メーテルリンクの童話、遠くに探しに行ったが青い鳥はいなかった、戻ってから近くにいることに気が付いた話。私も他の人も、日本のどこかに武道の達人がいるのではないかと本やビデオ、インターネットを頼りに訪問したが本物に会えずに終わった人が多いと聞く。植芝開祖も修業時代、日本中の名人、達人に教えを請うために訪問した と生きていれば87歳の先輩から聞いたことがあります。しかし、たいした成果は無かったとのこと。しかし、この経験と諦めが自分の探求心になってくる。私の諦めは植芝開祖のことば「天の理法を体に移し」に繋がっていきました。青い鳥は自分の中に住んでいると気付いた時に新しい合気の世界が生まれると思います。天の理法とは宇宙の法則が先生であること。人が気がついた宇宙法則、人体の法則(つぼ等)はいろいろな合気を教えてくれます。
白井亨は中西道場の高弟寺田五郎右衛門(天真一刀流…高崎市出身)に完敗し「どうしてそのような精妙な技を得たのかと質問」したところ悟道のほかはない。との答え、邪念でもって修行していたのでは悟道へは入れない。清浄無垢になることと諭した。そこで過激な斎戒沐浴の日々を過ごしたが、かえって神経衰弱になり体を壊してしまった。
そこで、白隠の修行方を紹介され 氣海丹田が充実して元気が回復しました。
湖面は山を映そうとは思わず、山も映ろうとも思ってはいません。
稽古はあくまで型稽古ですので、受けに技がかかる条件をつけて稽古をするのが一般的です。師範によってはこのほかに私の気持ちを察して、私の動きを読んで受けの対応をとりなさいと大真面目に指導することもあります。受けと取りの関係は微妙ですが、武道はあくまで身を守る護身術ですから、つねに攻撃側に対しての対応を想定しなければなりません。受けが一定の条件の基でないと技が成立しないのが稽古です。そして、取りが一定の条件を作って対応するのが武道です。稽古だけに甘んじているのも楽しく続けられる方法かもしれません。人生において賊に襲われる確率は低いと思われますが、合気道という武道を習っている人はたとえ確率が低くても護身術としての心得は必要だと思います。武を分解すると矛を止めるです。いざとなったら型稽古しか習っていません、(攻撃側)犯人が合わせてくれなかったのでやられてしまいました、と言う言い訳は通用しません。
合気とは何ぞや? 悟りとは何ぞや? 侘び寂びとは何ぞや 即答できる人は少ないと思います。とはいえ、目標を知らないと稽古、修行、作法の方法が解らない。と思います。まずは師範から解説してもらってください。
49年前に発刊した民間(素人)が編集した歴史書です。私も関係しました。
教え方には多種ありますが、合気道は指導者の見本の動きを真似することが基本です。見て覚える、見取り稽古と言います。しかし、これだけでできるようにう。なる人は一部の天才しかいないと思います。まして、師範がなんちゃって師範だとしたらゾッとします。本当の師範は手取り足取り、解りやすく理合を解説してくれるはずです。残念なのはそういう師範かどうか、私は出会ったことがありません。見極めが難しいのがこの世界です。
「見解の相違」とは、考え方や見方、解釈が互いに食い違うことを表します。
たとえば、「貴社と弊社で見解の相違があるようです」というのは、簡単にいうと「貴社と弊社で意見が異なるようです」という意味になります。合気道は100人の師範がいると百通りの合気道があると言われます。つまり、100通りの見解に分かれると言うことです。その人のレベルによって見解も変わります。
※ねんげ-みしょう【拈華微笑】言葉を使わず、心から心へ伝えること。 また、伝えることができること。ただし、伝わる相手はそのレベルに達していることが条件。合気道は体から体へと言われています。100通りの師範に会えないのが残念ですが自分に合った(レベルが近い師範)を支持し
続ければ充実した生活を送れると思います。
合気道の演武はインチキだと言われることが多い。ひさびさの演武会で演武をしましたが、素人目でみると私の演武がインチキかどうか解るはずが無い。だって、武を演じているのだから偽といわれても仕方が無い。演武は取り(演じ者)と受け(攻撃して倒される)に分かれて演じますが、受けが取りに合わせすぎるのはインチキです。指導者として研鑽を積んだ私と初心者や未経験者では(虚実の違いは理解できない) 私にみえる「虚(うつろな脳の状態で力を感じないで崩れ、倒れる)の受け、と実(力を感じても抵抗しないで取りの気持ちを推し量って倒れる)受け」この指とまれの誘導があからさまな ごまかしの演武 の説明を口で説明したとしても判らない人には解らない、合気道は体から体に伝える武道、達人に習わないと本物にはなれない。感覚で説明すると 取りも虚、受けも虚が理想だと思う。受けがいつも取りに合わせていると自分の技が虚つまり、自分が達人なったと思ってしまう。
稽古今を照らす (昔の達人に習って稽古せよ さすれば達人に成れる)
禅の悟りは心から心へと伝えられるため「不立文字・文字では表現できない」そうですが、合気道は体から体へと伝えられると師から聞いたことがあります。植芝開祖の受けを何回もとることで奥義を悟れということです。しかし、現在では植芝開祖の受けはとれませんので「小糠三合(約100g)を持つ力があれば合気道はできる」といった謎めいたことばを元に再構築しなければなりません。力を感じない力は必ずあります。そしてそれを稽古しています。開祖の時代は表現方法も解説方法も、数学、物理、化学、身体学、生理学、仏教哲学も合気道とは無縁でしたが、現代では色々な方面から合気力学(私がつけた仮名)ともいえる探究が進んでいます。文字や言葉で表現できる合気も徐々に増えてきています。
臆病な人とは危機回避能力が優れている、言い換えれば未来を考えられる人です。武道の達人の第一条件は臆病な人であること。武道に限らず達人は冷静で慎重に物事を判断できる人です。戦国の世において生き残るためには危機回避能力が高くなければ生き残ることはできませんでした。慎重な判断ができるという能力が高い人が生き残りました。織田信長は少ない手勢で本能寺に宿泊して明智光秀に打たれました。豊臣秀吉は徳川家康の勢力を削がないまま亡くなりました。最後の油断が徳川家康に味方しました。味方とは家康の臆病から来ています。臆病な人というのは、それだけ自分の身に何か変なこととか嫌なこと、失敗する何かが降りかかるのを凄く怖がります。そうならないためにはどうやって過ごしたらいいのか、どうやって行動したらいいかというのを冷静に慎重に判断できる先見能力が長けてる人だと思います。家康や家光は先読みの達人です。嫡流の子孫が絶えることを予想して御三家をつくり、大名の裏切りを予想して参勤交代や関所、大名の婦人や子供を江戸に人質として確保しました。将来徳川の敵と成りうる家柄の○○家の抹殺や大名のお家取りつぶしまで実行しています。徳川政権が265年も続いた理由は家康の臆病な性格から来ていると思います。