京都のみやびにたいして奈良はひなびと例えられます。東京に遷都して京都は首都ではなくなりましたが優雅な文化が色濃く残り世界中の人たちを魅了しています。初めて京都観光した時の私の感想はお寺も神社もとにかくでかい。みやびというよりも重厚感に威圧されました。それに対して奈良の感想は「奈良駅も駅周辺もしなびている」食堂がしょぼい、一度目の時の和食屋がしょぼかったので二回目の時は餃子の王将で食しました。これってひなびとは違います。私の求めているひなびは「鄙び」時の流れとともに古びた世界の中でキラリとひかるわび、さびを感じること(ひなびている)。日本人は古来より物を慈しみ大切にする伝統があります。古く使われなくなったものでも別の利用法を見つけ出し再利用することでひなびに変化させてきました。「例 奈良の寺で使用済みの瓦と土で寺の周囲を囲う土塀にしています」割れた茶碗を金接ぎで蘇らせる発想は日本人独特の感性に思えます。 時代の流れに逆らわずにみやびからひなびへの移行は永遠に続きます。武術から武道へ、戦いの試合から調和の和道へ、合気道の稽古からひなびを感じられたらより深い稽古になると思います。
 

塚原卜伝が上泉秀綱(信綱)から教えを受けた箕郷の卜伝神社 地元では

裏千家が建立(正面の利休碑)は榛名町光明寺内 里見氏支流田中氏の一族が千家