敵を知り己を知らば百戦危うからず。相手の大小、力の強弱、男か女か、性格は、等全て相手の条件はちがうのが当たり前。(敵)相手を知り己を知らば百戦危うからず。つまり相手によって技は微妙に変えて対応しないと技はかからない。だから、たくさんの人と稽古をしないと上手くならない。技術的な面ではそうですが、長く楽しく続けるためには、楽しくなければ自然に足が遠のく、一番の原因は師範のいやないろいろではなく、稽古のキツさでもなく、稽古場所の(いろいろな面で)悪い環境でもない、それは人間、仕事なら仕方なく自分の役柄を演じて我慢して調和がとれても、趣味の世界での優先順位は「非日常の世界に身を置くことでリフレッシュ」すること。そうで無いところでは長続きできない。せめて、毎日稽古をしている道場なら、相性が合わない人を曜日で避けることも可能ですから探してみるのも良い。

パブロフの犬とは、訓練や経験によって後天的に獲得される反射行動のこと。合気道の稽古では、最初に受け、受け身を教授されます。稽古なので師範や先輩がかけた技は素直にかけられることを教えられます。これを繰り返しているといつのまにか「パブロフの犬」になっていることに気づかない。合気道はすごいと洗脳されてしまう。他の武道で「この指とまれ」の合気道と揶揄されることもある。師範の腕を無意識に追いかける行動が笑いのもとになっている。師範も受けもこの不自然な行動に気づいていないこともある。私の気持ちを察して受けをとれ、力いっぱい掴んではいけない。これは稽古だから。? 挙句の果てには「気を導く、触れずに倒す」等 試合形式の武道では考えられない独特の師弟関係が生じる。

植芝開祖の最初のころの指導は 固い稽古(思い切り握られた状態または打撃に対して技をかける)を会得してから、流れの稽古に移行していたそうです。里見道場も固い稽古から始めています。ユーチューブの合気道系の不思議な技の解明も稽古に取り入れています。

 

 合気とは 植芝盛平合気道開祖はつまり気じゃよとポーンと投げ飛ばして見せたそうですが、気という概念が「曖昧模糊」では、指導者としては「話にならない」

 私が道場生に対しての説明について書いてみます。日本で最初に合気について記述されているのは(所説あると思いますが)、平安時代の京八流(武術)のひとり、鬼一法眼の「合気について」です。揺れる松葉をたとえとして「松葉が風に揺れている。松葉は揺れようと揺れていない、風は揺らそうとはしていない、結果として揺れている、つまり、それが合気」

 西洋風に説明すると、イソップの太陽と風のたとえ話。風が太陽に勝負を挑む。あの旅人のマントをはがせたほうが勝ちだ。まず、風が突風を当てて旅人のマントを吹き飛ばそうとするが余計体に巻き付ける。次に太陽が心地よい暖かな気温で覆う。すると旅人はマントをとって気持ちよさそうに座り込んだ。旅人は自分の判断で行動を起こしただけ、合気道は受けと取りで稽古が成立する。受けは取の合わせ鏡、受けに対して注文していては上達はできない。

 茶聖の千利休は「茶の湯とはただ湯を沸かし茶をたてて飲むことと推して知るべし。」なかなかこの境地には至れませんが、この言葉には力みがまったくありません。すべての芸事の極意は力みの取れた自然の境地と考えます。外国伝来の

仏教も禅哲学として取り込んでしまう「神道」は自然崇拝だから喧嘩にならない、力みのない日本人の和の精神のたまものと思います。

 私が合気道を愛する理由は「戦い、試合」が無いこと。勝ち負けにこだわることが嫌いだから。武とは鉾を止める。鉾と鉾の戦いを表していない。

世の中には似て非なるものがあふれている。なんでも鑑定団の人気は本物と信じて出品したものが偽物と判定され、驚きの低価格で盛り上がる。本物の場合は「こんなに高くて誰が買うの」と私はいつも不思議に思ってしまう。中国で購入した逸品や江戸時代の日本画の多くはほとんど贋作なのでそれはそれで面白いが中国製品は今も昔も変わらずに贋作なのが面白い。しかし、真似のできない商品も日本には出てきている。ローレックスは真似ができても、日本製のソーラー電波時計は真似できない。日本の生きる道は他国に真似ができない品で勝負していくしかない。どこかの国のように似て非なる別物を我が国の発祥と平然と言ってはばからないが、精神までは真似できない。和合、調和、結び、侘び、寂び等は大切にしたい。勝ち負けにこだわっていると西洋文化になってしまう。洋心、唐心を去り和心を大切に稽古、精進してください。
 

合気道の稽古は技を通じてお互いの体を練りあう鍛練法と考えています。その方法として接触部(手首等握られる部分)を動かさないで体を中心に動かすことでお互いの力が抜けます。柔道や空手等の試合形式の格闘技経験者は力感を優先する人が多くリキミ体質になっているので合気道の稽古には向かない人が多いと感じます。頭では分かっていても長年の習慣を変えるのは大変なので努力が必要です。私は合気道の稽古のたとえ話として「二本の割りばしにつけた水あめを練る」つまりお互いがある程度体全体のリキミを無くして練りあうことが合気道の稽古になると思いますのでがっちがちの体での稽古は楽しくないし稽古になりません。合気の練体づくりには程遠い稽古になってしまうと思います。

 


創始者の植芝翁は元来、形(型)という考えはありませんでした。現在の形(型)は二代目の吉祥丸道主によって技法が集大成され今日伝えられています。植芝翁は外面的なものより感覚的なものを指導したそうで、「つまり氣じゃよ」は有名な言葉です。合気道は戦いの武道から禊(みそぎ)の武道という考え「天の理法を体に移し霊肉一体の至上境にいたる業であり道である」つまり、人間の理想の境地を求めていく身心鍛錬法であるという考えの上に日々稽古が行われています。合気道だけでなく 日本人ならではの伝統文化、例えば 茶道はただおいしく飲むだけなら茶道ではありません。もともと 坊主の眠気覚まし、薬として伝来したお茶に作法は必要ありませんが お茶に悟道を求めたために茶道が創造され、千利休のような人が生まれたのだと思います。


敵を知り己を知らば百戦危うからず。相手の大小、力の強弱、男か女か、性格は、等全て相手の条件はちがうのが当たり前。(敵)相手を知り己を知らば百戦危うからず。つまり相手によって技は微妙に変えて対応しないと技はかからない。だから、たくさんの人と稽古をしないと上手くならない。技術的な面ではそうですが、長く楽しく続けるためには、楽しくなければ自然に足が遠のく、それは人間関係、仕事なら仕方なく自分の役柄を演じて我慢して調和がとれても、趣味の世界での優先順位は「非日常の世界に身を置くことでリフレッシュ」すること。ある程度共通の目的を持っている人が多いこと。「強くなるより上手くなる」が里見道場、そうで無いと長続きできない。せめて、毎日稽古をしている道場なら、相性が合わない人を曜日で避けることも可能ですから探してみるのも良い。里見道場も夜の稽古は少数になったため火、金、土曜日になってしまいましたが、希望者が多数出てくれば復活します。朝と午前は水、金、土、日の稽古は通常です。

今日の合気道が一番影響を受けた武術に大東流合気柔術がある。初期の記録を見ると植芝開祖が大東流を教授していた時代がある。技の基本は今日の合気道に非常に近いと思われる。しかし最大の違いは術と道の違い、術は勝つための技術です。術はとにかく勝つこと。しかし、強いだけでは駄目だということになり、そこに和合の合気道が生まれました。道とは武道を通じて人格向上を目的とすること、しかし武道の武は戈と止める漢字で出来ている。戈とは昔の剣です、止めるは盾〔たて〕攻撃を止めることですから止める術と人格向上が同居していると考えるべきです。開祖無き現在は合気道の理念や体系を大切にしながらも色々な武術、武道等を参考にしながら再構築せざるを得ない。だれでもが納得のいく理合の追及。生半可な技は反撃され死にも通じる。昔の武術家は見せることが教えること、解説(詳しく教える)などしたら反撃技を研究されると警戒していたとのこと。中途半端な技がまかり通っている昨今の武道界に疑問を呈する人もいるそうです。

合気道の演武を見学する。他人から聞く、実際に道場に行き体験する。数回の体験入門する。体で感じることが理解するのに良い方法だと思う。この指とまれ方式ばかりの道場は?、受けへの注文ばかりは?、技を受けて、痛いと感じるのは?

力を抜けば力が出る。無意識になればひらめきが生まれる。合気道の稽古は脱力を求める稽古。今年の課題は脱力。

本年もよろしくお願いいたします。