喜劇 眼の前旅館 -44ページ目

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

坂野信彦『七五調の謎をとく―日本語リズム原論』が図書館にあると分かったので借りて読みました。これは短歌やってる人は読んどいた方がいいと思いますね。同じ著者の『深層短歌宣言』がその題名どおり短歌の“深層”に降りようとしてややオカルトがかってたことを思うと、肩透かしなくらい“表層”にとどまってる論考なのが爽快でした。表層っていうのはつまり、言葉そのものの現場に踏みとどまってるってことで、薄っぺらいって意味じゃないですよ。本としては正直後半単調でだいぶ飛ばし読み。でもそのストイックさがこの本を使える本、にしていると思います。目からウロコは確実に落ちるので、あとはその目で何を見るかはご自由に、という本ですね。
昨日不正(?)に入手したある作品について。そういう理由でもあるのでメモ的に。
これは問題作と呼ばれるに違いなくたしかにそうなんだけど、そう呼ばれることが読み手の落しどころになるとこの作品の、どこかに一歩踏み出そうとした片足を上げっぱなしにしてるかのような、そのX個の足の裏から目をそむけることになると思う。だからここはあえてべたに傑作という言葉で誰にともなく釘を刺しておきたい。
これは問題作ではなく傑作です。

さらに言い直すと、足の裏はこれから地面を踏む途中ではないのだと思う。空間で何かを踏んでる。あるいは、何かに足は掴まれている。
勝手に足の動きを予測して地面を読みにいくのはやめろ。視線を下げるな。
地面に最初から書いてある文字を得意げに読み上げるな。
と、これも追加で誰というわけでもないみなさんに釘を刺しておきたい。
今年になりました。今年も連作をこのまましばらく書き続けるつもりで、現在のところ三十首でまとめる見当のもの二つがほぼ出来ているところです。その後も「自転車用迷路集」という枠内でいけるところまでいこうかと思います。同じ場所をくりかえし何度も通って擦り切れさせて、下から別な地が現れてくるのを眺める、ということへの関心が維持されそうな気がするので。
その連作のどれかに入ると思われる一首を。


 消えてった輪ゴムのあとを自転車で追うのだ君も女の子なら
 「助からなくちゃ」  我妻俊樹


住む町は時計の広さがあればいいそれくらい痩せた魂になる

傘立てに花束たてて雨宿りしてるあなたも見ている林

天井がみるみる低くなる意味を不思議な罰として見上げつつ

明け方にかみなり雲の運ぶ雨 どうしてここにいたと分かるの

ペダルから浮かせた足で草を蹴る ヒントの多いクイズがすべて

どの野にも飼い主の声するゆえに親猫くるったように遊ぶ

百年で変わる言葉で書くゆえに葉書は届く盗まれもせず

じゃあまたねとは云うけれどまたはない友だちをやめる途中だから

目の赤い酔っ払いたちいいことを口々にいう花粉のように

坂が坂をよこぎっていき戦場の西のはずれにすべてつながる

たっぷり二人分はあるスーツに身を隠す 私は自転車乗りだから

こんな十年見たことないし変わり果てた君に会うのもはじめてだった

蝶が口から出てこない今何時何分、国道何号線かも訊けない

引越しは徒歩でするので長くなるその行列を分かつ朝霧

アパートの番地はさっき聞いたけどメモしたシャツをあげてしまった

手帳からちぎった紙にあて先と切手 ぼくらのしてきたすべて

今日からは意志のひかりの消えた目で見つめる 浴びたように着飾る

バス停の先の日なたに置いてきたワゴンがとりあえずの目的地

帰るだけなのに浮かれておしゃべりが過ぎたと思うけど黙れない

腋の下に挿んだままで玄関を見てきたらただの風 七度二分
こうして連作のことを考え、且つまた自分でも連作をつくりつつ今日ひさしぶりに斉藤斎藤『渡辺のわたし』を読み返してみたら、すごくスムーズに連作として頭に入ってきたので驚きました。
今までは実はけっこう読むのが難しいなと思う歌が多かったのです。一首として独立して引いても面白さが伝わる歌、が必ずしも多いとはいえないところがこの歌集の(私にとって)難しいところで、そのことは斉藤斎藤という人に私が抱いているイメージとはちょっとずれていたわけです。こういう並べ方をしてくるとはまさか思わなかった並べ方、であり、その戸惑いはずっと解消されないまま現在まで来ていた。
それがさっき読んだ時には突然腑に落ちたというか、はじめて「読めた」という気がしました。
この歌集の歌の収まり方はまさに連作であって、連作以外のなにものでもない。歌葉新人賞受賞作の「ちから、ちから」が私のような連作音痴にもわかりやすく作られていたので、そのつもりでほかの連作を読みにいくとたちまち見失う。ということが起きていたのですが、今読んでみると「ちから、ちから」がちょっと親切すぎるというか、一首ごとに効果的に役割を果たしすぎというか、無駄がなさすぎるようにも見えますね。
この「ちから、ちから」と「父とふたりぐらし」という連作との構成が似すぎている、しかも後者は前者より散漫じゃないかという感想が私にはあったのですが、これも今日読んだら作者がやりたかったのはむしろ「父とふたりぐらし」のほうの緩い複雑さなんじゃないかと思えました。「ちから、ちから」は妥協というか、折り合いつけてああなったのではないかと。
なんだかそんな気がしましたです。