へっぴり 腰 及び腰 腰ぬけ 腰が引ける 粘り腰 腰がある 腰を伸ばす 粘り腰 弱腰 他にもあると思いますが腰は月(体)と要(かなめ)で体の部分で一番重要なところと考えられています。腰は腰骨が大切です。武道は腰とそれに連なる尻と腹を中心に動いていれば理想の動きになります。動作の順番は尻が動けば膝が動く、膝が動けば腰が動くと言うことが大切だと私は考えています。もちろん丹田は大切です。
孤独とは、精神的なよりどころとなる人や、心の通じあう人などがなく、さびしいことだそうです。「自分がひとりである」と感じている心理状態を孤独感と言うそうです。合気道の稽古中にもしも孤独を感じ、楽しく無いと感じた場合、合気道が向いていないかもしれません。上手さよりも強さを求めている人は他の武道を探し適した武道を探すべきです。合気道は奥が深い武道と感じた人は孤高の人になれる人と思います。自身の考えや信念を貫き、ただ一人でその道を突き進むべきですが仲間と共に探求するほうが良い結果になると思います。守破離(しゅはり・師範の技を会得する・自分の工夫を加え改良する・独立する)は日本独特の伝統ですが、離 してから我が道を進む孤高の人になれるのではないかと思います。孤高の人は決して孤独ではありません。「これは私の個人の意見です。」
上泉伊勢守信綱は安中城攻めの際に、安中左近大夫忠成に一番槍をつけ、これを討ち取って「上野国一本槍」の感状を受けるなど信濃や甲斐にも聞こえた実力者で、箕輪城〔高崎市箕郷町〕落城後武田家の誘いを断り、武芸者として頭角を表し、足利将軍も門下とし、徳川の剣術指南役の柳生家の柳生新陰流の元となった柳生新陰流の祖であり、現代の剣道にも繋がる大変な人物ですが地元では名前は有名だが功績について知っている人は少ない。当時近畿第一と言われていた柳生宗厳と伊勢守の弟子の疋田文五郎との立会いは圧倒的な差で(疋田文五郎)上泉新陰流の勝利で上泉伊勢守と手合わせすることもできないで終わってしまった。その縁で将軍足利義輝、義昭二代の師範として天下一の称号を得ることとなりました。その後日本の武道の元を訪ねると6~70%は信綱の新陰流に繋がっていると言われています。里見道場は秀綱が境内で修行した東向八幡宮(武田侵攻前は箕輪城内、後に移転)を道場の守護神としています。
合気道の稽古は技を通じてお互いの体を練りあう鍛練法と考えています。その方法として接触部(手首等握られる部分)を動かさないで体を中心に動かすことでお互いの力が抜けます。柔道や空手等の試合形式の格闘技経験者は力感を優先する人が多くリキミ体質になっているので合気道の稽古には向かない人が多いと感じます。頭では分かっていても長年の習慣を変えるのは大変なので努力が必要です。私は合気道の稽古のたとえ話として「二本の割りばしにつけた水あめを練る」つまりお互いがある程度体全体のリキミを無くして練りあうことが合気道の稽古になると思いますのでがっちがちの体での稽古は楽しくないし稽古になりません。合気の練体づくりには程遠い稽古になってしまうと思います。
夏の稽古は修行に近い、本来道場は修行の場所です。修行とは行を修する場所、行とは①悟りをめざして心身浄化を習い修めること。仏道に努めること。② 托鉢 (たくはつ) ・巡礼して歩くこと。「全国を修行する」③ 学問や技芸を磨くため、努力して学ぶこと。「武道等を修行する」「武者修行」だそうです。しかし、現代社会においては艱難辛苦が良いとは思いません。一般社会人には適当をお勧めします。
クーラーと扇風機の道場で休憩を入れながら稽古をする道場(里見道場)があっても良いと思いますが、こんな道場は道場では無いと怒る師範もいるかもしれません。なぜかここ(道場のある)の地名は「行力」です。江戸時代は修験者が修行した場所で、泉も湧いています。道を隔てた、となりの地名が道場(時宗の寺の敷地内)です。地元の人はすんなり受け入れてくれました。
合気とは相手の力を無力化すると言うこと、これは、武道の極意です。相手の脳を無力化する。それが相手の力を無力化することになります。
触れた瞬間に相手が意のままに操れ、そして控えることです。相手の力を無力化する基本の第一は自分の中心線をしっかり作りあげることです、そして、「正しい方向すなわち自分と相手の中心を合わせる」ことです。技が効かない理由は撞木の足が正しくない、手の開きに問題がある。中心線がしっかり安定していない〔姿勢が悪い〕。体が固まっている〔力んでいる〕。相手に体が向いていないなどですが、これは初心者のうちから体に叩き込まなければなりません。無力化の第一段階は相手の力の流れを感じて、ぶつかり合いを避ける、そして円の原理で導いて行けば大きな力は必要としなくなります。合気道の稽古のほとんどがこの稽古と言えます。第二段階は相手の体のどこからでも相手の中心軸を感じて触れて中心軸を崩し、相手の内部から無力化して倒します
無言の言葉、言外の言と言う言葉があります。心理学では身体言語と表現しますが、これを察して行動に移すことが「察しの良い奴だ」と認めてもらえます。それができない人はバカ、間抜けの人間と評価されてしまいます。合気道の稽古は無言で行われます、無意識のうちにお互いが「察し」の稽古をすることになります。お互いが楽しい稽古をするためには察しが大切なのは理解できますが、受けが気を使いすぎると武道から舞踏になってしまいますので難しいところです。ぶとうでは踊りです。
料理とは食材を理にそって科学することです。合気道は理にかなった合氣でなくてはならないはずです。指導する自信がある人は説明には理に基づいて無理をしないように理解させてください。けっしてひねり倒したり、力ずくで倒したり、相手を傷つけるようなことはしてはいけません。稽古ではうまく倒せない時に後輩の受けに都合のよい注文をつけないように心がけるべき、そして相手の技量に合わせて受けてあげること、例えば座取り呼吸方で脇をしめてわざと倒れてやらないのは大人げない行為だと思います。正しいという漢字の上の一を取ると止まるになります。理が無いと技が止まり力で制することとなると漢字は暗示しています。
かつて、大先輩が言っていた言葉に「三段になると勝手に上達する」、この言葉はおそらく、合気道の頭になるために時間と稽古が必要だと東京の本部言道場で言われていたのだと思います。しかし、私の周辺の合気道愛好家の人達は相変わらず「自分の頭で創意工夫」するのでは無く、青い鳥(達人)を探し回っているように見えます。自分が気づいた合気は直ぐに身につきますが、人から教えられたことは何度も繰り返して身につけないとよほどの天才でないと身につけることはできないと私は思います。(青い鳥はおりません青い鳥はあなたの中にいます)私は二段で公共の教室(無料)に指導員として参加、四段で教室を開きました。
本部道場からパワハラの例とセクハラの例を羅列した注意文が届きました。読んで感じたのは、「なんでいまさら」と感じたのは私だけでしょうか。過去を振り返るとこの例文などたいしたことでは無かったことを思い出します。あえていまさら言いませんが。ただ、一言遅すぎます。本部に不条理な例の報告があったなら「指導者」への注意勧告、指導者不適格者とする何かが欲しいと思います。昇段、昇級の審査の資格は練習生にとっては、会社の人事権と同じです。大げさに言えば、昇級、昇段を切に願う人にとっては生殺与奪の権になり得ます。無理難題に従うしかありません。遅きに失していますが合気道人口増加のために私を含めて昇級昇段の権利を持つ指導者は「和合、調和、結び、気配り等」の武道であることを肝に銘じて努力したいと思います。