たとえばセクハラに反対の理由 | 喜劇 眼の前旅館

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短歌のブログ

その存在に触れると私がはげしく嫌悪感をもよおしてしまう三大人格はナルシスト、ストーカー、セクハラーであるが、それはこれらの人格と私自身が遠く隔たっていることを意味しない。ある意味において私もまたナルシストであり、ストーカーであり、セクハラーであるだろう。
この三大人格への嫌悪は、結局のところただひとつのことを意味しているのではないかという気が近頃してきた。
『ナルシスティックな人格』(矢幡洋著)という本を読んだら、ナルシストの特徴は自己評価が高すぎることだと書いてあった。具体例としては監禁皇子や田中康夫などが挙げられていたが、とくに監禁皇子的な人(監禁してる人ではなく、不気味な自己陶酔をみせつつ他者からの賞賛に飢えてる感じの人)はネットで昔から時々見かける(綿矢りさ「インストール」でチャットルームに来て粘着する「聖璽」というキャラクターがすごくイメージ)し、お近づきになる機会があれば冷たく接してきたと思う。ナルシストのうっとうしさは他人の評価と無関係に勝手に自分に酔っておいて、その酔いに見合うだけの評価を後から周囲に求めてくるところだ。つまり自己完結してるようで実はしてない。その気持ち悪い世界につねに他人を巻き込みたがっている。そのとき踏むべき手続きの順番が狂っている(他人の評価以前に自己評価が高騰してる)ために、近づいてゆくとあらかじめ掘ってあった落とし穴に落とされるようにこっちの自由を奪われて手足を縛るベルトつきの客席につかされるような嫌な予感がする。実際に「監禁」してくるようなすごいナルシストにはなかなか出くわさないが、匂いとしてはそういうものを漂わせ、歓迎の笑顔の下にベルトのちらつく人は世の中にけっこう多いものだ。

このときナルシストが用意する客席は、ナルシストが客に対し圧倒的な優位をもって対峙できるレイアウトがなされている。
同じようにストーカーの人々もまたストーキングする対象とのあいだに、自らの圧倒的な優位を保てるような関係を一方的にレイアウトしてくる。ストーカーの優位性とは、たとえば相手の素性や住所や職場などを把握しつつ自らは正体を明かさないことであり、相手には家族や仕事など守るべきものがあるのに自らは何も失うものがないことなどである。つまりストーカーは特定の他人に対し自らの圧倒的な優位を保てるような関係を維持することに執着する。単に相手をひどい目に合わせるというのではなく、ゆがんだ関係そのものへの執着があるわけだ。私の嫌悪ポイントは何よりもまずその点(ゆがんだ関係への執着)にあり、そこがナルシストへの嫌悪と線でつながるのだろう。
この線でたどっていくと一見あまり関係なさそうなセクハラーにもまた、実は同じ嫌悪感のバリエーションが向けられていたのだとわかる。
セクハラーとナルシストは実際かなり似ていると思う。ナルシストが自己評価の高すぎる人々であるように、ある種のセクハラーは自己の性的魅力を高く見積もりすぎた人々であるだろう。セクハラがおもに中年以上の男女の行動として問題視されるのは、それが自らの性的魅力の減少への無自覚によって増幅される周囲との摩擦だからである。同じ行動をまだ若い男女が見せた場合には、同じように周囲に疎まれるにせよセクハラーというよりナルシストという評価を受けていたかもしれないのだ。ナルシストからセクハラーへという道は現実に多く歩まれている道筋のような気がする。

自らの性的魅力の減少、あるいは相対的な低さに自覚のあるセクハラーも存在する(こちらがセクハラーの主流をなしている気がする)が、このタイプはセクハラーの中でも厄介な歪み方をしていると思われる。つまり自らの性的魅力の“低”さに内心気づきつつ、にもかかわらず本質的にはナルシストであろうこのタイプはセクハラの対象となる相手をより“低”いところに置くことで相対的に自らを“高”く持ち上げる。つまり「すました顔してるけど裏じゃあどうせ男とバッコンバッコンなんだろ?ヤリマンの売女のくせにお高いふりしやがって」とか、「男ってほんとにしょうがないわねえ、女と見ればヤることしか考えてないんだから。あんなイヤラシイ目であたしを見ちゃって」とか、相手を想像的に貶めることによって相対的に自らの性的魅力を“高”く持ち上げて評価するという何とも回りくどい回路がここにはあると考えられる。
この回路に(セクハラーの頭の中で)取り込まれるということがセクハラの対象とされるということの意味なのである。単に個別のセクシャルな不愉快な行為があって、それらの集積があるということではない。何か相手の頭の中に張られた蜘蛛の巣にとらわれるような気持ち悪さがここにはある。
ナルシスト、ストーカー、セクハラーという気持ちの悪い三大人格が身近にいるとき、しのびよってくるひそかな危機の予感として共通するイメージがここにはあるのではないかと思う。
かれらは不気味な親密さを発揮して私たちの現実をしたり顔で巻き込むが、かれらが私たちを登場させている舞台は現実のものではない。だから現実の側にいる私たちは彼らと闘うことができないのだ。このもどかしさと絶望感。いっぽうナルシストの・ストーカーの・セクハラーの頭の中にいるあなたを現実のあなたから切り離してしまうこともまた不可能である。かれらが頭の中のあなたのことを考えるとき、視線はあくまで現実のあなた自身に向けられているからだ。頭の中のあなたに話しかけるような気安さでかれらはあなたを訪ねてくる。おそらく別な犠牲者をみつけて身代わりを任せるまで続くだろう、この出口のない関係に取り込まれることを避けるには、かれらである疑いのある者を見かけたらとにかく敬遠しそばに近づかないことに限る。
かれらに私を想像する材料を何も与えてはならない。