ハルキストの仮面を脱ぐとき
村上春樹の長編と短編には、同じ構成をもつものがたびたび現れる。
倉橋由美子の『偏愛文学館』にジュリアン・グラックの『アルゴールの城にて』についての書評がある。
『アルゴールの城』、能との比較がされているのだが、これらは同じ構造を持っていると。
すなわち、現実の世界に住む主人公は、まずある別の世界へ旅をして、そこに到着しなければならない。
これは能も同じで、たとえば旅の僧が鬼や女神や亡霊が住んでいる別世界に到着する。
そしてその別の世界で主人公が行動(それは喜劇的な行動や愚行であってもいいのだが)することによって、その世界に内蔵されていた何かが動き出し、物語が展開していく。能で言えばこのドラマを発動させる主人公がワキである。狂って舞ったりするシテは、その別の世界の存在で、神や亡霊であってもよい。
そんなふうに分析されているのだが、この構成は村上春樹の小説のあらゆるところに形をかえて出てくる。
主人公であるハルキ氏はすでになにかが損なわれている。
なぜ損なわれたのかがわからない。どこでボタンの掛け違いをしたのか。あるいは誰かが。。
その結果彼のなかのなにものかが不可逆的に損なわれてしまっている。
そこに現れる現実のほころび。その糸にたぐりよせられるように、あるいは自分のなかの欠けたなにかに呼ばれるようにして、あるいは路地をぬけ、あるいは電車にのり、あるいは車である場所へ行く。
出会うのはびっこをひく女のコだったり、ねずみだったり。あるいは、それらの影だったり、ふたごだったり。すべて彼がうしなったものと結びついている。
その場所では、あるいは、そこへいく前には、彼は眠かったり、あたまの芯がぼやけていたりする症状があらわれる。あるいはまったく眠れない。別の世界だから。あるいはすでに眠っているから。
損なわれた世界から戻るときに失敗することもある。そういうときには、そこの世界に閉じ込められる。まるで夢の中にいる自分が置き去りにされたように。
失敗しなくても、置き去りにされるものはある。
失ったものは取り返せない。なにがしかの喪失感を自覚して物語は終わる。
彼はなぜ損なわれたのかがわからない。親密なときは消えてしまった。なにかのバランスが崩れるとき。その理由が知りたい。あるいはその過程がみたいのである。
彼のもうひとつ別のタイプの物語はそういうなにものかが損なわれる過程を書いた話である。
『象の消滅』、『レーダーホーゼン』、『納屋を焼く』…。
それでもなにかは損なわれる。混乱した彼はシャツに工程をつけてその順にアイロンをかける。象工場で工程ごとに象を組み立てる。物事を数値化してみる。度合いをはかる。納屋を調べて記録につける。
100%の彼女と100%のボクが損なわれないように。
いずれにしても、十全だった彼が失ったなにものかを取り戻すことはない。マイナスの物語。あるいはマイナスであることを自覚することによって、平衡を取り戻そうという試み。
彼の小説がどこかティーンエイジャーな香りがするのはその物語のベクトルのためだったりする。
彼はいったい10代でなにを失ったのだろう。
たぶんそのなにものかというのが、ハルキ好きな読者との共通の…
ずいぶん昔から、あるいは村上春樹の本を手に取ったときからすでに、自分はそういう喪失感を持ってはいないことに無意識の中では気づいていた。なので、最初っからハルキストの仮面をかぶったままずっと読み続けていた。今、ようやくそれに気づいた。仮面をかぶってまで知りたかったのは、ハルキ氏そのものだったのかも知れない。あるいは村上春樹という現象。
彼が「あの世」で出会うものは、アニマであれ、アニムスであれ、幽霊であれ、小人であれ、それらはすべて彼のドッペルゲンガーである。われわれが夢の中で出会うものがわれわれ自身の影でしかないように。たとえそれが神や亡霊であっても。
村上春樹は夢をみないという。いろいろなエッセイで彼が書いているように。
もうすでにいろんな意味で読めなくなってしまったようだ。
自分が喪失感を持っていないことに気づいてしまった、持てないことを知ってしまったから。あるいはそのなぞを知ってしまったから。
ただ、そのようにしてしか生きていけないことははじめから自明だった。
いつか読めなくなることも。
知ること、そして知ることによって失うことなど最初からどこがで肯定してしまっている。
そんなこともすでにわかってしまってはもはや読みようなどない。
どうやら完全に彼の小説を読む資格を失ったのかもしれない。
エッセイだけは、でも読み続けたいなあ。
現実の彼はまだそちらにいると思いたい。
倉橋由美子の『偏愛文学館』にジュリアン・グラックの『アルゴールの城にて』についての書評がある。
『アルゴールの城』、能との比較がされているのだが、これらは同じ構造を持っていると。
すなわち、現実の世界に住む主人公は、まずある別の世界へ旅をして、そこに到着しなければならない。
これは能も同じで、たとえば旅の僧が鬼や女神や亡霊が住んでいる別世界に到着する。
そしてその別の世界で主人公が行動(それは喜劇的な行動や愚行であってもいいのだが)することによって、その世界に内蔵されていた何かが動き出し、物語が展開していく。能で言えばこのドラマを発動させる主人公がワキである。狂って舞ったりするシテは、その別の世界の存在で、神や亡霊であってもよい。
そんなふうに分析されているのだが、この構成は村上春樹の小説のあらゆるところに形をかえて出てくる。
主人公であるハルキ氏はすでになにかが損なわれている。
なぜ損なわれたのかがわからない。どこでボタンの掛け違いをしたのか。あるいは誰かが。。
その結果彼のなかのなにものかが不可逆的に損なわれてしまっている。
そこに現れる現実のほころび。その糸にたぐりよせられるように、あるいは自分のなかの欠けたなにかに呼ばれるようにして、あるいは路地をぬけ、あるいは電車にのり、あるいは車である場所へ行く。
出会うのはびっこをひく女のコだったり、ねずみだったり。あるいは、それらの影だったり、ふたごだったり。すべて彼がうしなったものと結びついている。
その場所では、あるいは、そこへいく前には、彼は眠かったり、あたまの芯がぼやけていたりする症状があらわれる。あるいはまったく眠れない。別の世界だから。あるいはすでに眠っているから。
損なわれた世界から戻るときに失敗することもある。そういうときには、そこの世界に閉じ込められる。まるで夢の中にいる自分が置き去りにされたように。
失敗しなくても、置き去りにされるものはある。
失ったものは取り返せない。なにがしかの喪失感を自覚して物語は終わる。
彼はなぜ損なわれたのかがわからない。親密なときは消えてしまった。なにかのバランスが崩れるとき。その理由が知りたい。あるいはその過程がみたいのである。
彼のもうひとつ別のタイプの物語はそういうなにものかが損なわれる過程を書いた話である。
『象の消滅』、『レーダーホーゼン』、『納屋を焼く』…。
それでもなにかは損なわれる。混乱した彼はシャツに工程をつけてその順にアイロンをかける。象工場で工程ごとに象を組み立てる。物事を数値化してみる。度合いをはかる。納屋を調べて記録につける。
100%の彼女と100%のボクが損なわれないように。
いずれにしても、十全だった彼が失ったなにものかを取り戻すことはない。マイナスの物語。あるいはマイナスであることを自覚することによって、平衡を取り戻そうという試み。
彼の小説がどこかティーンエイジャーな香りがするのはその物語のベクトルのためだったりする。
彼はいったい10代でなにを失ったのだろう。
たぶんそのなにものかというのが、ハルキ好きな読者との共通の…
ずいぶん昔から、あるいは村上春樹の本を手に取ったときからすでに、自分はそういう喪失感を持ってはいないことに無意識の中では気づいていた。なので、最初っからハルキストの仮面をかぶったままずっと読み続けていた。今、ようやくそれに気づいた。仮面をかぶってまで知りたかったのは、ハルキ氏そのものだったのかも知れない。あるいは村上春樹という現象。
彼が「あの世」で出会うものは、アニマであれ、アニムスであれ、幽霊であれ、小人であれ、それらはすべて彼のドッペルゲンガーである。われわれが夢の中で出会うものがわれわれ自身の影でしかないように。たとえそれが神や亡霊であっても。
村上春樹は夢をみないという。いろいろなエッセイで彼が書いているように。
もうすでにいろんな意味で読めなくなってしまったようだ。
自分が喪失感を持っていないことに気づいてしまった、持てないことを知ってしまったから。あるいはそのなぞを知ってしまったから。
ただ、そのようにしてしか生きていけないことははじめから自明だった。
いつか読めなくなることも。
知ること、そして知ることによって失うことなど最初からどこがで肯定してしまっている。
そんなこともすでにわかってしまってはもはや読みようなどない。
どうやら完全に彼の小説を読む資格を失ったのかもしれない。
エッセイだけは、でも読み続けたいなあ。
現実の彼はまだそちらにいると思いたい。