8/8朝、道場からの浅間山 噴煙はありません。
(しん)がしっかりしていない、ふにゃふにゃの体、あいつを骨抜きにしてやる等、中心軸がしっかりしていない人は抜けている人として一人前に扱ってもらえない。合気道の稽古法は中心軸を作る鍛練(丹練)法と考えると精進する気力が湧いてくる。強くならなくても良い。いろいろな強さは稽古とともに後からついてくる。

 

※腑抜けとは

腑抜けの「腑」は、「はらわた」「臓腑」を意味する語。 「肝」に「気力」や「度胸」の意味が あるように、「腑(腹)」は底力を出す際に力を入れる場所と考えられている。 力を入れる べき場所が抜け落ちた状態から、腑抜けは「意気地がないこと」や「腰抜け」を表すように  ...

攻撃する戈(剣)を受け止めることが武の元となっています。拳、剣、槍等で攻撃を受けた時にすみやかに身を守ることは技術がともないます。それが武術です。護身術も武術もつまり同じ。剣術から体術に体術から剣術に、稽古は無限です。

合気道は古武術の現代版です。基礎、基本は同じです。迎え討とうとすると体にタメができてしまいます。現代剣道や空手のようなタメは一瞬動きが止まるので、付け込まれる危険があるので注意すべきです。


受けに対しては半掴み、小鳥を掴むようにという表現で接するように指導されていると思いますが、「受けが反発しないように優しく接する」ことが重要視されているのが合気道です。腕力に頼らない象徴として合気があります。もし、思い切りつかんで技を掛けていたなら優しく接するようにしてください。怪我の多い道場に在籍している人は特に注意してください。受けも人差し指を浮かして握ると体のリキミがとれて怪我が減少します。流れの稽古では受けも取りもやわらかく掴む。護身術的な硬い稽古(受けに動きが無い)の時は受けは硬く握る、掴む、取は柔らかく接すること。

相撲の取り組み解説で引いてはいけないという言葉を耳にする。下がることはさらにいけない。三船十段は相手が引かば回れ、押さば回れと指導しています。合気道では引かれたら転換、押されたら転換と考えると理合が理解できると思います。当身の後、後方に重心とともに足を引きことは危険です。

里見道場から車で七分くらいのところに「まねきの湯」という日帰り温泉があります。稽古の後に入浴する人が多いようです。
 


榛名山のふもとは伊香保温泉と同じような湯が出ています。

1333年五月に鎌倉時代の終焉となった鎌倉攻めは新田の生品神社を150騎で出発して高崎の八幡宮に7000騎が集結して鎌倉に向かい一党独裁の北条氏の治世から足利氏を中心に全国の守護、地頭が横並びの時代に変えました。そしてゆったりとした東山文化(銀閣寺、茶道、華道、香道、能、狂言、歌舞伎、武道、作庭、絵画、瓢鯰図等の禅文化他)が誕生しました。今の世界はコロナウイルスで大騒ぎですが世界の変わり目は必ず大事件が起こります。植芝翁が支持した大本教的に表現すると体主霊従から霊主体従の時代への移行が起こり始めたと言うことかもしれません。鎌倉攻めの前には蒙古襲来 明治維新の時はイギリス、フランスが日本の植民地化に跋扈しました。現在盛んな試合重視の武道から試合軽視の合気道の時代がやって来るとしたなら嬉しいのですが、まずは冬の時代を生き残れればですが 噂では三密の合気道は厳しい、私の道場も今年の入門者はゼロです。

鎌倉攻めの時に八幡八幡宮から守り神として里見氏が持ち出した阿弥陀様です。いまは重要文化財として東京都府中市に祀られています。以前祀られていた阿弥陀堂(現在空状態)に戻ることになりました。9月に私が製作依頼した富山県高岡地場センターへ受け取りに行きます。

乃木希典の言葉に「やって見せて、やらせて見せて、確かめて、褒めてやらねば人は動かじ」という言葉があるそうです。まったくその通りだと思います。合気道を教える場合にも当てはまるので参考になる言葉です。私なら、「手本を見せ、やらせてみせて、確かめて、まずいところを指摘して、納得させねば人は憶えず。」となると思います。

質疑応答は必須です。

もし、あなたに部下が1000人いたとして、どれだけの人が、あなたが伝えていることを本当の意味で「わかっている」でしょうか。本当の意味で「わかる」ためには、頭でわかっているだけでは十分ではありません。完全に腑に落ちて、実行できるところまでもっていけることが、本当の「わかる」であって、そこまで「わかる」人は、1000人いても1人くらいではないでしょうか。私はよく「人に教えるときには千回言行」と言いますが、人にわかってもらおうと思ったら、1000回は言わないと伝わらないということです

ただ、実際には、1000回伝えているリーダーはほとんどいないでしょう。たいていは途中で放り出して、「こんな困ったやつは、もう辞めさせろ。言っても仕方がない」と諦めてしまう。本当は、1000回繰り返せば、絶対に伝わるのを途中でやめてしまっているのです。「1回言っただけでできる人」は天才であって、世の中にはそうそういるものではありません。秀才でも10回は言わないといけない。だから、1回しか言わないで、「なぜできないんだ!」と言うのは無理があるということです。

そして、大事なのは、1回目のときも、2回目のときも、1000回目のときも、初めて言ったように話すこと。聞いているほうは、「この話はもう100回目だ」と思って聞いていたとしても、言っているほうは、「今日は初めてだぞ、この話は」という気持ちで話さなければなりません。

 


 

 

 たとえ色々と仕事等ができるとしても先輩の前で(デキル)を前面に出すと足をすくわれたり、足を引っ張られたり、要注意人物としてつぶされるのが村社会の日本だと私の経験からそう思うのですが、これは周囲の環境によって違うこともあると思います。木下藤吉郎から羽柴秀吉へ、そして豊臣秀吉への出世物語はそのものズバリの出世術です。羽柴の羽は丹羽長秀から、柴は柴田勝家からいただいてつぶされないように配慮しつつ、最後は柴田勝家を打ち破り覇権を握って豊臣秀吉になっています。合気道の相手への対処法も出すぎるとばれてしまうので出過ぎないほうが良い。たとえ先輩より上手になっていたとしても、気づかれないように対処しつつ最後に勝利を得るのは秀吉を見習うと良いと思います。秀吉があそこまで行ったのは織田信長の能力主義が足を引っ張らせなかったことも重要です。たんなる印鑑押しの上司の下では能力のある人ほどさんざん利用された後つぶされます。潰される前に独立すべきだと思います。独立できない人は自分が思っているほど能力が無い人です。

 
 

 高崎市箕郷町に卜神(ぼくしん)という地名が残っています。その地には塚原卜伝を神として小さな神社が建てられています。由来は時の剣豪 塚原卜伝がこの地に来て剣を地元の武士に伝授したと伝えられていることですが、実際は上泉伊勢守秀綱のところに新陰流の修行に来ていたとのこと、修行場所が卜神という地名になりました。塚原卜伝(つかはら ぼくでん)(延徳元年~元亀二年/1489~1571) 戦国時代の剣豪、 兵法家です。新当流の祖。 同時代の剣豪、上泉信綱と並んで“剣聖”と称されますが、塚原卜伝はたくさんの弟子を引き連れて伝授しながら旅をしたと言われています。 神として祀られるほど地元では衝撃的な有名人だったようです。

写真は我が家に伝わる居合の元祖林崎甚助から七代(元禄三年)の目録 道場に写しを展示中

※秀綱から後に箕輪城落城後 武田信玄の信をもらい信綱に改名しました。