合気とは 植芝盛平合気道開祖はつまり気じゃよとポーンと投げ飛ばして見せたそうですが、気という概念が「曖昧模糊」では、指導者としては「話にならない」

 私が道場生に対しての説明について書いてみます。日本で最初に合気について記述されているのは(所説あると思いますが)、平安時代の京八流(武術)のひとり、鬼一法眼の「合気について」です。揺れる松葉をたとえとして「松葉が風に揺れている。松葉は揺れようと揺れていない、風は揺らそうとはしていない、結果として揺れている、つまり、それが合気」

 西洋風に説明すると、イソップの太陽と風のたとえ話。風が太陽に勝負を挑む。あの旅人のマントをはがせたほうが勝ちだ。まず、風が突風を当てて旅人のマントを吹き飛ばそうとするが余計体に巻き付ける。次に太陽が心地よい暖かな気温で覆う。すると旅人はマントをとって気持ちよさそうに座り込んだ。旅人は自分の判断で行動を起こしただけ、合気道は受けと取りで稽古が成立する。受けは取の合わせ鏡、受けに対して注文していては上達はできない。

 茶聖の千利休は「茶の湯とはただ湯を沸かし茶をたてて飲むことと推して知るべし。」なかなかこの境地には至れませんが、この言葉には力みがまったくありません。すべての芸事の極意は力みの取れた自然の境地と考えます。外国伝来の

仏教も禅哲学として取り込んでしまう「神道」は自然崇拝だから喧嘩にならない、力みのない日本人の和の精神のたまものと思います。

 私が合気道を愛する理由は「戦い、試合」が無いこと。勝ち負けにこだわることが嫌いだから。武とは鉾を止める。鉾と鉾の戦いを表していない。