合気道の欠点は試合が無いこと、とくに気になるのが指導者が陥りやすいことに唯我独尊がある。反撃されたことが無い指導者が結構いる。理の無い合気道は反撃できる。つまり返し技がある。裸の王様に限って、武道として できていないのに話術には長けている人が多い。試合が無い武道ほど謙虚な心が大切。自分のやることを忖度する受けをいつも選んでないで試合のある武道家を相手に研鑽を積むことが良いと思う。


夏の稽古は修行に近い、本来道場は修行の場所です。修行とは行を修する場所、行とは①悟りをめざして心身浄化を習い修めること。仏道に努めること。② 托鉢 (たくはつ) ・巡礼して歩くこと。「全国を修行する」③ 学問や技芸を磨くため、努力して学ぶこと。「武道等を修行する」「武者修行」だそうです。しかし、現代社会においては艱難辛苦が良いとは思いません。一般社会人には適当をお勧めします。

クーラーと扇風機の道場で休憩を入れながら稽古をする道場(里見道場)があっても良いと思います。

なぜかここ(道場のある)の地名は「行力」です。江戸時代は修験者が修行した場所で、泉も湧いています。道を隔てた、となりの地名が道場(時宗の寺の敷地内)です。地元の人はすんなり受け入れてくれました。雨にも負けず、夏の暑さにも負けぬ、丈夫な体を作りましょう。

  

一休さんのアニメで「ひとやすみ、ひとやすみ」というフレーズがある。禅語の中に「七走一坐」と「一日一止」という言葉がある。「七走一坐」とは、七回走ったら一度は坐(すわ)れという意味です。ずっと走り続けていないと仲間から後れをとってしまう、ついつい私たちはそんなふうに考えてしまう。しかし、長い目で見れば、ずっと走り続けることは良いことではない。しばらく走ったら休息をとり、自分の走りを見直すのが賢明だと思う。「一日一止」とは、一日に一回は立ち止まりなさいという意味です。ずっと歩き続けるのではなく、一日に一回くらいは自分の歩き方を見つめ直す。そうすることで、正しい歩みをつくっていくことができる。「一止」という字を見てみよう。「止」の上に「一」を乗っけてみると「正」という字になる。一日に一回、止まって自分を省みることは正しい。合気道の上達方法にも参考になる。がむしゃらにただ稽古をすれば良いとは思わない。演武会の後に自分の記録動画を診て反省するのも良い。昨年と同じ失敗をしている人が数多く見受けられます。


 


  

 
殴る、掴む、蹴る、突進他攻撃の種類はたくさんあります。

相手の掴(つか)もうとする気持ちを掴まなければ自然な技に移行することはできません。相手の気持ちを操ること、相手の気持ちを察することは武道の極意であるとともに商売や仕事においても重要です。手じからで相手を掴んではいけません。抵抗されるだけです。先生の中には俺の気持ちを察して受けをとれと指導している人もいますが、裏を返せばこの言葉は俺に合わせろ、忖度しろと言っている ご都合主義の先生達が良く使う言葉です。道場生の心を鷲づかみにするには、透明な力(力を感じない力で崩す)を持つべきです。これができるかできないかでプロとアマに分かれます。また、相手と対峙したときの心境について 禅を求める武人が多いのは「明鏡止水 無 泰然自若 無我の境地」等を求めてのことでしょうが、オリンピック選手の活躍を観ていると他の人より熱心に努力していなければこの無の境地(ゾーン)には至れないようです。ああしよう、こうしようと考えているようでは まだまだ 稽古が足りない。

 
良い波動やオーラを出すには明るさと同時に、相手に何かを与えるという気持ちや態度がポイント、つねに相手に喜んでもらえることを考えることが大事だと思います。相手を喜ばせたいと思い、喜ぶ顔をみることが自分の楽しみになる。それ以上の見返りを求めていませんから、どこか潔い清々しさがある。たとえ相手から帰ってこなくても、不思議なもので別の所からいい話が舞い込んで来て、仕事や収入に結果的につながったりするものです。逆に自分の利益ばかりを追い、相手から何かを得ようとか奪おうと考える人は、長期的な人間関係が作れません。最初こそ調子の良さで付き合っていても、底が見えてしまうのでやがて離れて行ったり、喧嘩別れのような形で長続きできない。明るくいつも笑顔であること。自分の利を優先するのではなく、相手に与え、喜ばせることを考えること。この2つを肝に銘じて日々の生活や人間関係で実践できれば、仕事もお金も自然に良い循環ができあがる。合気道の稽古も同じ

私はどうに説明したら理解してもらえるか色々と試すことで、より良い方向に進むはずと思い説明を変えることが良くあります。説明を受ける側は技が変わったように思う人もいるようですが、多方面から(剣や杖、小太刀等)一つの技を見ることで別の技を見るように感じることがあるようです。物事を見る基本は多方面から観察すること、師範の上半身ばかり見ていてはだめ、下半身だけもだめ、掴まれている腕だけもだめ、全てを見切ることが大切ですが道場での見取り稽古だけでは無理だと思います。山本五十六の有名な言葉である「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」この言葉は合気道の指導にも参考になると思います。
   
 

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受けの取り方が、非常に硬い人〔すぐ力んでしまう〕、わざと力を入れて崩れまいとする人がいます。無意識に後ずさりして力点を外す人もいます。確かに、業を掛けて相手が崩れないのは掛け手の未熟であることに違いはありませんが、あくまで稽古ですので、正しい理法の追及でなければなりませんが、未熟な人にとって、力点を外されることは たまったものではありません。稽古にならないからです。業を掛けられている人は相手の弱点、まずいところがよくわかるものです。「例えば座取り呼吸法の稽古を私とやった場合、私が本気で抵抗したら稽古になりません。」それでいいのでしょうか、答えは違うと思います。倒れなければ私を恨んで帰って行くと思います。「稽古は基本的にゆっくりやっているので抵抗しやすい、逃げやすいこともあります」全部倒れることは相手のためにならないし、倒れなければ気分を害して恨んで帰って行くと言う事です。「正しい倒れ方とは、相手にもしスキや未熟な点があればここは直したほうがいいよということを伝え、倒れてやることです。わざと体を硬くして抵抗するのは、自分にとっても、相手にとっても良いことではありません、あくまで合気道は理合の追求です、力を抜くところは抜く、入れるところはいれる、全部抵抗するなとはいいませんが、せいぜい一回の業の稽古で1回程度で十分です。」合気道は試合がありませんので稽古の姿勢次第で進歩が違います。稽古の時間だけは真剣な気持ちを保持してお互いに違和感の無い和合の合気道を稽古してほしいと思います。

稽古照今とは昔の達人を参考にして稽古を重ね、その域を超える。そして自分独自の境地に至るように努力する。

小堀遠州はあらゆる芸術の達人でした。遠州流の茶道の精神は「稽古照今」です。里見道場に祖父(里見治平)の書を展示しています。

この書の意味をかみしめて稽古をしてください。


習い始めて最初の頃、ふと思いついて妻を相手に合気道の稽古をしていたら、妻からこういう風に受けろと言う要求が多すぎると疑問を投げかけられて困ったことがある。その時はこういう稽古の方法だと説明したが、実際には受けにあまり要求するのは武道では無いことに気がついた、今まで全く武道と逆のことをやっていたのではないかと思うようになり、この時から稽古方法は一変した。受けに対してこうに受けろ、力を抜けと言い過ぎるのは武道では無い、健康体操や踊りになってしまう。片手取りの裏技の時、必死に低姿勢で掴んでいかないと怒られるので掴む努力が先になり、これが不自然だという事に疑問を持たなくなってしまった。いつまでもこんな事をしていたのでは……お互いに相手の中心を結ぶ稽古はもちろん大切、稽古方法はいろいろですか゛今は受け〔相手〕にあわせることが中心の稽古をしている。