先日、合気道の演武会に参加しました。私は太刀取りと検対杖の演武を約三分演じました。
多くの人が見たことが無いと思い、剣対杖を取り入れましたが、反応は無かったようです。合気道に興味があれば食いついてくる人がいても良さそうですが。変なことを演じている師範?
位の感覚だったようです。残念ですね。
先日、合気道の演武会に参加しました。私は太刀取りと検対杖の演武を約三分演じました。
多くの人が見たことが無いと思い、剣対杖を取り入れましたが、反応は無かったようです。合気道に興味があれば食いついてくる人がいても良さそうですが。変なことを演じている師範?
位の感覚だったようです。残念ですね。
京都のみやびにたいして奈良はひなびと例えられます。東京に遷都して京都は首都ではなくなりましたが優雅な文化が色濃く残り世界中の人たちを魅了しています。初めて京都観光した時の私の感想はお寺も神社もとにかくでかい。みやびというよりも重厚感に威圧されました。それに対して奈良の感想は「奈良駅も駅周辺もしなびている」食堂がしょぼい、一度目の時の和食屋がしょぼかったので二回目の時は餃子の王将で食しました。これってひなびとは違います。私の求めているひなびは「鄙び」時の流れとともに古びた世界の中でキラリとひかるわび、さびを感じること(ひなびている)。日本人は古来より物を慈しみ大切にする伝統があります。古く使われなくなったものでも別の利用法を見つけ出し再利用することでひなびに変化させてきました。「例 奈良の寺で使用済みの瓦と土で寺の周囲を囲う土塀にしています」割れた茶碗を金接ぎで蘇らせる発想は日本人独特の感性に思えます。 時代の流れに逆らわずにみやびからひなびへの移行は永遠に続きます。武術から武道へ、戦いの試合から調和の和道へ、合気道の稽古からひなびを感じられたらより深い稽古になると思います。
塚原卜伝が上泉秀綱(信綱)から教えを受けた箕郷の卜伝神社 地元では
道場で合気道技を説明する時、入身や一教において、スポーツ的な発想で相手をいかにやっつけようかと、相手の側面に思い切り飛び込んだり、当身を入れながら入ったりしないと説明していますが、それは、敵として対峙するのではなく、相手をいかに向かい入れるかと言う発想の転換です。この発想の転換によって、相手に対しての殺気、嫌気がなくなります。倒そうとか、勝とうとして相手を睨みつけることで気が出ていると勘違いしている人がいるようです。倒そうとすると倒せない、勝とうとすると勝てないものです。向かいいれることで和合の世界が生まれます。襟首をつかんで振り回したり、腕を捻っての投げは受け手の反抗心を起こさせます。合気道は柔術(やわらかな技術)から生まれた一派のはずです。掴んで投げ飛ばしたり、強く掴み相手を痛めつけることは「手術・医者の手術ではありません」です。合気道は体術です。体術は奥が深い武道です。陰の武道は見えないところを大切にします。
今から二十五年以上前のことですが、私の門下生が友達の柔道の現役(井上康生に負けてオリンピックには出られなかった)Y君を稽古場に連れてきました。いつもの通り両腕で私の腕をつかませたところ、筋骨隆々の彼に今まで感じたことのない圧力を感じたものの、一般人相手と同じ調子で軽く倒せると考えたのですが、「身体内の動き(発氣)で対応したところ、まずい、自分のパワーが自分に跳ね返り、腕が折れる」と思い別の立ち位置を変える合気方法で難を逃れました。合気道には試合がありませんが、私の発氣技術では対応できなかったということです。どうして駄目だったのか試行錯誤、創意工夫の機会でもありました。私にとって絶対大丈夫は無いという素晴らしい経験でした。合気道の稽古は道場稽古、受けが取りに遠慮しがちの忖度稽古です。小さな女の人や非力な男の人が受けが忖度していることを気が付かないで達人になったと勘違いすることが多いのが合気道、道場生以外の人に技が効かないことに一生気が付かない人もいないわけではない、危険な場面に出くわすことなど日本にいればほとんど無い。たまには道場生でない人に抵抗されながら技をかけることも必要だと思います
稽古は相手のレベルに合わせること、たとえ相手が自分より非力と感じても偉そうに抵抗して見せることは相手に不快感を与えてしまう。自分だけ楽しいのは相手に失礼です。相手の気持ちを察すれば倒れたくないならその理由を説明して倒れてあげる、理由が解らなければ師範を呼び指導を受けるのも勉強です。稽古相手の技量を考えて接することで相手も納得して楽しんで稽古に励むと思います。私の嫌いな先輩の特徴は偉そうな態度と技をかけさせない人でした。そんな人たちの中での稽古は長続きしません。稽古は楽しく、和気あいあいと親切に教えあう姿勢が大切です。体を固めて防御、抵抗することは誰でもできます。合気道は理合の追求と体の練りあいです。
始めた頃は型を覚えるだけで精一杯、そこの道場の技術や良否は解らない。技術が正しいか正しくないかは稽古を初めてから何年もたってから気付くことが多い。その時では遅い、すでにそこの中堅になっているから。つまり、どっぷりつかってから気付く人が多い。つかる前にやめる人は成否が解らないまま辞めるか、止めるか、訳が分からないので病めるままに辞めていく。指導法にはいろいろありますが、私が薦められない稽古場の特徴は①私に合わせろ、掴んだ手は離さないこと、そのためには体を柔軟にして私の動きについてくれば離れない②受けも取りも力まないこと③片手取り転換の受けはおみこしを担ぐように体を下に、手のひらを上に④お互いの気持ちを忖度する。⑤初心者にこの指とまれと手首を追いかけさせる。初心者にかたい、リキムナと力を抜くことを強要する。他にもいろいろな特徴がみられますがここでは割愛します。長く続けたいと思う人は最初(入門)が大切です。優秀な指導者の道場には優秀な人達が集まるものです。「類は友を呼ぶ」と言うことわざがあります。教えてもらえるようならばそこの人達のスポーツ、武道等の経歴も大変に参考になります。武道の高段者やスポーツ等の経験者が多数在籍しているところならば安心です。攻撃側(受け)の力を的確に抜く技術(合気)を的確に解説しているところを選ぶとことを薦めます。
メーテルリンクの童話、遠くに探しに行ったが青い鳥はいなかった、戻ってから近くにいることに気が付いた話。私も他の人も、日本のどこかに武道の達人がいるのではないかと本やビデオ、インターネットを頼りに訪問したが本物に会えずに終わった人が多いと聞く。植芝開祖も修業時代、日本中の名人、達人に教えを請うために訪問した と生きていれば87歳の先輩から聞いたことがあります。しかし、たいした成果は無かったとのこと。しかし、この経験と諦めが自分の探求心になってくる。私の諦めは植芝開祖のことば「天の理法を体に移し」に繋がっていきました。青い鳥は自分の中に住んでいると気付いた時に新しい合気の世界が生まれると思います。天の理法とは宇宙の法則が先生であること。人が気がついた宇宙法則、人体の法則(つぼ等)はいろいろな合気を教えてくれます。
一方的に教えられるのでは無く、ある程度物心(解ってきたら)が付いたら自分で考え、納得できる合気道を探求する。そうでないとつまらなくて辞める人が多い。賢い師範は弟子の発見を自分の技のように取り入れている。ユーチューブの不思議な技についてよく質問を受けますが、試されているのか、本当に知りたいのか?ではありますが良い刺激になります。それほど達人の技とは思えませんがマジックと同じ、ネタをばらす作業も面白い。
腕の力と体の力、どちらも同じのように思いますが「まったく別物」と考えないと一生腕力に頼った生活習慣になり、不合理な人生になります。梃子(てこ)は最少の力で最大の効果を発揮することはだれでも知っている原理ですが、体の中のどこを支点、力点にするのか、即座に答えられる人は少ないのが現実です。この原理と膝と肘の使い方さえ理解すれば腕力に頼ることは無くなります。腕力は目で動きを確認できても体力は見えにくいが、体の力を発揮する方法論が合気道の技のなかにあるのでこれを理解して稽古をするのが良いと思います。武術は梃子の原理だけではありません、他にたくさんの原理やツボがあります。新規入門者には腕力と体の力、両方の総合力について立った状態での腕相撲で理解していただいています