魅力的な仕事場は避けるべきである。部屋には眺めなど要らない。そうしておけば、想像力は暗闇の中で記憶に出会うことができる。
(アニー・ディラード『本を書く』柳沢由実子訳)
語られている内容への共感は必ずしも内容そのものがもたらすものではない。
詩的な文章や箴言的な文章にある圧縮感、折り畳まれ感は読んだ者の中でばねのようにはじける準備がそこにあることを意味している。
上記の引用が深く心に残るとすれば、ものを書こうとしたことのある誰にとっても共感できる内容が、ばねの力で弾丸のように飛び込んでくるからだ。そしてそれは的を外すことがあるし、ばねが不発に終わることもあり、ひとつひとつの弾は命中してもそれらが読者の中でまるでつながりをつけないこともある。
私のよくいう「垂直方向に効く文章」にはそういうしくみがあると思う。それは文章でありながらまるで文字や単語のように本のページにひとつの点を穿っている。銃口みたいなそれを覗き込むとき読者はページをめくることをやめて立ち止まる。点(文字)が線(文章)をつくり面(ページ)をなし、面が重なって立体としての本が現れるというあたりまえの流れからそれは外れている。
垂直的な文章はほんとうは本という形に向わないものであり、にもかかわらず(文章の生理の外にある力によって強制され)本になった時、それは輪郭が手のひらの中でつねにくずれてゆく砂の本のようなものになるかもしれない。読み終われないたぐいの本だ。