五人対一人(一つにまとめる)
合気道の戦いの原点は一人の自分がいかに多くの敵と戦うか、それは日本の戦いの歴史上、集団との戦いの中で多数の敵に囲まれて戦う状況から生まれた考え方です。結局戦う相手は一人、倒したら次の敵と戦う。即ち多数は一人、一人は多数。これは戦い方ですが、普段の稽古においては多数の技を習得するために努力します、その集積が練れた体と表現します。つまり、合気の練体になれば技を超越でき、多技そのものも一になると思います。これは一つの技だけになるのではなく無意識の中で多技が発せられると考えると理解できると思います。この考えは、非均衡性、非相称性、単純性、わび、さびその他の禅の思考と日本人の芸術、文化の特性と重なると私は考えています。

合気道の気は宇宙に遍満するエネルギーの氣ととらえていますが、氣は見えない、そして曖昧模糊としていて稽古の目標にはなりにくい。氣よりも軌道、つまり円の道、合気道の筋道である円軌道なら理論に合致する。氣を尊重するあまりに氣で倒すことに努力している人もいるかもしれない。気合いとともに相手を倒す、確かに力は出ます。それは間違いではありませんが気合いで触れずには倒せません。それは合気の本筋から逸脱してしまう、開祖存命の時代に稽古をしていた人の話では開祖が触れずに倒すのを見たことが無いと話されていました。もちろん、目に見えないエネルギーが体の中に充満していることは間違いありません。
 昭和の剣聖 高野佐三郎書 みちを味わいまことをまもる 軌(みち)味(あじわい)真(まこと)を守る 

   宇宙の法則である軌道を身につけ真の実(理合)を守る

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説明はこういう説を明らかにする。または自分の説を明らかにすること。解説は解の字の成り立ちからすると牛を刀で分解する、はツノです。昔、中国に包丁という牛を解体する達人がいて、あっという間に解体するので、その謎を聞いたところ 筋道に沿って刀を入れていると解答したとのこと。マグロの解体ショウも同じこと。マグロの体の筋道を理解しているので あっという間に解体してショウが終了する。説明の説は(文化系)、解答は分析学で(理科系) 杉田玄白は解体新書を著し、ダビンチは人体を解体して絵の参考にしている。合気道の解説は分析学が良い。つまり気じゃよ、偉い先生がこうしていた、開祖がこうしていた では本当のところ理解できないし説得力があるようで無い。合気道の技は生理学、心理学、物理学、数学、文学等多種の学問が関係してくると思います。

理にかなった動きには無理(りがない)が無いので怪我をするはずがない。私も未熟だった時代は怪我をさせてしまったことがある。理とは理法、理論、宇宙の法則、天の理法等いろいろな表現がありますが宇宙の法則である合軌道に徹すれば無理が無くなる。稽古は理を追求、探究することが面白い。探究はおそらく永遠に続くことになると思います。
    

 

 

 

良い波動やオーラを出すには明るさと同時に、相手に何かを与えるという気持ちや態度がポイント、つねに相手に喜んでもらえることを考えることが大事だと思います。相手を喜ばせたいと思い、喜ぶ顔をみることが自分の楽しみになる。それ以上の見返りを求めていませんから、どこか潔い清々しさがある。たとえ相手から帰ってこなくても、不思議なもので別の所からいい話が舞い込んで来て、仕事や収入に結果的につながったりするものです。逆に自分の利益ばかりを追い、相手から何かを得ようとか奪おうと考える人は、長期的な人間関係が作れません。最初こそ調子の良さで付き合っていても、底が見えてしまうのでやがて離れて行ったり、喧嘩別れのような形で長続きできない。明るくいつも笑顔であること。自分の利を優先するのではなく、相手に与え、喜ばせることを考えること。この2つを肝に銘じて日々の生活や人間関係で実践できれば、仕事もお金も自然に良い循環ができあがる。合気道の稽古も同じ


手刀と拳〔こぶし〕のどちらで相手の攻撃を受けたらよいか、合気道では手刀で受けることが原則です。空手のように拳で受けることは無い。手刀の場合、構えるとそのまま手刀を掴まれると指を折られてしまい、非常に危険なので、普段の稽古はともかく、普通は手刀で構えるのは危険です。以前私に挑戦してきた大男がいましたが、手刀で構えたのでそのまま近づいて指を握っただけでキブアツプしました。合気道の構えは非常に危険です。開祖の言うとおり、本来は無構えです。気をつけてください。私の経験からはっきり言えます。では拳が絶対かというとそんなことはありません。相手が拳で来た場合はやはり開いている手の方が変化に対応できます。まず第一に隙があればいつでもつかめます。それに伸筋が使え るので力が出ます。合気道の場合、当身は相手を倒すだけでなく直接当てない霞の当てや体を有効に使うための当てなどいろいろありますから、拳をしっかりにぎることはありません。空手などは拳で打撃し相手を倒しますが、合気道の場合、当身は相手を制するための過程にすぎないからです。

普通は相手の起こりを察知し、そこを反射で攻撃できる人が達人であり勝負に強い人です。稽古を通じて素早く動けるようになった結果、対応できる人は上手ではあるが達人ではありません。達人の条件は自分の起こりを悟られないで攻撃できる人。相手の初動を反射で動ける人です。察し(無意識になにかを感じること)できる人です。相手の氣を察して瞬時に行動できる人、私の気持ちを察して動きなさいと指導する人の話を聞いたことがありますが、そういう稽古をしていれば相手の氣を察することができるようになるのではと納得させられますが、そういう指導者に限って偽物が多いと私は思います。柊(ひいらぎ)の葉は若い時はとげとげが多いが歳を重ねるととげが無くなり丸くなるそうです。合気道の技も、人の心も丸くなれれば達人の域に達した人と言われるかもしれません。

フェイクと言われないためには正しい型を稽古すること、正しい型とは体の法則(体のしくみに合った型で、力に頼らなくても技につながる、反撃(攻撃を返される)ことが無い絶対的な型。体に多数存在するツボ、体の弱点、角度を見極めて稽古をする。受けにどこが悪いか指摘してももらう、受けに反撃してもらうと理解しやすい。稽古は受けが取りに忖度するのではなく、取が忖度すること、後輩が忖度するのではなく先輩が忖度すること。力んでいる師範演武はビデオで分析すると色々(みそもくそも)な発見があって面白い。人のふり見てわがふり直せとは名言です。
  

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座取り呼吸投げを基本として①斜め右後方投げ、②斜め左後方投げ、③斜め右前方投げ、④斜め左前方投げ、⑤前方投げ、⑥後方投げ⑦右横投げ⑧左横投げがあります。取りは起座で受けは立って掴む、半身半立ちで稽古を行います。取りは上段(手を相手に差し出して)で掴ませます。






10月16日(日) 高崎市の八幡町の八幡宮の阿弥陀堂に689年ぶりに阿弥陀如来(国指定の重要文化財)が戻ってきます。鎌倉攻めの守り神であった勝利の神です。1333年当時の旗揚げ時は神仏習合で神であり仏でした。これからは勝利の神として崇拝してください。鎌倉攻めは新田町の生品明神に新田義貞、里見義胤他150騎が集結後高崎市の八幡宮で7000騎が集合し阿弥陀堂前で必勝祈願し、その際に阿弥陀如来を里見義胤が背負って鎌倉に向ったそうです。幕府滅亡後、室町幕府が開かれて東山文化等の日本独特の文化が花開き、今日に至っています。千利休は里見氏の末裔、村田珠光は新田氏の末裔です。この事業は私(里見)が進めています。10/10日に阿弥陀様を高崎に私が連れてきます。

FMぐんまで10月8日(土)12時ごろ、このことについて放送してくれるそうです。