぐはぐなものだと昨日のK1を見て思った。
暴風のような体を持った若者がタクティクスに敗れることもあれば、老練なファイターがその暴風にあとかたもなくなぎ倒される。
肉体のピークと精神のピークのはざまなどはたぶんない。あるのはただその体の事実だけなのだろう。
そういくら納得させても、無条件な彼らの体が発するエネルギーというものに翻弄される。
裏にかくれた気の遠くなるような練習に思いをはせたとしても、それはもって生まれた体という事実に跳ね返されるのだが。それでも、なお…
やれやれ、やはり、ぐったりした子猫を何匹か積み重ねたようになってしまう。
オーケー、そういうことだ。

村上春樹づいている。『午後の最後の芝生』。
芝生を丁寧に刈るというその行為が崇高にみえた。それは読み直した今もかわらない。
実は彼の行為はその家でみたティーンエージャーの部屋とどこか相似だったりする。きれいに整えられている。趣味も悪くない。とくに人目につくというわけではないけれど、とても感じがいい。
でも、問題は…彼女がいろんなものになじめないことです。自分の体やら、自分の考えていることやら、自分の求めていることやら、他人が要求していることやら…そんなことにです。
ディスクオリフェィケーションをくらったときのバタ・ハリの表情、そのときのレミーが浮かべた涙。
だれも自分になじめるものなどおそらくいない。それがもしかしたら生命の真実なのか。
いや、そんな達観したものではないだろう。言葉ではなにもつかめない。つかめる筈などない。
でもそれでも戦う前に見た彼らの体や精神は事実だったと、それに魅せられた自分を疑う必要はないとそんなふうにも思うのである。
午後の最後の芝生は輝いていた。そんなふうに思いたい。
「象の消滅」 短篇選集 1980-1991/村上 春樹

¥1,365
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暴風のような体を持った若者がタクティクスに敗れることもあれば、老練なファイターがその暴風にあとかたもなくなぎ倒される。
肉体のピークと精神のピークのはざまなどはたぶんない。あるのはただその体の事実だけなのだろう。
そういくら納得させても、無条件な彼らの体が発するエネルギーというものに翻弄される。
裏にかくれた気の遠くなるような練習に思いをはせたとしても、それはもって生まれた体という事実に跳ね返されるのだが。それでも、なお…
やれやれ、やはり、ぐったりした子猫を何匹か積み重ねたようになってしまう。
オーケー、そういうことだ。

村上春樹づいている。『午後の最後の芝生』。
芝生を丁寧に刈るというその行為が崇高にみえた。それは読み直した今もかわらない。
実は彼の行為はその家でみたティーンエージャーの部屋とどこか相似だったりする。きれいに整えられている。趣味も悪くない。とくに人目につくというわけではないけれど、とても感じがいい。
でも、問題は…彼女がいろんなものになじめないことです。自分の体やら、自分の考えていることやら、自分の求めていることやら、他人が要求していることやら…そんなことにです。
ディスクオリフェィケーションをくらったときのバタ・ハリの表情、そのときのレミーが浮かべた涙。
だれも自分になじめるものなどおそらくいない。それがもしかしたら生命の真実なのか。
いや、そんな達観したものではないだろう。言葉ではなにもつかめない。つかめる筈などない。
でもそれでも戦う前に見た彼らの体や精神は事実だったと、それに魅せられた自分を疑う必要はないとそんなふうにも思うのである。
午後の最後の芝生は輝いていた。そんなふうに思いたい。
「象の消滅」 短篇選集 1980-1991/村上 春樹

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コールスロー
「中国行きの貨物船(スロウ・ボート)に」という古い唄の引用で始まる『中国行きのスロウ・ボート』
中国で日本語を教えている知人の日記をみていた。
そのコは今日学校の守衛のおじさんに「えっ?あなた日本人だったの?」とたいそう驚かれ、それから10分くらいずっと会う人を掴まえては「このコ、日本人だったんだって、知ってた?」と言われ続けたらしい(笑)
そういう話を読んでいて、ふと思い出して読み直してみたのである。
冒頭の句で思い出した。
「そういやコールスローサラダのコールスローってどういう意味なんだ?」
大学時代におもっていた疑問である。
ゆっくり凍らす?腹が冷える?食べて腹が冷えるのはかなんなー。
大学は神戸にあった。そのとき住んでいたのは芦屋市。
学食の裏手にある大学生協の本屋で平積みしてあった『羊をめぐる冒険』を手に取ったのが村上春樹との最初の出会いである。たしか、英訳版も出ていたのであとで買った覚えがある。
学食の裏手で買ったので、村上春樹の本にはどうも学食のイメージがついている。
昼下がりの太陽の白い光が充満している学食。
そこで本を読んだ覚えなどないのだが。
それでなのかどうなのかはわからないのだが、同じように『中国行きのスロウ・ボート』を読み始めると、なぜだかコールスローサラダを思い出す。
まったく意味などない。
だが、ある本を読みなおしているとその本を読んだとき、読んだ時代へタイムスリップしてしまうことがある。
コールスロー、結局意味もわからないまま、学食でなにかのつけ合わせにでてきたら食べていた。
Wikipediaによると、「コールスロー (英 coleslaw) は、サラダの一種で細かく切ったキャベツを使ったサラダ」だそうだ。「ニンジンが入っていることも多い。」そうニンジンも入っていた。
「英語の「コールスロー (cole slaw)」という名前は18世紀ごろにオランダ語の "koolsalade" (キャベツサラダ) を短縮した「コールスラ (koolsla)」から生まれたものだが、1860年ごろまでのアメリカ合衆国とイギリスでは誤って "cold slaw"(冷たいスロー)と呼ばれており、ホットスローという温サラダが作られることもあった。しかし英語の "cole" には本来ラテン語から派生したキャベツの意味があり、これはまたオランダ語 kool の語源ともなっているが、その後 "cole" の意味が復活して英語でも coleslaw と呼ばれるようになった。」
おお、そういう意味なのか。オランダから来て言い間違えられるものは日本だけでなくどこの国にもあるらしい。
誤謬…誤謬というのはあの中国人の女子大生が言ったように(あるいは精神分析医の言うように)結局は逆説的な欲望であるのかもしれない。
村上春樹は『中国行きのスロウ・ボート』の中で書いている。
果たして村上春樹はこの短編の冒頭に入れた唄を最初聞いたときに「スロウ」という言葉で意識したのはなんだったのだろう。
友よ、中国はあまりに遠い。
はたして、何年かたって彼女がこの守衛さんを思い出すときにはどんなことを思い出すのだろう。
あるいは守衛さんのほうが彼女を思い出すとき、どんなことを思い出すのだろう。
そんなことをふと思った。
中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)/村上 春樹

¥600
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中国で日本語を教えている知人の日記をみていた。
そのコは今日学校の守衛のおじさんに「えっ?あなた日本人だったの?」とたいそう驚かれ、それから10分くらいずっと会う人を掴まえては「このコ、日本人だったんだって、知ってた?」と言われ続けたらしい(笑)
そういう話を読んでいて、ふと思い出して読み直してみたのである。
冒頭の句で思い出した。
「そういやコールスローサラダのコールスローってどういう意味なんだ?」
大学時代におもっていた疑問である。
ゆっくり凍らす?腹が冷える?食べて腹が冷えるのはかなんなー。
大学は神戸にあった。そのとき住んでいたのは芦屋市。
学食の裏手にある大学生協の本屋で平積みしてあった『羊をめぐる冒険』を手に取ったのが村上春樹との最初の出会いである。たしか、英訳版も出ていたのであとで買った覚えがある。
学食の裏手で買ったので、村上春樹の本にはどうも学食のイメージがついている。
昼下がりの太陽の白い光が充満している学食。
そこで本を読んだ覚えなどないのだが。
それでなのかどうなのかはわからないのだが、同じように『中国行きのスロウ・ボート』を読み始めると、なぜだかコールスローサラダを思い出す。
まったく意味などない。
だが、ある本を読みなおしているとその本を読んだとき、読んだ時代へタイムスリップしてしまうことがある。
コールスロー、結局意味もわからないまま、学食でなにかのつけ合わせにでてきたら食べていた。
Wikipediaによると、「コールスロー (英 coleslaw) は、サラダの一種で細かく切ったキャベツを使ったサラダ」だそうだ。「ニンジンが入っていることも多い。」そうニンジンも入っていた。
「英語の「コールスロー (cole slaw)」という名前は18世紀ごろにオランダ語の "koolsalade" (キャベツサラダ) を短縮した「コールスラ (koolsla)」から生まれたものだが、1860年ごろまでのアメリカ合衆国とイギリスでは誤って "cold slaw"(冷たいスロー)と呼ばれており、ホットスローという温サラダが作られることもあった。しかし英語の "cole" には本来ラテン語から派生したキャベツの意味があり、これはまたオランダ語 kool の語源ともなっているが、その後 "cole" の意味が復活して英語でも coleslaw と呼ばれるようになった。」
おお、そういう意味なのか。オランダから来て言い間違えられるものは日本だけでなくどこの国にもあるらしい。
誤謬…誤謬というのはあの中国人の女子大生が言ったように(あるいは精神分析医の言うように)結局は逆説的な欲望であるのかもしれない。
村上春樹は『中国行きのスロウ・ボート』の中で書いている。
果たして村上春樹はこの短編の冒頭に入れた唄を最初聞いたときに「スロウ」という言葉で意識したのはなんだったのだろう。
友よ、中国はあまりに遠い。
はたして、何年かたって彼女がこの守衛さんを思い出すときにはどんなことを思い出すのだろう。
あるいは守衛さんのほうが彼女を思い出すとき、どんなことを思い出すのだろう。
そんなことをふと思った。
中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)/村上 春樹

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マヨネーズが腐るほど恋したい
井本直歩子さんの家にマヨネーズが届いたそうで、めでたい。
スリランカではマヨネーズ売っていないのだろうか。
そういや、インドでも売っているのを見たことがなかった。
基本、賞味期限という概念がない。
まあ、なんとなく想像するに、油が分離してしまうような気もする。暑いし。
油が分離したマヨネーズ、店頭に並べられても困りものである。インドなのでなんでもありだが。
スリランカ、サランラップというのもないらしく。。サランラップはどうだったっけなあ。
このあたりインドで料理などしなかったので、ただ単に見てなかっただけかもしれない。
というか、自炊しようと思って、赴任して最初の週末にフードワールドというスーパーに行ったのだが、もう置いてある品物がまったく異次元の世界。どう料理すればいいのかがわからない。
ヒヨコ豆やらなんちゃら豆やらがドーン、ドーンと並んでいて、スパイスとかも置いてあるのだが、もう何がなにやら、どうやって使うのやらが皆目見当すらつかない。
南インド、ベジの人がおおいので、肉も置いてない。
クックドゥ的なモノもなければ、ハウスカレーもジャワカレーもない。あたりまえだが。
なので即日あきらめてしまったのである。
そういや、酒も置いてない。
インドで酒を飲む人は、ベジでない人と同じくちょっと疎んじられる。さげずまれる。
今はどうなのかわからないのだが、4、5年前だと酒を売ってるところを見つけること自体まれだった。
まあ、住んでいるといろいろそういうところもわかってくるのだけれど。
バンガロール、MGロードにあるフードワールドにはめずらしくお酒コーナーがあった。
日本人の家族連れが日曜日買いだしに来ていた。おとうさんとおかあさんと子供たち。トヨタの工場があったのでそこに長期出張で来ていた家族なのかもしれない
おとうさんがお酒コーナーを見つけた。目の色がかわった。もう夢中である。子供が「おとうさん!おとうさん!」と甘えてきても「あー、うーん」とか生返事。おとうさんも会社でいろいろあって酒でも飲まないとやってられないのである。
その光景をみてちょっと笑ってしまった。
なかなか住んでみないといろんなことがわかってこない。また、逆にいえば生活してみないとおもしろさもわかってこない。もちろん、いろいろ不便で、かんべんしてくれ~ってことばっかしなのだけれど。
あー、どっかに住みたい。
今日のお題、「マヨネーズが腐るほど恋したい」。
まったく意味はない。
ちょっと書いてみたかっただけである。
スリランカではマヨネーズ売っていないのだろうか。
そういや、インドでも売っているのを見たことがなかった。
基本、賞味期限という概念がない。
まあ、なんとなく想像するに、油が分離してしまうような気もする。暑いし。
油が分離したマヨネーズ、店頭に並べられても困りものである。インドなのでなんでもありだが。
スリランカ、サランラップというのもないらしく。。サランラップはどうだったっけなあ。
このあたりインドで料理などしなかったので、ただ単に見てなかっただけかもしれない。
というか、自炊しようと思って、赴任して最初の週末にフードワールドというスーパーに行ったのだが、もう置いてある品物がまったく異次元の世界。どう料理すればいいのかがわからない。
ヒヨコ豆やらなんちゃら豆やらがドーン、ドーンと並んでいて、スパイスとかも置いてあるのだが、もう何がなにやら、どうやって使うのやらが皆目見当すらつかない。
南インド、ベジの人がおおいので、肉も置いてない。
クックドゥ的なモノもなければ、ハウスカレーもジャワカレーもない。あたりまえだが。
なので即日あきらめてしまったのである。
そういや、酒も置いてない。
インドで酒を飲む人は、ベジでない人と同じくちょっと疎んじられる。さげずまれる。
今はどうなのかわからないのだが、4、5年前だと酒を売ってるところを見つけること自体まれだった。
まあ、住んでいるといろいろそういうところもわかってくるのだけれど。
バンガロール、MGロードにあるフードワールドにはめずらしくお酒コーナーがあった。
日本人の家族連れが日曜日買いだしに来ていた。おとうさんとおかあさんと子供たち。トヨタの工場があったのでそこに長期出張で来ていた家族なのかもしれない
おとうさんがお酒コーナーを見つけた。目の色がかわった。もう夢中である。子供が「おとうさん!おとうさん!」と甘えてきても「あー、うーん」とか生返事。おとうさんも会社でいろいろあって酒でも飲まないとやってられないのである。
その光景をみてちょっと笑ってしまった。
なかなか住んでみないといろんなことがわかってこない。また、逆にいえば生活してみないとおもしろさもわかってこない。もちろん、いろいろ不便で、かんべんしてくれ~ってことばっかしなのだけれど。
あー、どっかに住みたい。
今日のお題、「マヨネーズが腐るほど恋したい」。
まったく意味はない。
ちょっと書いてみたかっただけである。
ベトナムのおまけ写真 その2
写真って見直してるといろいろ気づくことがある。
なんかひっかかるものが目に入ると反射的に写真に撮ってたので、あとでそーいうものを見直したときに、何にひっかかってたかに気づくのだけれど。
とはいえ、たいてい見直してても「なんじゃこりゃ?なんでこんなの撮ったんだ?」とそのまま終わるガラクタが大半なのだが。。
うそ。ただ、ブログの埋め草を探して写真を漁っていただけである。。
で、ベトナムの信号。

よく日本だと、横断歩道側に「あと何秒です」的な時間表示があるのだが、ハノイの信号は車道側についていた。
横断歩道側にあるのは、なんとなくだが歩行者にやさしいような気がする。
車道側にある時間表示は、これはもうかんぜん歩行者無視で、スタートダッシュの殺人レースな感じである。
赤信号で、みなスターティンググリッドに並ぶ。
もうみな血走った目で時間をにらんでいる。

うそ。
普通に待っている。あ、ベスパ乗ってる人いっぱいいるじゃん!今気づいた。
このブログ、うそばっかしやんけ。わはは。(←反省の色なし)
あ、ぜんぜん関係ないがベトナムの女のコはめがね率が高かった。コンタクトはまだ高くて普及してないのか?
ちなみに横断歩道の信号はこんな感じである。日本のよりかっこいい。

ホーチミンで、どうも日本から供与されたらしい横断歩道の信号をみかけた。

なんか取り付け方もびみょーで。。
「おい、日本から信号送ってきよったぞ。」
「ダサッ!しかも古っ!先輩、これどうやって使うんすか。いまこんなの取り付けられないっすよ」
「日本からわざわざ送ってきとるんや。これをつけんかったら、来年からのODAが減額されるかもしれへんから、絶対取り付けろって上から言われとんねん」
「うわっ、めっさありがた迷惑やわ。かなんなー」
なんていうやりとりがあったのかもしれない。
てきとーに言ってるので信じないように。
でも、飢えで死んでる子供がたくさんいるからあまった米を送るとかいろいろものを贈るのはすばらしいことだと思うけれど、上から目線じゃなく、またハードの部分だけでなく、あとあとのメンテや食べ方・使い方なんていうソフトの部分をふくめてちったあ考えたほうがよさげである。
わっしがえらそーに言うことでもないのだが。。自分も気をつけねば。
なんかひっかかるものが目に入ると反射的に写真に撮ってたので、あとでそーいうものを見直したときに、何にひっかかってたかに気づくのだけれど。
とはいえ、たいてい見直してても「なんじゃこりゃ?なんでこんなの撮ったんだ?」とそのまま終わるガラクタが大半なのだが。。

うそ。ただ、ブログの埋め草を探して写真を漁っていただけである。。

で、ベトナムの信号。

よく日本だと、横断歩道側に「あと何秒です」的な時間表示があるのだが、ハノイの信号は車道側についていた。
横断歩道側にあるのは、なんとなくだが歩行者にやさしいような気がする。
車道側にある時間表示は、これはもうかんぜん歩行者無視で、スタートダッシュの殺人レースな感じである。
赤信号で、みなスターティンググリッドに並ぶ。
もうみな血走った目で時間をにらんでいる。

うそ。
普通に待っている。あ、ベスパ乗ってる人いっぱいいるじゃん!今気づいた。
このブログ、うそばっかしやんけ。わはは。(←反省の色なし)
あ、ぜんぜん関係ないがベトナムの女のコはめがね率が高かった。コンタクトはまだ高くて普及してないのか?
ちなみに横断歩道の信号はこんな感じである。日本のよりかっこいい。

ホーチミンで、どうも日本から供与されたらしい横断歩道の信号をみかけた。

なんか取り付け方もびみょーで。。
「おい、日本から信号送ってきよったぞ。」
「ダサッ!しかも古っ!先輩、これどうやって使うんすか。いまこんなの取り付けられないっすよ」
「日本からわざわざ送ってきとるんや。これをつけんかったら、来年からのODAが減額されるかもしれへんから、絶対取り付けろって上から言われとんねん」
「うわっ、めっさありがた迷惑やわ。かなんなー」
なんていうやりとりがあったのかもしれない。
てきとーに言ってるので信じないように。
でも、飢えで死んでる子供がたくさんいるからあまった米を送るとかいろいろものを贈るのはすばらしいことだと思うけれど、上から目線じゃなく、またハードの部分だけでなく、あとあとのメンテや食べ方・使い方なんていうソフトの部分をふくめてちったあ考えたほうがよさげである。
わっしがえらそーに言うことでもないのだが。。自分も気をつけねば。