攻撃相手に下から懐(ふところ)にもぐりこんで入り、下から相手の二の腕を押し上げる。すると相手が浮き上がり合気がかかり崩れます。これが一教の崩し。ノと逆のノで入るの漢字はできています。こじつけかも知れませんが案外的を射ているかもしれません。懐に飛び込むと攻撃を避けることができます。相手との距離が足りない場合は不足、距離を少し調整するのが補足する。丁度良い距離で満足です。技が正しいと上手く掛かる。正しいの上の―を取ると止まる。正しくないから。今はコロナさわぎで人との距離を1メートルとりなさいとのこと、濃厚接触が必要な合気道はお手上げですね。公共施設の道場の貸し出しが止まるかしれないとびくびくしている人もいるのでは無いでしょうか。
1333年五月に鎌倉時代の終焉となった鎌倉攻めは新田の生品神社を150騎で出発して高崎の八幡宮で7000騎が集結して鎌倉に向かい一党独裁の北条氏の治世から足利氏を中心に全国の守護、地頭が横並びの時代に変えました。そしてゆったりとした東山文化(銀閣寺、茶道、華道、香道、能、狂言、歌舞伎、武道、作庭、絵画、瓢鯰図等の禅文化他)が誕生しました。今の世界はコロナウイルスで大騒ぎですが世界の変わり目は必ず大事件が起こります。植芝翁が支持した大本教的に表現すると体主霊従から霊主体従の時代への移行が起こり始めたと言うことかもしれません。鎌倉攻めの前には蒙古襲来 明治維新の時はイギリス、フランスが日本の植民地化に跋扈しました。現在盛んな試合重視の武道から試合軽視の合気道の時代がやって来るとしたなら嬉しいのですが、まずは冬の時代を生き残れればですが はたして?
府中市分倍河原駅前の新田義貞像
守り本尊として鎌倉攻めの時に八幡八幡宮から里見氏が持ち出した阿弥陀様です。いまは東京都府中市に祀られています。以前祀られていた阿弥陀堂(現在空状態)に分身分霊した阿弥陀様が戻ることになりました。
10月16日(日)に公開予定です。責任者は私です。
武道では攻撃をすばやく避けて攻撃態勢に移ることです。技の内容では合気道の入り身、転換がそれと言えます。転換には必ず入り身が伴いますから入り身転換は一つと考えたほうが良いと思います。転換には内転換と外転換の二種があります。タイミングや足の動きには細かい動きがありますから、道場で丁寧に稽古します。
武術は弱点を克服して現在がある。教授された技術に もしも欠陥があったとしたら、このことについて師範に疑問を言える人は恵まれています。疑問が言える懐の深い師範はつねに疑い、課題を持ちながら精進している人だからです。開祖があ― とか指導を受けた師範があ―とか言っている指導者には疑いの目を向けるべき、私のところに200㌔離れているところに住んでいる人が通ってきます。以前は私のところの近くに住んでいた人ですが、移住先の道場に入会し、久しぶりに稽古に参加したところ、(私の合気道)の否定の連続で三回通ってやめたそうです。本人としては「どうしていけないのか」を聞いて納得できれば続けられたし、私の合気道が否定され、その指導者の合気道が納得できれば、私に伝えた(私はいつでも聞く耳を持っています)と思いますが、ただただ否定されるだけだと呆れていました。最近ではユーチューブで自称、達人が多くのことを発表しています。それを見た道場生の質問が増えていました。その課題を材料に私ならこうしますとか映像の虚構とかいろいろな意見は楽しい時間です。最近はネタが尽きたのか質問が少なくなりました。
創始者の植芝翁は元来、形(型)という考えはありませんでした。現在の形(型)は二代目の吉祥丸道主によって技法が集大成され今日伝えられています。植芝翁は外面的なものより感覚的なものを指導したそうで、「つまり氣じゃよ」は有名な言葉です。合気道は戦いの武道から禊(みそぎ)の武道という考え「天の理法を体に移し霊肉一体の至上境にいたる業であり道である」つまり、人間の理想の境地を求めていく身心鍛錬法であるという考えの上に日々稽古が行われています。合気道だけでなく 日本人ならではの伝統文化、例えば 茶道はただおいしく飲むだけなら茶道ではありません。もともと 坊主の眠気覚まし、薬として伝来したお茶に作法は必要ありませんが お茶に悟道を求めたために茶道が創造され、千利休のような人が生まれたのだと思います。
身体の力を抜いて静かに相手に身体を委ねて「浮き身の姿勢」逆らわず呼吸だけはしている。初めのうちは誰でも自分で意識してここに気をつけなければいけない。こうしちゃいけない「正しい理法を念頭に置いて違うことはしない・例えば力を入れる」というように考えながらフォームを作る。色々師範に注意されているうちに 細かいところが気にならなくなってくる。それどころか自分がやっている行為すら忘れるようになる。そうなった時にはじめて最も能率的で合理的なフォーム・「正しい理法・体勢・心法」〔合気道〕が確立してくる。相手も自分も一体になっているように感じられる。「自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり」の境地に達する。
里見庭園内
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受けの取り方が、非常に硬い人〔すぐ力んでしまう〕、わざと力を入れて崩れまいとする人がいます。確かに、業を掛けて相手が崩れないのは掛け手の未熟であることに違いはありませんが、あくまで稽古ですので、正しい理法の追及でなければなりませんが、未熟な人にとってたまったものではありません。稽古にならないからです。業を掛けられている人は相手の弱点、まずいところがよくわかるものです。「例えば座取り呼吸法の稽古を私とやった場合、私が本気で抵抗したら稽古になりません。」それでいいのでしょうか、答えは違うと思います。倒れなければ私を恨んで帰って行くと思います。「稽古は基本的にゆっくりやっているので抵抗しやすいこともあります」全部倒れることは相手のためにならないし、倒れなければ気分を害して恨んで帰って行くと言う事です。「正しい倒れ方とは、相手にもしスキや未熟な点があればここは直したほうがいいよということを伝え、倒れてやることです。わざと体を硬くして抵抗するのは、自分にとっても、相手にとっても良いことではありません、あくまで合気道は理合の追求です、力を抜くところは抜く、入れるところはいれる、全部抵抗するなとはいいませんが、せいぜい一回の業の稽古で1回程度で十分です。」合気道は試合がありませんので稽古の姿勢次第で進歩が違います。稽古の時間だけは真剣な気持ちを保持してお互いに違和感の無い和合の合気道を稽古してほしいと思います。
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幕末の江戸城無血開城時、駿府に徳川慶喜の命で山岡鉄舟は官軍側の西郷隆盛に会い、事前交渉をしました。その後、西郷隆盛と勝海舟の江戸百万市民の命を救う会談に発展しました。鉄舟の無刀の心が西郷の心を打ったからと言われています。その後、勝海舟、西郷隆盛の会談は(相抜け)「相抜けとは、両者立ち会い、平気にて相争うものなき」として戦うことなく無血開城に至りました。つまり、大政奉還です。現代に置き換えると原爆を所持していても実際には使えない。使ったらその国は終わるからです。いかにして戦わないか、ロシアや隣国の動きが騒がしいですが、互いの実力を知らしめて納得させ 平らにする山岡鉄舟の(相抜け)の極意ですが、ロシアは世界を相手にしてしまったようです、自己を過大評価してしまったため いまさら相い抜けはできません。後悔先に立たず。かつての日本を思い出します。
あらゆる武術の究極的奥義である正中心、これを理論として公開した人物が肥田春充です。肥田式強健術といわれ本も販売されています。二十二年かけて思考錯誤の末「ドカッと…いまだかつて経験したことがない強大な力が、腹と腰との間からほとばしり出て、体の中を一瞬に突き抜けた」この瞬間をもって、春充は今までと違う性質の力を得たと言っています。この要領を簡単に説明すると「腰を反り、下腹を突き出し、脊椎を真っ直ぐに立てる。重心を両足の中央に落とす。上体の力を抜く。みぞおちを伸ばす」この姿勢を真に正しくとれば、腹腔内部に球状の緊張が自覚できる。その中心点〔正中心〕が両足の中央に垂直に落下するような位置関係を保ちつつ、呼吸に合わせて動作をおこせば、引き絞るような力が働いて下腹部を内側からドカッと叩く。これが中心力だということです。これが、武術、芸術、宗教の究極の奥義、秘伝中の秘伝です。武術の姿勢はこの正中心に行き着くと私も考えています。合気道で相手(受け)の中心をとらえろと説明を受けることがあると思いますが。具体的な説明は無いようです。