喜劇 眼の前旅館 -25ページ目

喜劇 眼の前旅館

短歌のブログ

書きつつあるものを見失わず、同じ場所にとどめておくために私が時々つかう手は「Aの文体でBの物語を書く」などと決めてから書くというものだ。
A、Bには作家の名前が入る。たとえば以前小説を書くとき「ボリス・ヴィアンみたいな文体でフィリップ・K・ディックみたいな物語を書く」という設定にした。こうするとたとえばボリス・ヴィアンだけ意識することで作品がどんどん狭いところへ入り込んでゆく(単にオリジナリティがなくなるという問題でなく、モノマネ歌手が地声を殺してるような表現の幅を奪われた、苦しい袋小路に向かう感じってありますね)ことが避けられるし、複数の作家をなんとなく旗のように意識するだけというよりはずっとやるべきことの輪郭がくっきりしてくる。文体と物語という座標でチャート化していったん自分の外に平面があらわれることで、意識と言葉の動きに自由がもたらされるというか。書くことは動くことでもあるので、書きながらピンで一点に留められてるわけにいかず、動きながらそれでもある場所にとどまり続ける必要があるわけだから、このやり方は有効だ。


だがこのやり方が実際うまくいったと感じることはけっこう少ない。
なぜだろうと振り返るに、「Aの文体でBの物語を書く」のAとBの組み合わせの相性がなかなか難しいのかもしれない。この場合の相性というのは、その両者の相性であるとともに、私という場においてその二人の作家が出会う場合の相性、ということになる。いくらすごく面白そうな、いい化学反応を起こしそうな組み合わせが見つかっても、書くのは私だから私がいい触媒になれなきゃうまくいかない。だからAとBに私も加えた三者の関係の問題なんだけど、私には私がよく見えないからAとBの組み合わせだけで判断し、やってみてはじめてうまくいくかどうかが分かるというわけ。で、たいていは失敗に終わる。
ヴィアンとディックの組み合わせが(一応)うまくいったのは、この二人の作家が似ていると私が思っているからだ。それは誰もが似てると思うほど似てるわけじゃなく(似てるという評は読んだことがない)、私が似てると思い、その似てると思う部分がすごく好きでもあるという条件が味方した。その一点において強烈に結びつきつつ、しかしその他のとくに表面的なところは全然違う。ということが理想的な交差とすれちがいによる空間の広がりを生んだのではないかと思う。
そういう組み合わせがもっと発見できないかと思い、考える。
私は自分の書こうとしているものへの想像力がとてつもなく弱い。もちろんそれなしに書きはじめることはできないはずだが、そんな想像力はすぐにしぼんでしまうか、間違った伝言リレーのように書きながら輪郭がぐずぐずにくずれてしまう。

私の想像力が力を得、頑丈な輪郭を得るのは、書いたものがどこか具体的な場所で人目にさらされていることを想像したときだけだ。

だから公募新人賞の応募にはいつもはげしくとまどう。読む人として、読まれる場として想像力のターゲットをどこに搾ればいいかわからないからだ。
いちばん想像しやすいのは受賞後の掲載誌とその読者だけど、そこへいくまでに下読みや編集者や選考委員という読者がいてそのどこでストップがかかっても掲載には至らない。と思うと気が散って全然想像にひたれないし、これらすべての「読者」とその読まれる場を想像しようとしてもあまりに複雑だし不透明で想像力はしぼんでしまう。(私の想像力は不透明なものには働かないらしい。)

具体的な読者と場所に想像力を縛られることで刺激にする方法をさがすべきだと思う。
またメルマガでも出すか。それとも印刷物じゃないと駄目なのか。ブログではどうもうまくいかないのは敷居が低すぎるからだろうか。エネルギーの溜めがきかないというか。手書きで書いて画像取り込んでアップくらいの手続きは儀式的に必要かもしれない。
文章は書き続けてないとすぐ書けなくなるし、本も読み続けてないと読み方がわからなくなる。
だけど文章を書いてるあいだは本が読めないし、本を読んでるあいだは文章が書けない。
体が忘れないうちに交互にやればいいようなものだが私は文章を書くのも本を読むのも糞遅いので、なかなか交互にならない。どっちか一方だけで一日が終わり、睡眠というぶっとい区切り線が入れられてしまうので交互感が出ない。
本を読むあいまに何も考えずに手先だけで文章を書き続けてる、という感じをtwitterでやれたらと思ったけどなかなかどんなくだらないことでも書くとしっかり読み返してしまい、瞬時に体が文章の外に戻っていかないみたい。PCで書くからいけないのかな、PCは重いから(存在の重さという意味で)。
あとなんでgooブログはtwitter貼れないのかといいたい。gooブログは貼れるブログパーツが少なすぎるしデザインも気に入らなすぎる。デザインはbloggerがいい感じのが多かった気がするけどトラバ打てないんだよなたしか。べつにいいかトラバ。引っ越すか。
まだ『1973年のピンボール』を読み終わってさえいないのだが、村上春樹もまた垂直方向への文章で小説を書くタイプの作家だろう。少なくともそういう小説も書く作家であるとはいえると思う。
いいかえれば描写のない小説を書く作家だということだ。ただ、描写のない小説が必ずしも垂直方向への文章で書かれているとは限らない。描写というのは、あくまで水平方向へ向う文章の中で時間を停滞させるという技術である。
いうまでもなくストーリーは水平方向へ流れていくものだが、そこでストーリー内の一点(描写対象)に言葉を折り重ねるようにして流れを停滞させるのが描写だ。だから描写はストーリーの水平の流れの中に相対的に垂直方向への意識を生じさせることになる。描写がなくてもストーリーは成立する。ただしそうした小説はリーダビリティの高さとひきかえに通俗的という印象を与えるものになる。
村上春樹の文章には描写がないが、なぜそれで「文学」として成立するのかといえば春樹の場合は垂直を向いた箴言的・詩的文章で書かれているからだと思う。
だがこのタイプの小説も、小説である以上は水平方向への流れを何らかのかたちで確保しなければならない。垂直方向に向いた文章群を水平方向にまとめ上げているものが、村上春樹の場合はナルシシズムなのではないかというのが私の仮説だ。おもに直喩という方法とともに読む意識へ突出してくる村上春樹の文章は、それらがすべて小説に一貫するナルシシズムから発せられているように見えることで、このタイプの文章にはまれな強固な水平方向の安定感を獲得している。
垂直タイプの文章でここまで通俗的といっていいほどの安定をうるためには、これくらい臆面もなくナルシシズムを発揮しなければバランスがとれないということかもしれない。ここまで極端なものでなくとも、垂直タイプの文章とナルシシズムの相性はたしかに非常にいいような気がする。垂直方向へ意識を持ち上げる文章が好きだがナルシスティックな小説の嫌いな私は、この点についてはなるべく多くの例外を見つけたいと願う。ウィリアム・バロウズというのが例外のひとつの極限形になりそうだが、あれはほとんど普通の意味での小説ではなくなっており、逆側から村上春樹的なものの正しさを補強しかねない存在である。つまりナルシシズムを一掃するとこうなってしまうのだというように。
箴言的・詩的文章を小説としてまとめあげるものとして、ナルシシズムに代わるものは何かないのだろうか。
魅力的な仕事場は避けるべきである。部屋には眺めなど要らない。そうしておけば、想像力は暗闇の中で記憶に出会うことができる。
(アニー・ディラード『本を書く』柳沢由実子訳)


語られている内容への共感は必ずしも内容そのものがもたらすものではない。
詩的な文章や箴言的な文章にある圧縮感、折り畳まれ感は読んだ者の中でばねのようにはじける準備がそこにあることを意味している。
上記の引用が深く心に残るとすれば、ものを書こうとしたことのある誰にとっても共感できる内容が、ばねの力で弾丸のように飛び込んでくるからだ。そしてそれは的を外すことがあるし、ばねが不発に終わることもあり、ひとつひとつの弾は命中してもそれらが読者の中でまるでつながりをつけないこともある。
私のよくいう「垂直方向に効く文章」にはそういうしくみがあると思う。それは文章でありながらまるで文字や単語のように本のページにひとつの点を穿っている。銃口みたいなそれを覗き込むとき読者はページをめくることをやめて立ち止まる。点(文字)が線(文章)をつくり面(ページ)をなし、面が重なって立体としての本が現れるというあたりまえの流れからそれは外れている。
垂直的な文章はほんとうは本という形に向わないものであり、にもかかわらず(文章の生理の外にある力によって強制され)本になった時、それは輪郭が手のひらの中でつねにくずれてゆく砂の本のようなものになるかもしれない。読み終われないたぐいの本だ。