まだ『1973年のピンボール』を読み終わってさえいないのだが、村上春樹もまた垂直方向への文章で小説を書くタイプの作家だろう。少なくともそういう小説も書く作家であるとはいえると思う。
いいかえれば描写のない小説を書く作家だということだ。ただ、描写のない小説が必ずしも垂直方向への文章で書かれているとは限らない。描写というのは、あくまで水平方向へ向う文章の中で時間を停滞させるという技術である。
いうまでもなくストーリーは水平方向へ流れていくものだが、そこでストーリー内の一点(描写対象)に言葉を折り重ねるようにして流れを停滞させるのが描写だ。だから描写はストーリーの水平の流れの中に相対的に垂直方向への意識を生じさせることになる。描写がなくてもストーリーは成立する。ただしそうした小説はリーダビリティの高さとひきかえに通俗的という印象を与えるものになる。
村上春樹の文章には描写がないが、なぜそれで「文学」として成立するのかといえば春樹の場合は垂直を向いた箴言的・詩的文章で書かれているからだと思う。
だがこのタイプの小説も、小説である以上は水平方向への流れを何らかのかたちで確保しなければならない。垂直方向に向いた文章群を水平方向にまとめ上げているものが、村上春樹の場合はナルシシズムなのではないかというのが私の仮説だ。おもに直喩という方法とともに読む意識へ突出してくる村上春樹の文章は、それらがすべて小説に一貫するナルシシズムから発せられているように見えることで、このタイプの文章にはまれな強固な水平方向の安定感を獲得している。
垂直タイプの文章でここまで通俗的といっていいほどの安定をうるためには、これくらい臆面もなくナルシシズムを発揮しなければバランスがとれないということかもしれない。ここまで極端なものでなくとも、垂直タイプの文章とナルシシズムの相性はたしかに非常にいいような気がする。垂直方向へ意識を持ち上げる文章が好きだがナルシスティックな小説の嫌いな私は、この点についてはなるべく多くの例外を見つけたいと願う。ウィリアム・バロウズというのが例外のひとつの極限形になりそうだが、あれはほとんど普通の意味での小説ではなくなっており、逆側から村上春樹的なものの正しさを補強しかねない存在である。つまりナルシシズムを一掃するとこうなってしまうのだというように。
箴言的・詩的文章を小説としてまとめあげるものとして、ナルシシズムに代わるものは何かないのだろうか。