じゃんけんで必ず勝つ方法として「後出しじゃんけん」がある。もちろんこれはフェアでは無いが勝てる方法ではある。世間一般の勝者にはこのアンフェアな人や企業も多い。かつてパナソニックの松下幸之助はソニー研究所と尊敬しつつも「まねした」と揶揄されていたが「かえるのつらにしょうべん」のように意にかえしていなかった。同じような商品やそれを超える商品で成り上がっていったのは良く知られていることです。今、隣国も同じパターンで(ただし日本の技術者を雇い)液晶も半導体も、太陽光パネルも造船も家電も日本は価格で勝負にならない時代になってしまった。世間、世界では後出しじゃんけんや真似る、パクルことは卑怯でもなんでもありません。生きるため、勝つためには必要な方法論で、悔しいけれど、やった者勝ちです。「勝てば官軍、負ければ賊軍」北条は頼朝源氏を滅ぼし、足利源氏は北条平氏を滅ぼし、徳川は源氏と称して姓氏不詳の豊臣から天下を獲りました。武術も同じ、生き残らなければ死があるのみ。相手の兆しを読む、相手の動きを予測する、先を読み動くのは後出しじゃんけんに他ならない。そのためには事前にできうる限り用意する。不用意は負けの元。不用意な発言も上げ足を取られます。民間人の頭上に原爆、爆弾を落としても、正当化した国が、かつてありました
戦国の世に現れた①織田信長、②豊臣秀吉、③徳川家康は比較対象にされる代表者です。①鳴かぬなら殺してしまえホトトギス。②鳴かぬなら鳴かして見せようホトトギス。③鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギスは有名な逸話ですが実際は信長も秀吉も家康もそういう人では無かったと言われています。後に秀吉は信長のことを剛よく柔を制すは知っていても柔よく剛を制すを知らなかったと言ったと言われています。私はそんなことは無かったと思います。信長は相手が強い時は贈答や土下座は平気でバカになれたし、家康の爪を噛む癖は短気な人に良くある癖です。家康は七十代まで生きた強運が最後の覇者になったことは間違いなさそうです。三人の中で秀吉が戦績、戦争の勝率が一番高かったのは「孫子の兵法を実践したこと、( 戦において、敵と味方のことを熟知していれば負ける心配はない。「敵を知り己を知れば百戦殆からず。 彼を知らずして己を知れば、一勝一負す。 彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆(ほとんど)し」. 敵の実情と味方の実情を熟知していれば、百回戦っても負ける心配はない。 敵の実情を知らず、味方のことだけを知っている状態では、勝つこともあるが負けることも ある」)だと思います。兵法は大切です。
井伊家の彦根城
合気道は弱者の武道、逃げるが勝ちも「あり」です。
禅の悟りは心から心へと伝えられるため「不立文字・文字では表現できない」そうですが、合気道は体から体へと伝えられると師から聞いたことがあります。植芝開祖の受けを何回もとることで奥義を悟れということです。しかし、現在では植芝開祖の受けはとれませんので「小糠三合(約100g)を持つ力があれば合気道はできる」といった謎めいたことばを元に再構築しなければなりません。力を感じない力は必ずあります。そしてそれを稽古しています。開祖の時代は表現ほうほうも解説ほうほうも、数学、物理、化学、身体学、生理学、仏教哲学も合気道とは無縁でしたが、現代では色々な方面から合気力学(私がつけた仮名)ともいえる探究が進んでいます。文字で表現できる合気も徐々に増えてきています。
創始者の植芝翁は元来、形(型)という考えはありませんでした。現在の形(型)は二代目の吉祥丸道主によって技法が集大成され今日伝えられています。植芝翁は外面的なものより感覚的なものを指導したそうで、「つまり氣じゃよ」は有名な言葉です。合気道は戦いの武道から禊(みそぎ)の武道という考え「天の理法を体に移し霊肉一体の至上境にいたる業であり道である」つまり、人間の理想の境地を求めていく身心鍛錬法であるという考えの上に日々稽古が行われています。合気道だけでなく 日本人ならではの伝統文化、例えば 茶道はただおいしく飲むだけなら茶道ではありません。もともと 坊主の眠気覚まし、薬として伝来したお茶に作法は必要ありませんが お茶に悟道を求めたために茶道が創造され、千利休のような人が生まれたのだと思います。
合気道の稽古は技を通じてお互いの体を練りあう鍛練法と考えています。その方法として接触部(手首等握られる部分)を動かさないで体を中心に動かすことでお互いの力が抜けます。柔道や空手等の試合形式の格闘技経験者は力感を優先する人が多くリキミ体質になっているので合気道の稽古には向かない人が多いと感じます。頭では分かっていても長年の習慣を変えるのは大変なので努力が必要です。私は合気道の稽古のたとえ話として「二本の割りばしにつけた水あめを練る」つまりお互いがある程度体全体のリキミを無くして練りあうことが合気道の稽古になると思いますのでがっちがちの体での稽古は楽しくないし稽古になりません。合気の練体づくりには程遠い稽古になってしまうと思います
合気道の稽古方法の欠点は試合がないこと、合気道の利点は試合がないこと。試合がある武道は失敗が成功に導いていく(失敗は成功の本)ことで成長します。合気道は試合のない武道ですが反撃してもらうことはできます。正しい技であるのか確認するために反撃してもらうことは本物の技を探求するために必要なことです。反撃しない稽古(受けが忖度する)が主流になっていたのでは武術(護身術、逮捕術、体術)を求める人にとってはがっかりです。反撃されて(返されて)事実を理解しないと本当の理合い(技術)が理解できないと思います。武術の探究を放棄してなかよし武術ごっこを楽しむクラブも多く見受けられますが。真面目に探究、追求しようと思って入会する人にとっては時間とお金の無駄とともに悪い評判はすぐに広まります。
※「悪事千里を走る」(よい行いはなかなか人に伝わらないものだが、悪いことをしたという評判はあっというまに世間に知れ渡り、遠方までも広がるものである。
師範が良く言う言葉に(肩の力を抜くように、力んではいけない)と言う説明があります。それなのにほとんどの師範は肩の力が抜けていないだけでなく力を感じる人が多い。この「何を言っているのか、しているのかわからない」指導者に対してその疑問を質問する人がいないのは、力を抜く方法を師範も弟子も誰も知らないために起こる珍現象と思えます。師範の技を受けていて力を感じない時は師範の技に合わせているときと腕を追っているときだけの場合が多い。いずれわかるとか奥が深い、と終わらせているのは解っていない証拠です。私の考えでは合気の練体になることができればおのずとリラックスした力が抜けた体を手に入れることができると思います。昔からいわれているのは、最初の稽古は接触部分を捨てること、接触していない部分を中心に動かすこと。相手の脳を虚にすること。そうすれば受けの力を抜いてしまうことができると考えています。
説明はこういう説を明らかにする。または自分の説を明らかにすること。解説は解の字の成り立ちからすると牛を刀で分解する、角はツノです。昔、中国に包丁という牛を解体する達人がいて、あっという間に解体するので、その謎を聞いたところ 筋道に沿って刀を入れていると解答したとのこと。マグロの解体ショウも同じこと。マグロの体の筋道を理解しているので あっという間に解体してショウが終了する。説明の説は(文化系)、解答は分析学で(理科系) 杉田玄白は解体新書を著し、ダビンチは人体を解体して絵の参考にしている。合気道の解説は分析学が良い。つまり気じゃよ、偉い先生がこうしていた、開祖がこうしていた では本当のところ理解できないし説得力があるようで無い。合気道の技は生理学、心理学、物理学、数学、文学等多種の学問が関係してくると思います。