稽古における心得として「反撃すると嫌われる」後輩が先輩に逆らうと、そこの道場での稽古はできなくなることを覚悟の上でないとでき無い。よほど気心のしれた相手でないと本音は吐けない。そうしながら型を覚えることに精一杯で時間は過ぎていく。それでも、級や段が上がっていくので結構楽しい。世界一平和な日本では襲われることなど「万が一」無いが、万が一、あったとしても携帯で警察に連絡したり、お店やコンビニに飛び込めば助かる確率は高くなる。法律では過剰防衛は逆効果になるので腕試しもままならない。生兵法は怪我のもと、逃げるが勝ちは昔からの格言ですが、武道を極めているといざというときの判断が的確になる、つまり「腹が据わっている」と言われる。たとえ、手が出せなくても、武道はやった方が良い。

令和6年12月31日 


和敬清寂(わけいせいじゃく)とは、茶道の心得を示す標語。意味は、主人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にすることという意である。特に千家ではこの標語を千利休の定めた「和」、「敬」、「清」、「寂」を表す「四規」として重要視している。しかし利休と同時代の確かな資料には見られないことから、学術的には利休の言葉としては認められていない。(ウイズベキュア)

 合気道は和合、調和、愛、禊ぎ等の武道と言われています。茶道の精神と似た世界感と思います。試合の無い、勝ち負けの無い合気道は協会会員ですが、県のスポーツ協会での立ち位置は非常に微妙です。協会の予算は試合のあるスポーツが重要視されています。

「洋心を去り大和心に帰れ」と唱えた本居宣長の神髄は戦って勝利する西洋精神と相手と調和する大和心(縄文文明)ついて江戸時代に指摘しています。フェアプレーと叫んだところで、どんな汚い手を使っても勝ちは勝ちです。この幼稚な精神の国がたくさん存在しているので、日本人プレイヤーが賞賛されていますが、大和心にとっては当たり前のこととだと思います。来年は「体主霊従から霊主体従・戦いから和合へ」の移行期に入ると考えています。

 


 
宮本武蔵の五輪書の中に「物事は栄える拍子と衰える拍子がある、気を付けよう」という言葉があります。拍子ははずみという意味です。拍子とは間でもあります。良くない拍子が来たらそれを転じて、良い栄える拍子の方に持っていく。ではどうすればよいかというと、間を取るということ、危険なこと〔難問題〕にぶつかった場合すぐに反応しないで、少しの間をとって、自分が置かれている状況を客観的に把握し判断する。それは、この間に情報をたくさん仕入れること。そうすればより良い状況に自分を導くことができる。と武蔵は言っている訳で、武道で例えると、武道は危険に際して生きる道〔方法〕と考えると、危機一髪の窮地からの脱出は、間を取って良い拍子に転換することといえます。

合気道は、呼吸力鍛錬方の稽古として素振りはとても大切です。剣を持つ練習が重要視されていないのは、合気道が新興武道としての印象を抱かせるための宣伝効果をねらったものだと言う人もいますが、木刀の握り方、素振りの仕方、四方切り、八方切りなどが一人稽古です。現在は体術さえできれば良いと考える師範が増えています。合気道は手刀同士でくんで、ことさら難しく稽古をする方法を取らなくても、正しい操方を知っていれば、合気操方は簡単に学ぶことができる初心者向けの技法です。剣の構えの基本がそのまま一教の構えです。手刀から始めるより、と私は考えています。
 

群馬テレビの年末の番組

(上野国に源義重あり)12月29日(日)午前10時30分~11時

(源義重とその子孫の功績) ①12月24日(火)午後9時

     再放送       12月28日(土)午前10時30分~

      〃      12月30日(日)午前10時30分~

※里見義成が源頼朝の子供に武芸を教授した古事等解説しています。

 子孫の功績では里見系では千利休、大岡越前守忠相、蜂須賀小六正勝、安房の里見家、徳川家康、新田義貞等を紹介し   ています。また、8月に高崎八幡八幡宮の源義重の騎馬像も紹介しています。合気道の原点は清和源氏の武術と言われています。是非ご覧下さい。

 

好きでなければ上手にはならない、好きだから長く続けられる。昔から言われている言葉です。自分に合わないと感じたら、他を当たりましょう。きっとあなたに合う趣味が見つかります。
 

塚原卜伝は剣術が好きだったらしい。こんな遠くまで上泉信綱の新陰流を習いに来ているのですから。

とりあえず、相手を無力化する里見流合気道に興味のある方は体験入門してください。

 

新しいことを始める(合気道を始める)ことは人生の一部を変えること、意図的に「人生の切り替え」になる。交流関係が変われば、年配の人たを知ろう、学ぼうという意欲、よりいっそうの「生き甲斐」も湧いてくるはず、新しい活動への意欲も自然に湧いてくる。何歳になっても新しい経験を積んでいける人は生き生きとしている。懐古主義の高齢者同士が一緒にいても、なにも始まらない。旧友との付き合いは本当に大切な人だけに絞って、その分だけ若者や異業種の人達と友達になったほうがいい。その分、新しい世界が広がる。人生を、いつまでも豊かに生きられるようになる。「交遊関係の切り替え」は、意図的に行ない。この切り替えこそが、新しいことに興味を持って、これからを楽しんでいくための「人生の(路線変更装置)となる。

 



稽古は受けと取りにわけられます。受けが攻撃してくるのを電信柱の如く待っている人や受けにこうに来いと多くの注文をつける人をよく見かけますが武術()の稽古としてはありえません。野球で例えると受けがピッチャーと守備の人たちで取りがバッターです。合気道の稽古では攻撃側は受けで守備側が取りです。攻撃側である受けを迎え撃つためには積極的な待ちと合わせが必要です。つまり受けが攻撃を開始する直前に動作は開始されなければなりません。この間()が生死を分けます。合気道や剣道で袴を着用する伝統はたんなる伝統ではなく敵に下半身の動きを解らせないための必勝アイテムと考えると納得がいきます。攻撃相手を誘導する、操る余裕、技量を持つためには稽古により自信をつけるしかありません。

 見返り美人の型(菱川師宣画)


体がぶれる理由は姿勢が悪いから、姿勢が悪い原因の多くは手元をみたり相手の足元をみたり、相手の体のどこかを見ていることが多い。とにかく軸がぶれては力が出ない。体の芯をしっかりするためには正しい姿勢で前に進むにはどうしたらよいかを考え、膝の使い方、肘の使い方を考える。受けに対しての体の向きについて考える。こういうことを心がけて稽古すると答えが見えてくると思います。

 


 
戦いのなぎなたなのに漆塗りで丸二家紋(里見氏)が描かれています。鎧も日本人の美意識を感じます。


日本人は古代から崇高な美意識をもっています。シンプルな美、引き算の美学の上に成立しています。日本化した禅の影響を受けて武道は殺人剣から活人剣に変化したように美意識の根底にある日本文化の本質的な部分の多くは芸術や芸事に融合されて今日に至っていると思います。しかし現在の日本では、西洋文明、東洋文明の影響から混沌とした状況にいると感じることが多くなりました。この混沌とした今日の日本を従来の日本に戻す方法論として真の武道という題材があると思います。本居宣長は唐心を去り大和心に帰れと言われたそうですが和合の武道である合気道を通じて「真の日本文化」を世界に発信していきたいものです。